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07/27/2009

【演劇DVD】りゅーとぴあ『冬物語』見果てぬ夢、後悔と赦しの劇

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以下、シェイクスピア作『冬物語』のネタバレが続くが、古典戯曲ゆえ、個人的にはネタバレ云々はあまり関係ないと考える。むしろ、この文章を読んで、一人でも多くの人がりゅーとぴあ版『冬物語』、及び能楽堂シェイクスピアシリーズに関心を持ってもらえれば幸いである。


『テンペスト』を見に行ったとき、昨年の『冬物語』のDVDを購入した。その画質チェック程度の意味で、戯曲の第五幕に該当するあたりをパソコンで見始めたところ、Tシャツの襟首が濡れるほどボロ泣きしてしまった。 おかげで、昨年この芝居に強く感動したのは、決して気の迷いではなかったことがはっきりとわかった。

そして、この荒唐無稽な芝居が、何故これほど見る者の心を揺り動かすのか、ようやくわかった。

それはこの芝居が、「後悔と赦し」のドラマを、神話の域にまで達する高みで描ききっているからだ。役者の肉体、台詞、雪の降り続くセット、そしてチャイコフスキーの「舟歌」が渾然一体となり、「こうあって欲しい」という人間の究極の夢を描いてくれるのだ。これで涙が溢れぬはずはない。

夢というと、普通は未来志向の前向きなものを思い描きがちだが、それだけが人間の夢ではあるまい。「何故自分はあの時ああしなかったのか」「何故自分はあのような愚かな真似をしてしまったのか」…生きている限り決して避けられない数々の悔恨、それが一つの奇跡によって赦され、心の傷が癒されることも、人間にとっては見果てぬ夢だろう。人が「過去のことを悔やんでも仕方がない」言うのは、過去の過ちを帳消しにすることは不可能だという動かしがたい現実があるからだ。だが奇跡によって、その現実を動かすことができたとしたら、ほとんどの人は、過去の過ちを正すことにより強い関心を示すのではないだろうか。とりわけ、人生に残された時間があまり多くないことを自覚した人間なら、きっとそうするだろう。
しかもここで起きる奇跡は「死」を超越し、自らの愚かさによって失われた「生」と「愛」を復活させるものだ。人生にとって最も大切な要素である「生」と「愛」を救済する、真の奇跡…それが人間の究極の夢でなくて一体何だと言うのか。

もちろん我々は、このような奇跡が現実世界では起こりえないことを知っている。だからこそ観客は「私を叱ってくれ、石像よ、そうすればお前は本当にハーマイオニだと言える」「この世のどんな正気も、この狂気の喜びにはかなわない」「苦しめてくれ、ポーライナ。この苦しみは、どんな心温まる慰めよりも甘い味がする」というレオンティーズの台詞に深く心をえぐられ、自らの人生で失ってきたものを思い出し、やがて舞台上で起きる奇跡に涙する。それはもはやドラマの域を超え、宗教的とも言える感動を呼び起こす。

しかも、その信じがたいほどの感動は、あくまでもりゅーとぴあの舞台だけに存在するものだ。シェイクスピアの戯曲は、この舞台の感動に遠く及ばない。蜷川幸雄の舞台は、りゅーとぴあ版で涙が溢れて止まらぬシーンが、お笑いの場になってしまっている。舞台上の奇跡で人の魂を揺さぶることは、あくまでも奇跡的な芸術だけが成しうるものなのだ。

それを明らかにするため、とりわけ見事な幾つかの脚色と演出について述べておこう。

この舞台では、元の戯曲では貴族の台詞だけで処理されてしまった、レオンティーズとポリクシニーズ、カミローの再会シーン、そしてパーディタが自分の娘だと知ったレオンティーズが彼女を抱きしめるシーンなどが描かれている。この舞台が、真にとてつもない感動を帯びてくるのは、そこからだ。そのシーンには台詞がない。チャイコフスキーのピアノ曲「舟歌」が流れる中、彼らは無言のまま抱き合い、全てを赦しあう。世界中の誰が何と言おうと、このシーンはシェイクスピアの戯曲の何万倍も素晴らしい。

そして蜷川幸雄の舞台ではお笑いの場と化していたハーマイオニの復活シーン。確かに笑われても仕方のない荒唐無稽なお話だ。それがりゅーとぴあ版では、どうしてこれほど底知れぬ感動を呼ぶのだろう? 
何とこちらでは、後半、能面をつけたハーマイオニをずっと舞台上に登場させていたのである。これによって、ハーマイオニの彫像が人間となって動き出すシーンも、蜷川版でとりわけ笑いを誘っていた「まるで生きているようだ」「だがハーマイオニはこんなに歳を取っていなかった」という台詞も、全てがリアルな説得力を帯びてくる。見る者の心象をそのまま反映する能面の魔力だ。そして1時間近くずっと舞台上にいながら、体を動かさず、生命の気配を消していた山賀春代が、ゆっくりと、本当にゆっくりと時間をかけて動き出したとき、それはもはや「復活」以外の何ものにも見えなくなってくる。こんな、シンプルでありながら最大限の効果を発揮する演出を考え出した栗田芳宏は、紛れもない天才だ。

そしてシェイクスピアの戯曲(および、それを忠実に舞台化した蜷川版)では、ハーマイオニは死後すぐに息を吹き返し、ポーライナに長い間かくまわれてきたことを匂わせる台詞がある。だがこの舞台では、その台詞はカットされ、ハーマイオニの復活は、純粋な「奇跡」として描かれている。それでいい。それだからこそ、この荒唐無稽な物語は、人間の究極の夢を描いた神話となりえているのだ。

そして高まりきった感情を鎮めるかのような、円環構造のラスト。ここもシェイクスピアの戯曲にはない完全なオリジナルだ。
レオンティーズたちが舞台を去った後、ハーマイオニがパーディタに「さあ、話してちょうだい。私の娘。あなたの兄であったマミリアスが、いつか私に話してくれた冬のお話のように、あなたの身の上に起きた長い長い冬の物語を」と求める。そしてパーディタは、「むかしむかし、ある国の王様が…」と話し始める。それは冒頭、マミリアスがハーマイオニに話していたのと同じWinter's Taleである。
ここにはいくつもの意味が含まれている。まず、ハーマイオニは復活したものの、マミリアスは復活していないこと。つまり、復活したものがあると同時に、失われたままのものもあるということ。そして、再び冒頭の話が繰り返されることで、奇跡によって赦されたかに見える愚かな過ちは、しかしいつかまた繰り返されるであろうことを秘かに暗示している。その愚かさは人間の性。人間は、生きていく限り過ちと後悔を繰り返していく。そのたびに人は「完全なる赦し」という夢を求め、叶えられることなく、死んでいかなくてはならない。
この舞台は、人間の究極の夢を描きつつ、それが「究極の夢」であると同時に「見果てぬ夢」であることを描いている。だが、それは人間の愚かさを断罪するような調子ではない。むしろその愚かさ故に人間を慈しむかのような愛が感じられる。

我々は、自らの愚かさ故に他人を傷つけ、同時に自分自身をも傷つけている。全てを帳消しにする「奇跡」は現実には起こらず、「完全なる赦し」も得ることは出来ない。しかし、人は自らの愚かさを認識したとき、ようやく他者に優しくなれる。それによって、他者の過ちに赦しを与え、傷ついた心を多少なりとも慰めることは出来る。それは「奇跡」に比べれば遙かに微力だ。それでも、愛、寛容、自己省察、そして何かを信じる心が、この奇跡なき世界で、人の魂に救済をもたらす唯一の道であることを、この芝居は物静かに教えてくれる。


やはり自分にとって「死ぬ前に見たい演劇」は、このりゅーとぴあ版『冬物語』を置いて他にない。


(2009年7月)

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