【映画】『ミスト』そこまでやるか…
スティーブン・キングの小説『霧』を、『ショーシャンクの空に』『グリーンマイル』のフランク・ダラボンが脚色・監督した作品。『霧』は数あるキングの作品中でも屈指の名作として知られる中編で、それをキングの映画化では定評のあるダラボンが手がけたのだから、期待するなという方が無理だ。公開初日に、いそいそと劇場に足を運んだ。
いやはや、お見事の一語に尽きる。スティーブン・キングのホラーをここまで完璧に映像化した作品はかつて例がない。ストーリーも視覚描写も驚くほど原作に忠実。それどころかスーパーマーケットに閉じ込められた人々が次第に異常心理に傾いていく怖さは、原作以上と言って良さそうだ。これにはマーシャ・ゲイ・ハーデン(ミセス・カモーディ役)の不気味な演技が大きな貢献を果たしている。彼女以外あまり有名な俳優はいないが、それもリアリティを高めるのに一役買っている。
ただ若干気に入らない点もある。最大の難点は、映画のルックが少々明確すぎること。昼はもちろん、夜も室内が明るすぎる。何が起きているかはわかりやすいが、もっと影の部分を増やした方が、さらに不気味さや緊張感が高まったのではないだろうか。あの霧も通常の霧ではないのだから、ベタリとした白一色よりは、もっと怪しい色や光が混ざる方が良かったと思う。
驚いたことに、この映画のルックに物足りなさを覚えた大きな原因は、どうやら『クローバーフィールド』にあるようだ。『クローバーフィールド』を見たときには全く気づかなかったが、こうしてみると『ミスト』と『クローバーフィールド』には意外なほど多くの共通点がある。作品の出来は『ミスト』の方が格段に上だが、正体の知れない怪物に襲われた人々のパニックをドキュメンタリータッチで描いた『クローバーフィールド』の妙なリアリティを体験した後では、『ミスト』が少々作り物めいて見えてしまうのだ。『クローバーフィールド』が、まさかこんな形で自分の映画鑑賞眼に影響を及ぼしているとは思わなかったので、これは実に意外な発見だった。
さらにもう一つ。霧の中に潜む化け物たちは、やはり小説で読んだときの方が得体が知れない分 不気味だった。そのような不気味さは、ほとんどの場合小説を読んだ時のイマジネーションを超えることは出来ないので、化け物の造形は、もっと生理的な嫌悪感を催す方向に重点を置いた方が良かったのではないだろうか。
そしてこの作品の大きなポイントは、原作から改変されたと言うか、原作に新たに付け加えられたラストにある。
内容そのものについては、実はそんなに驚くような代物ではない。映画化をするにあたってラストをどうするかと考えた場合、15分以内に確実に思いつくアイディアの1つだ。「先に思いついていたら自分もこのラストにしたのにと、キングが悔しがった」などという話が流布しているが、そんなものは宣伝用の作り話に決まっている。この程度のアイディアを、天才キングが思いつかないはずがないではないか。
だがすぐに思いつきはしても、そのアイディアを実際に採用するのは、誰でも躊躇するはずだ。それほど後味が悪く絶望的なラストなのだ。何一つ問題が解決しない原作のラストもかなり鬱度の高いものだが、このラストはその比ではない。スクリーンを見ながら、「いくら思いついても、普通それだけはやらないぞ…」と呟きたくなった。
したがって「映画史上、かつてない震撼のラスト15分」というキャッチコピーは、それなりに正しい。「誰も考えつかなかったラスト」ではなく「誰もが考えつくけれど、あえて誰もやろうとしなかったラスト」を本当にやってしまったのだ。それは震撼もするだろう。
このラストによって、ダラボンが真に描きたかったものは、得体の知れない未知の恐怖ではなく、人間が何かを信じること/何かを選択することの不確実性に対する恐怖であることが明白になる。このラストは、マーシャ・ゲイ・ハーディンが体現した狂信の怖ろしさと表裏一体の関係にあるのだ。狂信に基づく恐怖は、もはや多くの人が知っている。しかしそれに抗する理性や人間の主体性に基づいた判断も、日常レヴェルを超えた巨大な流れの中では、しょせん嵐の海に浮かぶ木の葉のようなものに過ぎない。我々はいずれにせよ無力な存在なのだ…そんな現実を目の前に突きつけてくるかのような、強烈なラストだ。
(2008年5月)
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