【演劇】子供のためのシェイクスピアカンパニー『シンベリン』2008.6.28
子供のためのシェイクスピアカンパニー『シンベリン』
2008年6月28日(土) 18:00〜 桜美林大学 PURNUS HALL
この作品、本公演は7月12日からなのだが、それ以前にこの桜美林や早稲田などで公演を行い、その後であうるすぽっとの本公演という段取りになっている。本公演のチケットは買ってあるのだが、この日が一応2か月半に及ぶ公演の初日。家からだと東池袋よりも淵野辺の方が近いし、チケット代も安いので(本公演の4800円に対し2500円とほぼ半額)、とりあえず見に行くことにした。ただしこの日の公演に求めていたものは、いわば公開ゲネプロのような荒削りの内容であり、それが本公演に向けて完成していく様を見るために足を運んだのだ。
ところがその期待は、軽く裏切られた。
とても本公演前とは思えぬ完成度。
あくまでも試演/公開ゲネプロのようなものだろうという予想は木っ端微塵。いくら再演とは言え、配役もかなり違っているわけで、まさかこの段階でここまで仕上げてくるとは思ってもみなかった。おかげで本公演に対する楽しみが半減してしまった…と皮肉の一つも言いたくなるほど見事な出来映えだった。
『シンベリン』は、シェイクスピアの戯曲としてはかなりマイナーな部類に属する。ほとんどの人はタイトルすら知らないし、批評的にも高い評価は得られていない。ところが読んでみると、これがビックリするほど面白い(僕が読んだのは小田島雄志 訳)。何故この作品が、そこまで不当に低い扱いを受けているのか実に不思議だ。
解説や批評をひもといてみると、どうやら「筋が雑然としていて構成が甘い」というのが一般的な意見らしい。個人的には「そうかあ???」と言う他ない。あの雑多なストーリーを、力業で全て落ち着くべき所に落ち着けて大団円に持ち込む展開など、まさにシェイクスピア劇の一つの典型ではないか。それどころか今回の上演を見ていて、「このクライマックスって、アガサ・クリスティや横溝正史などのミステリーで、最後に探偵が次々と事実を解き明かしていく、あの展開のルーツなのでは?」と思ったほどだ(本作の場合、観客には全ての秘密がわかっているので、むしろ倒叙ミステリーのルーツだろうか?)。また、どのエピソードもきちんと現代に通じる内容で、『夏の夜の夢』のように、現代の人間にはあまり意味のないお笑いパートが無いのも高ポイントだ。
メロドラマ性の強さも批判の対象になることが多いらしいが、これはシェイクスピア嫌いのバーナード・ショーが「最も下等なメロドラマのクズ」と呼んだ影響だろう。メロドラマチックであることが、そのまま否定材料になるわけではないし、そもそもメロドラマが苦手な僕が、まったくそういう拒否反応を起こさないレヴェルなのだから、これもたいした欠陥とは思えない。
「シェイクスピアの作品の中でも強引な物語の展開にかけては一番」という文章も目にしたが、シェイクスピア劇で、それも喜劇色の強い作品で、ストーリー展開が強引でない作品が1本でもあるのだろうか。喜劇として評価の高い『十二夜』のラストを許容できれば、この作品の強引さなどまだマシな方だと思うのだが。
また、どこかに「過去作品のネタの使い回しが目立つ」とも書かれていた。なるほどネガティヴに言えば、そう表現できるが、ポジティヴに言えば、だからこそ この作品はシェイクスピア劇の集大成的な面白さに満ちている。『十二夜』のヴァイオラや、『オセロー』のイアーゴーなどが名前を変えて出て来る、シェイクスピア・オールスターズのような作品ではないかとさえ思う。見方によって長所にも短所にも映る部分だろうが、僕にとってはもちろん長所だ。
終演後のアフタートークで山崎清介が、「英語の原文を読める人にとっては、英語の文体などの面で雑さが感じられるのだろう」と語っていたが、手持ちのシェイクスピア ヴィジュアル辞典(原著は英語)によれば「この戯曲には、シェイクスピアの後期作品の中でも、もっとも美しい韻文が入っている」「派手な物語だが、言葉そのものを楽しむ部分もある」「彼らは彼女が少年だと信じており、仮死状態の彼女が自分たちの妹であるとは知らず、すばらしく美しい詩と歌で葬ろうとする」などと書かれているので、必ずしもそうとは言えないのではないか。ただし小田島雄志版の上野美子による解説には「錯雑したプロットや均一性を欠く文体がわざわいしてか、この劇はシェイクスピア一人の筆によるものではない、とする説が古くから根強かった」という一文も見られるので、素晴らしい文章とそうでない文章の落差が激しい可能性はありそうだ。
ともあれ、波瀾万丈の娯楽性ではシェイクスピア作品中でも随一ではないかと思える『シンベリン』。それに対する世間の低い評価には、どうしても納得がいかない。
だからこそ、このカンパニーによる上演を見て喝采を上げたくなった。そこにあったのは、笑いありドラマありアクションあり謎解きあり(?)の一大娯楽絵巻『シンベリン』だった。戯曲として読んで面白かった『シンベリン』は、やはり舞台の上に乗っても面白かったのだ。あの戯曲の面白さを、ここまで舞台上で再現してくれた山崎清介と役者・スタッフたちに感謝する他ない。
このカンパニーは、以前『十二夜』だけ見ているが、それと比べてもこちらの方が格段に面白い。これは演出のスピーディーさとアイディアの豊富さ、そして役者の魅力などがパワーアップしているためだ。特に展開のスピーディーさは特筆に値するもので、15分の休憩込み2時間20分の間、一瞬たりともだれるところがない。しかも目まぐるしい展開や場面転換が続くにもかかわらず、ちゃんとストーリーが理解できる。山崎清介の脚色と演出は、実にツボを得た秀逸なものだ。オリジナルギャグも『十二夜』の時ほどくどくなく程よい具合に散りばめられているので、素直に笑える。
個人的に印象に残ったのは、戯曲を読んだとき一番笑いが止まらなかったポステュマスの嫉妬シーンが、意外にもドロドロとしたシリアスな演出で描かれていたこと。
それまでイモージェンに絶対の信頼を置いていた人格者ポステュマスが、あの程度の嘘に欺されて、イモージェンの背信を信じ込み悲憤慷慨する単純さは、冷静に見ればギャグ以外の何ものでもない。しかも翻訳版で延々2ページにわたって綴られる憤慨の台詞が、イモージェン個人ではなく、いきなり「女」全体に普遍化されている暴走ぶりがまた凄い。「いまに女を憎み、女を呪う大論文を書いてやる」って…頼むから少し落ち着いてくれ(笑)。それで召使いのピザーニオにイモージェンを殺すよう固く命じておきながら、イモージェンが殺された(実際には死んでいない)と知ると、急に後悔して、今度は「ああ、ピザーニオ、いい召使いは命令を全てはたすものとは限らない、正しい命令だけ実行すればいいのだ」って、お前なあ…(笑)×(笑) もうこの辺りは男という生き物の愚かさをカリカチュアしたシーンとしか思えない。ところがこのくだりも、シリアスに悲劇的に描かれている。
そういった点に少なからぬ違和感を抱きながら見ていた。しかし最後まで見たとき、ようやく納得がいった。これまで自分は戯曲『シンベリン』をほぼ「喜劇」として捉えていた。先述のシーンは今読み返してみてもやはり滑稽だし、そういったポステュマスの嫉妬や最後の大団円シーンをもっと喜劇的に描くことも出来るだろう。それはそれで絶対に間違いではない。しかしこの上演のように、喜劇を基調としつつも悲劇やシリアスドラマとしての要素を立てて、複合的なドラマとして描く演出もまた正しい。むしろこちらの方が正統派なのだろう。事実、最後の大団円シーンで数奇な運命をくぐり抜けた者たちが再会するシーンでは、戯曲を読んだときには感じなかった胸に迫るような感動を覚えた。この戯曲は普通「喜劇」ではなく喜劇と悲劇の混合体である「ロマンス劇」に分類されているが、今回の上演を見て、その意味がよく理解できた。それを教えてくれた山崎清介にあらためて感謝したい。
役者も皆上出来。内面的な演技はそれほど必要とされず、外面的な動きで物事を表現する部分が多い作品だが、皆見事なスピードとリズム感で、1950年代の出来の良いハリウッドコメディのような芝居を作り上げていた。
最大の注目は言うまでもなくカンパニー初登場の石村みか。彼女にとってはこれ以上ない適役イモージェンを演じるのだから、期待せずにはいられない。
最初にイモージェンとして登場するシーンでは、初めて見る石村のロングヘアにちょっと驚いた。それはいいのだが、どうもメイクが今ひとつで目が腫れているような感じに見えてしまい、これには最後まで違和感を覚えた。しかし休憩後の後半では、彼女は少年の扮装を出てくることになる。かつては女を演じるよりも男の子を演じる方が多かった彼女のこと、久々の男の子役はやはりチャーミング極まりない。最近は女性の役柄でも素晴らしい演技を見せてくれるのだが、彼女が演じる男の子役を見ていると、そういった次元を超えた得も言われぬ幸福感で心が満たされていく。それは普通の意味での演技力とは違う、天性の才能なのだろう。あの魅力は、おそらく彼女自身も計算して出しているものではないと思う。とは言え、50歳で少年役を演じて今と同じ魅力を出せるとは考えにくい。この奇跡を目にすることが出来るのも、あとせいぜい10年程度。前から再三書いているように、僕が彼女に最も演じて欲しいと思っている役柄は『十二夜』のヴァイオラだ。このカンパニーでも他の劇団でもいいから、石村みかが演じるヴァイオラが数年以内に実現することを願ってやまない。
演技的には、特に前半、芝居の流れを慎重に観察していて、まだ役になりきっていない感じも少し受けた。彼女の実力からすれば、もっと魅力的なイモージェンを、もっと自由に演じられるはずだ。本公演はこれからだし、その後も9月14日まで地方公演が続く。今後更なる成長が期待できるので、本公演を楽しみにするとしよう。
他ではクロートンを演じた戸谷昌弘がイメージ通りのバカ息子っぷりで大いに笑えた。喜劇性の少ない役で、土屋良太がピザーニオを、山口雅義がヤーキモーをそれぞれ的確に演じているおかげで、全体のバランスが非常に良くなっている。特に山口雅義は、前半の邪悪な匂いと後半の心の揺らぎを表現して秀逸だ。
一番食い足りないと思ったのはポステュマス役の若松力。あまりにも普通の好青年になりすぎていて、他のキャラに比べると陰影に乏しい。こちらも本公演で、何らかのメリハリを付けてくることを期待しよう。
終演後は40分ほどのアフタートーク及び観客との質疑応答。話の内容もさることながら、役者たちが非常に楽しそうに芝居に取り組んでいること、そして彼らが山崎清介に大きな信頼を寄せていることが手に取るように感じられて、実に気持ちの良いアフタートークだった。この調子で9月まで突っ走って欲しい。
と言うわけで、本公演が始まる前に その面白さに触れることが出来たので、今の内に大いに推薦したい。老若男女全てにお勧めできる、文句なしに楽しいお芝居だ。
http://www.canonkikaku.com/information/shakespeare.html
なおカンパニー名は「子供のためのシェイクスピア」となっているが、その名前から想像するような子供向けの芝居をしているわけではないのでご心配なく。子供が見ても退屈しないよう、難しい部分はカットしたり脚色したりして、面白可笑しく仕上げているが、子供向けにレヴェルを落としているわけではない。オリジナルなギャグはあちこちに入っているし、様々な意味で現代化されているが、シェイクスピアの本道はきちんと押さえた、理想的な大衆的シェイクスピア劇。欺されたと思って、ぜひご覧あれ。
(2008年6月)
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