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04/30/2009

【演劇】青年団若手自主企画『桜の園』2009.4.9&4.14

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青年団若手自主企画『桜の園』
2009年4月9日(木) 19:30~ アトリエ春風舎
2009年4月14日(火) 19:30~ アトリエ春風舎


チェーホフの『桜の園』に、青年団演出部の西村和宏と青年団の役者たちが挑戦。そこに石村みかがラーネフスカヤ役で客演し、FUKAI PRODUCE羽衣の糸井幸之助が音楽・振付で参加した作品。見る前は期待と不安が相半ばしていたが、これが実に実験的で面白い内容。全面的に賞賛できるわけではないし、欠点も数多いのだが、それを上回る魅力に溢れた作品だった。これまでに見たチェーホフ劇の中でも出色の出来だ。

最も驚かされるのは、普通に上演したら確実に3時間以上かかる四幕劇を、ほとんどカットすることなく2時間足らずの時間で上演していることだ。全体のテンポをスピーディーにしているのはもちろんだが、エピソードや台詞を歌と踊りで表現したり、青年団らしい同時多発会話を用いたり、一人の役者が早変わりで何役も演じたり、物語をテンポ良く進めるための様々な工夫が凝らされている。

一人の役者が複数の役を演じるので面白いのは、あごひげをつけて杖をついたらフィールス、馬のかぶり物をしたらピーシチク、メガネとハゲのカツラ(ドリフターズの加藤茶みたい)をつけたらトロフィーモフといった具合に、特定の小道具を身につけるとキャラクターが変わったことになるシステム。基本的には舞台裏で早変わりして登場するのだが、兼ねる役が同じシーンに出ている場合は、どんどん舞台上で衣装や小道具を身につけるし、下手にいる役者が役を変わる時に上手の役者が小道具を放り投げて渡すなど、その了解事項を笑いのネタにした演出もある。そのバランスがなかなかスマートで良い感じ。

そして本作の最大の特長は、羽衣の振付家による妙ージカル(ミュージカル)シーンが随所に挿入されていること。これが実に素晴らしい。1曲目の「戸棚」という曲だけはまったく魅力が無くて不安になったが、つまらない曲はそれだけで、あとはどの歌も踊りも全て面白い。
白眉は第二幕で石村みかが歌う「電報」と、ラストで歌われるパワフルな「樵」。「電報」は、石村みかの歌唱力が遺憾なく発揮されている。彼女の歌声を聞くこと自体久しぶりだし、ここまで長い歌をソロで本格的に歌うのを聞いたのは初めてなので、感動もひとしおだ。彼女は、第三幕でもトロフィーモフに対する台詞をラップ調に歌っており、そちらも非常に良かった。実に優れたリズム感を持った役者だと思う。
そして戯曲に書かれた物語が全てが終わり、舞台が暗転した後にフィナーレとして始まる「樵」が、大きな感動を生む。先日、ク・ナウカの『オセロー』を韓国の演出家イ・ユンテクが演出した舞台でも、全ての悲劇が幕を下ろした後、突然祝祭的な歌と踊りが始まって異様な感動を生み出していたが、それと極めてよく似た効果を持っている。いくつもの感動的なシーンを持つ芝居だが、このラストは、その中でも最高のものだ。戯曲にはないオリジナルのフィナーレが、それだけ素晴らしかった点だけ取り上げても、今回の上演が極めて優れたものであったことがわかる。

『桜の園』の持つ喜劇性を前面に押し出しながら、悲劇性もバランス良く取り入れた見事なチェーホフ劇。ただし、それと引き替えに失ったものも無いわけではない。
この作品の最大の難点は「人間関係の希薄化」だ。たとえば、この作品においては、ロパーヒンのラーネフスカヤに対する思慕がほとんど描かれていない。最初見た時は、そこにかなり不満を覚えた。しかし2回目の観賞で、演出の西村和宏は、この二人の関係性を、そもそも「愛」という文脈ではとらえていないのではないかと気づいた。ロパーヒンのラーネフスカヤに対する想いは元々非常に秘められたものであり、意図的に強調しないと表面には浮かび上がってこない。だから他の上演でも、この関係性をあまり重視していないものが多い。今回は実際に演じている役者二人の年齢がほぼ同じなので、ヘタに描くと生々しい感じになり、原作のニュアンスとは違ったものになってしまうという問題もあったのだろう。しかし、この関係性をどのように描くかで『桜の園』という物語の見取り図が大きく変わってくるし、もう少し強調した方がより奥深いドラマになったはずだと思う。
他にもロパーヒンとワーリャの関係、トロフィーモフとアーニャの関係など、男女間の愛情については総じて淡泊な描き方。だから第三幕で、潔癖なトロフィーモフがラーネフスカヤを批判し、ラーネフスカヤがラップで「それはあなたがまだ本当の恋をするところまで成長していないからよ」とやり返すシーンも、ドラマ的な盛り上がりは薄い。ただし、その見せ方が前述の通り、ラーネフスカヤのラップで描かれるので、芝居としては実に面白い見せ場になっている。
もう一つの問題点は、テンポの良さを重視するあまり、説明的な描写がほとんどないこと。特に、複数の役を早変わりで演じるところなど、その役柄やストーリーをきちんと知っていれば楽しめるが、戯曲を読んだことのない人間には何が何やらわからないことだろう。つまり『桜の園』という戯曲を知らない人間は門前払いを食わされるわけだ。ただし、これがもっと大きな劇場での上演なら見逃しがたい欠点と言えるが、「アトリエ春風舎で上演される青年団の若手自主企画」という枠を考えれば、『桜の園』を知らない人お断りという敷居の高さも、それはそれでありだと思う。そこを割り切ったからこそ、これだけテンポが良く上演時間も短い『桜の園』が実現したわけだ。

逆に、原作より色濃くなっているテーマもある。「無常観」だ。先述のフィナーレが、その色を決定づけている。全ての悲喜劇が終わり、誰もいなくなった館でフィールスが横たわった後、登場人物が全員登場してパワフルに祝祭的に歌い踊るのだが、「錠がおりている。行ってしまったんだな。わしのことを忘れていったな」「まるで生きた覚えがないくらいだ。一生が過ぎてしまった」と執拗に繰り返す歌詞は哀切さに満ちており、過ぎ去った悲喜劇全てに対する挽歌として鳴り響く。
『桜の園』が書かれたのは1903年。その14年後にはロシア革命が起きている。もちろんチェーホフは革命を目にすることなく1904年に世を去っているのだが、現代の読者も演出家も観客も、その事実を抜きにして、この物語と向き合うことは出来ない。僕がこの戯曲を読み終えるたびに思うのは、作中で社会的・経済的に成功者となったロパーヒンは、後に革命の大波の中でどんな運命をたどったのだろうかということだ。ラーネフスカヤに代表される旧時代の貴族が消え去り、代わりに勃興してきた資本家も次の大波の中で姿を消していく。それからさらに70数年後には社会主義も倒れて再び資本家の時代が訪れるが、昨年から今年にかけて資本主義の矛盾が一挙に表面化し、今度は多くの資本家が没落していくことになる… 作中には直接描かれていないそんな歴史の皮肉に思いを馳せるとき、貴族・資本家・労働者、全ての登場人物が人生のはかなさを大声で歌い上げ、踊り狂い、取り憑かれたように桜の木を切るアクションをしながら暗転していくラストは、この2009年に上演される『桜の園』として、圧倒的に正しい。

その後戯曲をまた読み返してみたのだが、ピーシクやヤーシャ、ドゥニャーシャといった脇の人物のエピソードが刈り込まれているのは当然として、トロフィーモフが語る未来への展望が、かなり軽く描かれていることに気がついた。第二幕には、トロフィーモフが現状の批判と未来への展望をラップ調にアジる妙ージカルシーンがあり、「電報」と並んで、地味になりがちな第二幕を大いに盛り上げている。しかしこのシーン、威勢良くアジテーションを繰りひろげていることはわかるのだが、具体的な歌詞がまるで聞き取れない。それは意図的な演出だろう。トロフィーモフの青臭い理想は、あえて具体的な内容を聞かせるまでもないということだ。
かつて『桜の園』は、トロフィーモフとアーニャに未来への希望が託されているという面を拡大解釈される傾向が強かった。しかし、上に述べたような歴史的経緯を考えれば、今さらトロフィーモフとアーニャの未来に過大な希望を託すのはお門違いというものだろう。この上演から強く感じられるのは、絶望や希望といった感情ではなく、どんなイデオロギーや階級も時代の流れと共に浮き沈みしていくものなのだという無常観なのだ。


役者では、ゲスト出演となる石村みかがずば抜けて良い。ラーネフスカヤの年齢は四十代半ばなのだが、この役は大御所がやる例が多いため、ほとんどの上演で五十代のスター女優が演じている。それによってラーネフスカヤのキャラが堂々とし過ぎたものになる嫌いがある。しかしラーネフスカヤというのは、もっと頼りなげで、生物学的には母親でありながら精神的には母親になりきれず、子供がそのまま中年になってしまったような女性ではないのか。まだ三十代半ばの石村は、そんな「精神的には子供のままの中年女性」ラーネフスカヤを自然に表現していた。第三幕で、ロパーヒンが桜の園を手に入れたことを誇った後 泣き出すシーンなど絶品だ。
また、彼女の女優としての大きな美点は、台詞がなくバックに回った時にも感情の流れがしっかり表現されていることだが、この作品でも、それが遺憾なく発揮されている。たとえば、第四幕の終盤、アーニャが傘を振り上げてロパーヒンが驚き、アーニャが「そんなつもりでは…」というシーン。そこでアーニャを見つめる彼女の表情は、息を呑むほど素晴らしかった。考えてみれば、僕が彼女に惚れ込んだのも、こういった無言の感情表現に魅せられた点が大きかったのだなあ…と、今さらのごとく痛感した。
歌と踊りの素晴らしさに関しては、すでに述べたとおり。はっきり言って他の役者とはレヴェルが違っていた。と言っても、カフカものをはじめ歌や踊りが多い舞台を何度もこなしてきた彼女と、日常的な口語演劇を主体とする青年団の役者を比べるのは、あまりフェアとは言えない。逆に言えば、青年団の役者に欠けている華やかさや外連味を表現できるということで、彼女が呼ばれたのだろうか。
彼女には、今後もラーネフスカヤを持ち役の一つとしてもらい、様々な座組で演じて欲しいものだ。十年後、役柄とほぼ同じ年齢に達した石村が、どんな風にラーネフスカヤを演じるのか、ぜひとも見てみたい。

石村みかの輝きが頭抜けてはいたものの、他の役者もそれぞれに好演。特に良かったのは、トロフィーモフやシャルロッタを演じた堀夏子だ。青年団の芝居で顔は知っていたものの、今回のパワフルではじけた演技は、それまでとは比較にならないインパクトがあった。フィールス、ドゥニャーシャ、ピーシチクなど、最も多くの役をこなした鈴木智香子も功労賞もの。特にフィールス役のとぼけた芝居がなかなかはまっていた。
ロパーヒン役の島田曜蔵は、最初見た時は違和感があったのだが、2回見たら、こういうロパーヒンも、それはそれでありなのかなと納得した。上で述べたように、ラーネフスカヤへの思慕がまったく切り捨てられているのは残念だが、モノポリーを踏みにじって桜の園を自分が落札したと言うことを延々と語る悪役のような芝居は、今までに見たことのないロパーヒン像。しかもその後、「こんなことが早く過ぎ去ってしまえばいい」という辺りで涙声となり、「さあ、楽隊、賑やかにやってくれ。新しい地主のお通りだ」と言うあたりでも完全に泣いている。確かに戯曲のト書きには「涙声で」と書かれているが、これまでに見た芝居では、ロパーヒンがここまではっきりと泣いていた記憶がないので、新鮮な驚きがあった。総じて言えば、彼の演技は、これまで自分が抱いていたロパーヒン像とはだいぶ違うが、これまで自分が見落としていたロパーヒン像を提示してくれたというところか。
ワーリャ役の村田牧子も、1回目はあまりに存在感不足で不満を覚えたが、2回目ではだいぶ役柄を自分のものにした観があり、それなりに納得できる仕上がりになっていた。ただし、こちらもロパーヒンと同様、自分のイメージするワーリャ像とはだいぶ異なっている。やはりワーリャという人は、目先のことに関してはもう少しキビキビと動き回るタイプの女性なのではなかろうか。アーニャ役の長野海と並ぶと、アーニャの方がしっかり者に見えてしまうのは、いささか問題だと思う。これまでに見たワーリャ役者では、チェーホフ好きの間では評判が悪いようだが、牧瀬理穂の演じたワーリャが自分の中で一つのスタンダードになっている。同じ芝居でロパーヒンを演じた香川照之もかなりイメージ通りで、ワーリャ/ロパーヒンの二人に関しては牧瀬/香川の組み合わせがベストだった。


幾つかの問題点はあるものの、若手自主企画としては、そんな未完成な部分もまた一つの魅力である。チェーホフ生誕150周年となる来年に、ぜひとも再演して欲しいものだ。


(2009年4月)

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