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05/31/2008

【演劇】東京ノーヴィ・レパートリーシアター『桜の園』2008.5.24

東京ノーヴィ・レパートリーシアター『桜の園』
2008年5月24日(土) 13:00〜 東京ノーヴィ・レパートリーシアター


東京ノーヴィ・レパートリーシアター、実はこの第4シーズンは、シーズン会員(1万円で7本観賞できる)になっているため、7本のレパートリー中すでに6本を見た。ただし最初の方でレビューを書き損ねたため、7本全部見てから、総評のような形で短評をまとめて書こうと思っていた。ところが、この『桜の園』を見ている内に、不満と苛立ちが限界点を超えてしまったため、別枠で先に書くことにする。


上演台本は、他の作品と同様大きなカットや付け足しはなく、チェーホフの戯曲に限りなく忠実。注釈が無いとわからないようなロシア的言い回しや、セットの関係で上演不可能な部分(第三幕冒頭のダンスなど)がカットされた程度だ。

にも関わらず何故そこまで苛立ったかというと、主要な役者たちの役の解釈にどうしようもない違和感を覚えたのだ。

この劇団の芝居で今のところワーストは『かもめ』、その次に来るのが『桜の園』だが、この2作に共通するのは「見ているだけで体にカビが生えてきそうなほど、登場人物がメソメソする」という点だ。これが我慢ならないほど気持ち悪い。

中でも一番違和感だらけだったのが西山友子の演じたワーリャだ。第一幕からメソメソ泣き通し。確かに戯曲にも数カ所で涙声の指定はあるが、その合間もほとんど泣いているのだから、あれでは逆に戯曲の指示を無視しているのに等しい。しかもそれに合わせて囁くような声で話すため、あの小さな劇場においてすら台詞がまともに聞こえない。いくら何でもワーリャの嘆きを拡大解釈しすぎだ。
その違和感が頂点に達したのは、第三幕でラネーフスカヤにロパーヒンのことを話すとき、嗚咽と言っていいほど泣きまくることだ。あの状況下、あの話と台詞の流れの中で、何故ワーリャが嗚咽する必要があるのか? ワーリャがあそこで嗚咽できるほど素直に感情を表出できる人間なら、彼女はあのような生き方はしていないのではないか。僕には、あそこでワーリャがあんな風に泣くとは、どうしても思えないのだ。もちろん戯曲にも、そんな指示は書かれていない。
戯曲に指示されているワーリャの涙で、僕が最も心を打たれるのは、第四幕でロパーヒンと別れた後の涙だ。ロパーヒンからプロポーズの言葉が聞けるかもしれない最後のチャンスが虚しく過ぎ去り、ワーリャは一人さめざめと泣く。家政を取り仕切ってはいるものの、何事に付けても不器用で、恋愛の場でも素直な感情表現がまったく出来ないワーリャ。そんな女が、全てが終わってしまった後になって初めて涙を流し、それでもラネーフスカヤが来れば、すぐにいつも通りの実務的な調子に戻っていく。彼女には仕事以外救いが無いのだ。しかも幾つかの描写から考えて、その仕事においてすら、決して有能というわけではなく、ただ地道にコツコツ働くだけが取り柄のようだ。そんな不器用で、頑なで、しかし健気な女だからこそ、ワーリャという人物が愛しく感じられるのではないか。それをあんな風に最初からずっとメソメソして感情を垂れ流しにしていたのでは、ワーリャに対する共感は激減してしまう。


川北裕子の演じたラネーフスカヤも同様である。演技なのか、地声なのか、あるいは風邪でもひいていたのか、最初から最後までかすれ気味の疲れた声で、人生にくたびれた雰囲気を濃厚に醸し出している。しかしラネーフスカヤというのは、そんなに憂愁に満ちたキャラクターなのだろうか?
これは僕の個人的解釈だが、ラネーフスカヤの最大の特徴は、その破天荒なまでの無垢さ/幼児性にあるのではないか。ラネーフスカヤには、先を見通したり、過去を反省したりして、それを未来に生かす力がない。子供がそうであるように、彼女にとって何よりも大切なのは、今現在の感情なのだ。そう考えれば、彼女の分裂した場当たり的な行動もすんなりと理解できるし、第一幕と第四幕の舞台が「子供部屋」である理由もわかる。
四十過ぎになっても大人として成長しないラネーフスカヤは、愚かと言えば愚かだ。だが彼女は、その幼稚さと表裏一体の徹底した無垢さの持ち主でもある。かつて身分の低いロパーヒンに優しく接したのも、困っている人に見境なく金を上げてしまうのも、自分を裏切った男を看病するためパリに向かうのも、全て彼女の無垢さのなせる業だ。同じように子供っぽい(と言うより大人になっていない)性格の持ち主でありながら、無垢さの代わりに俗物的な階級意識や卑小なエゴイズムを身につけてしまった兄のガーエフと比較すると、その特質は一層明白になる。成長もしない代わりに、精神的な汚辱にまみれることもなく、タイムカプセルのように幼児的な愚かさと無垢さを併せ持った女…それがラネーフスカヤだ。
もちろん僕の解釈が絶対というわけではないし、事実、川北裕子はそういう解釈は取っていないらしい。彼女の演じるラネーフスカヤは、最初から最後まで憂愁に満ちた中年女であり、事態の推移は一応理解しつつ、ただ何もしようとしないだけに見える。しかしそれでは、ラネーフスカヤの愚かさばかりが目立ってしまい、あまり共感を抱ける人物とはなりえないのではないか。未来を見通せない愚かさや実務能力の欠如、それと表裏一体の無垢さ…その両方が表現されてこそ、ロパーヒンやワーリャやガーエフとの関係がすんなりと理解できるし、『桜の園』という物語がグンと奥行きを増すのだ。この芝居のラネーフスカヤは、あまりにも一面的すぎて、少なくとも僕の目には著しく魅力に欠ける。


ロパーヒンを演じた菅沢晃は、『ワーニャ伯父さん』で素晴らしいワーニャを演じて見せたが、こちらの役作りはどうにも関心できない。あの演技は、ロパーヒンの卑小な部分だけを強調し過ぎているのではないか。あれではまさしく百姓の小せがれがそのまま大きくなっただけであり、一代で大金を稼いだ優秀な実業家という雰囲気が全く出ていない。そのためラネーフスカヤやガーエフといった貴族階級との差がはっきりせず、ただのんべんだらりと桜の園に出入りしている暇人のように見えてしまう。ラネーフスカヤが愚かさと無垢さの2つで成り立っているとしたら、ロパーヒンは貪欲なビジネス欲とラネーフスカヤへの思いの2つを主軸とするキャラだ。その2つともうまく表現できていないし、当然のことながら、両者の間に生まれる葛藤もまるで表現出来ていない。
また、『かもめ』のトリゴーリンもそうだったが、何故ロパーヒンが東北弁(?)を使う必要があるのだろう。貴族と平民で話す言葉が違うのはわかるが、それを東北弁で表現してしまうと、余計な属性が付きすぎる。何よりも、他の人物が標準語で話し、ロパーヒンだけが東北弁では、彼だけ出身地が違うように見えて仕方がない。よそ者であるトリゴーリンならまだしも、ロパーヒンはラネーフスカヤを初めとする他の主要人物と同じ土地の出身だ。階級差による言葉の違いを、東北弁という地理的な方言に置き換えるのは、明らかにおかしいだろう。


他の役者にも、いろいろ文句はあるが、ラネーフスカヤ/ロパーヒン/ワーリャという主要人物がこれなのだから、後は推して知るべしだ。

その中で意外な拾い物が、フィールスを演じた稲田栄二。本物ではないかと思うほどリアルなボケっぷりで、『桜の園』の喜劇性をきちんと表現していた。ただ彼の口癖は「出来そこないが」ではなく「未熟者が」の方が、話の流れに合うと思う。


一つ特筆しておきたいのは、第二幕の途中と第四幕の最後に響く「天から降ってきたような、弦の切れたような音」。これが「ヒュルルルルル」という思いもかけない音だったのが非常に面白かった。僕のイメージでは、ピアノの弦をペンチで切ったような音なのだが、第二幕でガーエフやペーチャが鳥の鳴き声かもしれないと言うくらいだから、こういう音もありなのだろう。確かにこれなら鳥の鳴き声と間違えても無理はない。


やはりこの劇団のチェーホフは『ワーニャ伯父さん』がダントツにいい。『三人姉妹』もまずまず。『桜の園』と『かもめ』は湿気が多すぎて、見ているだけでカビが生えてきそう…というのが、現在の評価だ。


(2008年5月)

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