【演劇】華のん企画『ワーニャ伯父さん』2009.2.22
華のん企画『ワーニャ伯父さん』
2009年2月22日(日) 14:00~ あうるすぽっと
「子どものためのシェイクスピアカンパニー」を主催する山崎清介が、昨年の『チェーホフ短編集』に続いて、チェーホフの戯曲に挑んだ作品。『チェーホフ短編集』はまあまあ程度の出来だったが、本業であるシェイクスピアの『シンベリン』が非常に面白かったし、『ワーニャ伯父さん』はチェーホフの四大戯曲の中では最も手堅い(失敗作になりにくい)作品なので、最悪でも『チェーホフ短編集』と同じ程度には楽しめるだろうと思っていた。
その期待は大きく裏切られた。山崎清介は、シェイクスピアものは面白いが、チェーホフ劇に関しては全く才能が無いと言わざるをえない。彼はチェーホフ劇の意味や構造を根本的に読み違えているのではなかろうか。
『ワーニャ伯父さん』は、普通に上演すると途中休憩をはさんで3時間程度になるものだが、この上演では全四幕を休憩無しの2時間程度に収めている。そして「子どものためのシェイクスピアシリーズ」同様、枝葉を大胆に省略し、言葉遣いを現代的にして、笑いを強調する手法が用いられている。その方向性自体はいい。問題は、その脚色がまるでうまくいっておらず、あの素晴らしい戯曲をズタズタにしただけに終わっていることだ。
特に大胆な脚色が施されているのは第一幕と第二幕だ。この前半部は、ストーリーのアウトラインこそ『ワーニャ伯父さん』だが、何と台詞の90%以上が書き換えられている。その試み自体を非難するつもりはない。しかし、その書き換えられた台詞にまったく魅力が無く、作品のテーマや登場人物の心理描写をいたずらに混乱させる「改悪」にしかなっていない点は、いくら非難しても余りある。
ところが第三幕になると無茶な脚色は影を潜め、おおむね原作通りの展開と台詞になる。そして第一幕、第二幕よりは遙かにマシなものとなる。結局は原作どおりが一番面白いのだから、前半部の大幅な改悪は一体何だったんだという気分になるのも当然だ。
ほとんどの台詞が書き換えられているので、第一幕第二幕の駄目な点を上げていったら切りが無い。そこで第四幕において特に気になった改悪点を、一つだけ具体的に指摘しよう。
それはワーニャの部屋に貼られた「アフリカの地図」の使い方だ。原作では、ト書きでは「ここの誰にも必要なさそうなアフリカの地図」と明記されており、アーストロフはその地図を見て「今頃アフリカじゃたいへんな暑さだろうな」という台詞を残し、屋敷を去っていく。
この「誰にも関係なさそうなアフリカの地図」とは、目の前の澱みきった現実に疲れたアーストロフとワーニャの憧れの地、「棺桶に横たわるときに訪れる心地良い夢」のシンボルだ。現実のアフリカがそのような理想郷だということではない。自分たちが生きるロシアと対極にある土地、すなわち今の生活を否定して新しい生活を始めさせてくれる見果てぬ夢のシンボルとして、アフリカがあるということだ。だからこそ、そんな地図を部屋に貼っているワーニャや、アフリカに思いを馳せながら去っていくアーストロフの姿が、限りなく切ないのである。
いろいろな解釈はあるだろうが、自分は以前からそのように捉えている。少なくとも、それが「最も感動的な解釈」であることは間違いなさそうだ。
ところがこの芝居において、アフリカの地図はどう扱われているか? アーストロフが「何故アフリカの地図なんか置いてあるんだ?」とワーニャに尋ねると、「アフリカはロシアの次にでかい国なんだ」と答え、アーストロフが「アフリカは国じゃないぞ」とワーニャの無知を指摘する。ただそれだけの小道具に成り下がっているのだ。
原作では、ワーニャは自他共に認めるインテリだったことになっている。「順調にいけばドストエフスキーにもショーペンハウエルにもなれた」かどうかはともかく、相当な知性と教養の持ち主だったことは、アーストロフやエレーナの台詞からも明らかだ。そんな人物が、愛する妹とその夫(セレブリャーコフ)のため、領地の管理人となり、高い教養を何にも活かせぬまま片田舎に埋もれている。ところが妹の死後、その夫は若い美女を後妻に迎え、しかも自分たちの領地を売りに出そうとしている。一体自分の50年近い人生は何だったんだ!…このような話の流れによって、見る者はワーニャの怒りや鬱屈に深い共感を抱くのだ。
ところがこの芝居では、ワーニャはアフリカというのが一つの国だと思い込んでいる。つまり彼は自分で勝手に知性があると思っているだけで、実際には無教養な凡人に過ぎないということだ。
なるほど、そういう無教養な凡人が自分を客観視できぬまま「俺にはもっと輝かしい未来があったはずだ」と思い込んでいる滑稽さや哀れさも、うまく描けば一つの感動的なドラマになるだろう。しかし、この芝居がそれに成功しているとは言い難い。その路線で統一するならともかく、第三幕を原作にほぼ忠実にしたことで、ワーニャのキャラクターや言動がちぐはぐなものになっているからだ。また、その改編に一応の統一があったとしても、どちらのワーニャ像に共感を覚えるか、どちらの物語により感動するかと問われたら、僕は文句なしに「原作通りのワーニャ」だと答える。
このアフリカの地図は、決して最大の改悪ではないし、言わんや唯一の改悪でもない。ほとんど全ての脚色が、この調子なのだ。あとは推して知るべし。
この上演台本と演出ではやむを得ない部分もあるが、役者たちも呆れるほどひどい。各キャラクターに対するイメージは人によって違うから深く追及しないとしても、役の解釈や方向性がバラバラで、一つの物語を形作るアンサンブルがまるで出来ていないのには目を覆いたくなる。
ワーニャ役の木場克己。あれではただの発情した変態オヤジである。どんな運命が降りかかろうが「自業自得だろう」としか思えない。
エレーナ役の松本紀保。エレーナは非常に難しい役で、全体としては成功している芝居でも、エレーナだけはダメという例がほとんどだ。その点を考慮しても、このエレーナの造型は酷すぎる。たとえば「アーストロフの真意を自分が尋ねてあげる」とソーニャに話を持ちかけるとき、何故彼女はあんなにも嬉しそうなのだろう? 心理の流れがまるで読めない。全編においてその調子で、エレーナの心理を読みとろうとすると、その支離滅裂さに頭がおかしくなってくる。自然に男を惑わせるような美貌もないし、彼女は一体何のためにエレーナを演じているのだろう。
アーストロフ役の小須田康人。医者にも見えなければ、森を守ることで未来にわずかな希望を託そうとしている男にも見えない。何よりもアーストロフの「人生に対する疲れ」がまったく感じられない。
セレブリャーコフ役の柴田義之、従僕役の戸谷昌弘、マリヤ役の楠侑子…まったく印象に残っていない。
その中で唯一素晴らしかったのが、ソーニャ役の伊沢磨紀だ。この好演は全くの予想外だった。何しろソーニャは20歳になるかならないかの役柄。いくら何でも伊沢磨紀では歳が違いすぎるだろうと思ったし、事実最初のうちは違和感の方が先に立った.ところがいくらもしない内に、伊沢磨紀がソーニャそのものに見えてくる。特に最後にワーニャに語りかける台詞は見事だ。話にならないほど酷い芝居なのに、最後のソーニャの台詞だけで、何か良い芝居を見たような気にさせられてしまう。それほど感動的な演技だった。
しかしこの芝居で見るべきものは、ソーニャを演じる伊沢磨紀だけだ。それ以外に見るべきものは何も無い。
その後、また戯曲を読み返してみた。チェーホフの中で最も好きな戯曲だが、やはり100年以上前の芝居なので、今となっては無駄なやり取りや冗長なシーンも無いわけではない…実のところ、そう思っていた。
ところが、この芝居を見た後で読み直すと、一見無駄に見えるやり取りや冗長に思えるシーンが実は必要欠くべからざるものであり、それぞれの台詞がどのように物語に関係しているか、目から鱗が落ちるように理解できたのだ。『ワーニャ伯父さん』とは、これほどまでに精緻な構造を持った戯曲だったのか! だから無駄に思えるシーンをカットしたり、台詞を大幅に変えたりすると、全ての構造が崩壊してしまう。
その見地から言えば、この芝居は反面教師という形で、戯曲『ワーニャ伯父さん』の素晴らしさを余すところなく表現した作品だと言える。生半可な創作能力では、チェーホフの作り上げた世界を解体し、再構築することなど出来ないのである。
非常に厳しいことばかり書いたが、これもチェーホフと『ワーニャ伯父さん』を愛するが故のこと。お許しいただきたい。
(2009年3月)
The comments to this entry are closed.
Comments