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05/26/2008

【演劇】世田谷パブリックシアター制作リーディング公演『棒になった男』2008.5.24

世田谷パブリックシアター制作
日本語を読む〜リーディング形式による上演〜
『棒になった男』
2008年5月24日 19:00〜 シアタートラム


この企画の2本目。もう何本か見たかったのだが、結局2本しか見られなかったのが残念だ。

今回は安部公房の『棒になった男』。これを見たかった理由は以下の2つだ。

・小説版『棒』を国語の教科書で読んだことがあり、それが非常に面白かった
・ともさと衣、山本郁子というお気に入り女優二人が出演している

最初の動機だが、読んだのはあくまでも小説版の方。調べてみると、戯曲は新潮文庫で簡単に手に入る上、11月に興味深い演出(岡田利規)+役者(麿赤兒/若松武史/今井朋彦/ともさと衣他)で上演される『友達』が一緒に収録されている。『友達』も確実に見るはずだから、この文庫で先に戯曲を読んでおくのもいいだろうということで早速購入し、とりあえず『棒になった男』だけ読んだ。
そして驚いた。戯曲『棒になった男』は3つの短編から成り立っていて、「棒になった男」はその3番目なのだ。それだけでも驚きなのに、読んでみると、小説版とはかなり違う。地獄の使者(確か小説版では、はっきりそうとは書かれていなかったはず)が、棒になった男の刑罰を決めるというモチーフは同じだが、具体的な展開や登場人物がかなり変わっている。先に戯曲を読んでおいて大正解。いきなり舞台を見たら、小説版との違いばかりが気になって、素直に芝居を楽しめなかったことだろう。
戯曲は活字として読んでも面白いものだったが、まるでリーディングのために書かれたような内容で、これでは普通の演劇としてやる意味がないのではないかとも思った。舞台設定は極めてシンプルかつ抽象的で、視覚化しないとピンと来ないという部分はほとんど無い。言葉だけで全てのイメージが十分に伝わるので、それを実際にリーディングの形でやるとどうなるか、大いに興味があった。

3つの短編に直接的な関連はない。第一景「鞄」と第三景「棒になった男」だけなら、共通点が多いが、合間に「時の崖」が入ることで、分かりやすい連続性を意図的に断ち切ろうとしているかのように見える。「第○景」という表現には馴染みがないが、調べてみたら「景」は「幕」と同じ意味だった。やはりこの3本が集まって1つの芝居になるということだが、その関連性については今もよくわからない。他の人のレビューで「これは本来、鞄/ボクサー/棒になった男の役を一人の役者が演じる劇で、それによって一人の人間の誕生→成長→死を表現している」という説明を読んだが、仮にそれが安部公房の意図であったとしても、「鞄」が誕生を表現しているというのには首を傾げずにはいられない。あれの一体どこが「誕生」を表現しているのだろう。鞄の中にいるご先祖様を妊娠の暗喩だと解釈しても、次の「時の崖」との間に断絶がありすぎる。強いて言うなら、あの3つの並びは「死後の生→生→死」だろう。最後に「鞄」が来て「生→死→死後の生」なら分かりやすいのだが、そうもなっていないし… この3編のつながりについては、今も明確な答えが出ていない。


演出は文学座の若手、上村聡史。キャストは以下の通り。

第一景「鞄」
女       ともさと衣
客       山本郁子
旅行鞄     今井朋彦
モナリザの朗読 中村彰男

第二景「時の崖」
ボクサー    松澤一之
声       中村彰男

第三景「棒になった男」
地獄の男         松澤一之
地獄の女         山本郁子
棒になった男       中村彰男
フーテン男・地獄からの声 今井朋彦
フーテン女        ともさと衣


舞台は前方に椅子が3つ、後方に机と椅子があるだけで、ライティングも最低限。役者は椅子に座るか一定の場所に立つかの状態で台本を読み上げる。この前見た『星の王子さま』は、役者が様々な場所に動いたり重なったりして、身体表現がそれなりに導入されていたし、戯曲の要請上ライティングの変化による物語の転換もあったが、こちらはほぼ音声だけで全てを表現するオーソドックスなリーディング劇だ。しかし、これだけの戯曲と役者が揃っていれば、十分に面白いものが出来るのだということを証明するような公演だった。
ちなみに席は最前列のほぼ真ん中。基本的には「聞く」芝居だが、役者の表情の変化なども細かい部分まで全て見る事が出来た。上演時間は1時間10分ほど。


まずは第一景「鞄」。ともさと衣と山本郁子がいきなり並んで登場するのに、ちょっと感動。女の夫が持っている奇妙な旅行鞄をめぐる物語。安部公房的であると共に、星新一のショートショートも想起させるテイスト。その面白さを、実力派の役者たちが過不足なく表現していた。
ただ、今井朋彦がともさとと山本の間に入って鞄役を演じる際、声が大きすぎて、女優陣のやり取りが聞き取りにくくなったのが残念だった。位置関係から言えば二人の間に鞄がいてもおかしくないのだが、声は鞄の中から聞こえてくるのだから、もっと密やかなものであるべきだろう。あんなに大きな音ではなく「何かに熱中していると気づかないのだが、ふと気づくといつの間にか不気味な声が聞こえている」というくらいの方が、女の苛立ちがリアルに理解できると思う。今井はもっと声を抑えるか、女優陣よりも2メートルほど下がったところで声を出すべきだった。これは今井と言うよりも演出上の問題だろう。
ともさと、山本の二人は、それぞれの個性からすると、役柄を逆にした方がより合っているような気もした。ただしこのミスマッチ感も、それはそれで新鮮だったので問題ない。女が精神的に追い詰められている感じを強調したかったのであれば、よりシャープな声を持ったともさとが女役で正解だろう。

第二景「時の崖」。これは落ち目のボクサーが試合でKOされるまでの独白劇。途中に実況中継などの「声」が何度か入るものの、実質的に一人芝居と言っていい内容だ。不思議なのは、これが朗読劇としてではなく、普通の戯曲として書かれたという事実。他の2編と違い、この作品だけは舞台設定や動きを指示するト書きがまったく存在しない。それだけに演出家のアイディア次第でいろいろな芝居を作れるとは思うが、戯曲の内容をそのまま表現するだけならリーディングやラジオドラマで十分であり、普通の演劇用に書かれたとは思えないテキストなのである。
そんな内容だけに、成功するか失敗するかはひとえにボクサー役の役者にかかっている。今回の松澤一之は、時々台詞を噛んでいたし、完璧とは言えないが、かなりの健闘だった。ただしボクサーの年齢は20代前半、松澤は声もルックスも50代のおじさん。そのギャップに違和感があったのは残念だ。もっと若い役者が演じたら、よりリアルな雰囲気になっただろう。
一人芝居の単調さを破るように、突然飛び込んでくる「声」も大きな効果を上げている、この辺りは、地味ながら的確な演出だ。
最初に「落ち目のボクサーが試合でKOされるまでの独白劇」と書いたが、最後は屋内から青空が見えたり、「自分が二人になったみたいだ」という台詞があったりして、ボクサーが死んだようにも読み取れる。そうだすると、次の「棒になった男」に比較的すんなりつながるのだが、それはさすがに安直な解釈だろうか。

第三景「棒になった男」。小説版は、確か(地獄から来たと思しき)教授と生徒が棒になった男の刑罰を定める話。戯曲版における地獄からの使者は、ベテランの男と新任の女という組み合わせで、男が地獄の本部にトランシーバー(笑)で連絡を取り、合間に個人的な話をするなど、妙に人間的な存在になっている。記憶違いの可能性もあるが、フーテン(笑)の男女は、小説版には出て来なかったのではないだろうか。
小説・戯曲と2つの形で作品化しているのだから、安部公房にとっても自信作なのだろう。とても面白く、テーマも読み取りやすい。死んだ人間が棒になり、そのまま放置されるというアイディアは、今にして思えば、黒沢清の映画『回路』のルーツになってるような気もする。発表から39年たった今も、「棒になった男」の寓意は何ら色褪せていない。
非常に気になったのは、フーテンの男女の台詞に、元の戯曲にはない部分があったこと。最初は僕が忘れているだけかと思ったが、終演後すぐに文庫本を開いて調べてみると、やはり「ガーガー」(だっけ?)に関する台詞などどこにもない。これは一体どういうことなのだろう? オリジナルで付け足されたとは思えないので、安部公房の別の戯曲から持ってきたのだろうか? あるいは最初の上演台本に書かれていて、書籍として刊行される際に削除された台詞なのだろうか? とても気になる。情報をご存じの方は、ご一報ください。


戯曲に新たな魅力を大幅に付け足すようなこともなかったが、戯曲の持つ魅力はほぼ表現しきった、優れた公演だった。成功の大きな要因は、力量のある役者が揃っていたこともさることながら、戯曲自体がリーディングにピッタリな内容である点が大きい。もう1本の安部公房作品『城塞』も、やはり見るべきだった。

役者で特に印象に残ったのは ともさと衣。「鞄」も「棒になった男」も非常に安定していたし、自分の声を自在にコントロールしている余裕が感じられた。1週目の『星の王子さま』ではまだ緊張が感じられたが、3週目(3本目)ともなると無駄な緊張が解けて、自信が出てきたのだろう。幾つもの異なった役を見事に演じ分けたと聞いている『不思議の国のアリス』を見逃したのが残念だ。
考えてみると彼女は、カフカの『審判』『失踪者』、多和田洋子の『犬婿入り』、イヨネスコの『授業』など、最近出ている芝居が全て不条理もの(笑)。そういう意味では、安部公房作品と相性が良いのも当然かもしれない。すでに述べたように、秋には『友達』にも出演するので、このまま不条理の女王(笑)を目指して突き進んで欲しいものだ。『友達』は、前にク・ナウカの若手公演で見たことがあり、それはあまり面白いものではなかったが、岡田利規演出による『友達』はどんなものになるのだろう?
…と、ここまで書いて突然気がついたのだが、それらの舞台を皆見ているどころか、原作も読んでいる自分は一体何なのだろう? 特に不条理ものが好きだという自覚はなかったのだが、実はけっこう好きなのだろうか? そう言えばポール・オースターや村上春樹も十分に不条理ものの範疇に入るしなあ。

次に印象深いのは松澤一之。「ボクサー」は、すでに述べたように不満もあるのだが、あの一人舞台をリーディングで飽きさせずに聞かせただけでも立派なものだ。「棒になった男」の地獄の男役は、もっと余裕を持って楽しんでいる雰囲気が感じられた。上手い下手ではなく、その「味」に魅了される。

今回の出演者5人の内、ともさと・松澤の2人を除く3人が文学座(松澤は文学座研究所→夢の遊民社)。その中で、非文学座の2人が特に印象的だったというのは、文学座の3人が手堅い演技で土台を固め、その上でともさとと、とりわけ松澤に、より自由な芝居をさせたという構図のせいもあるのだろう。

ちょっと残念だったのは山本郁子。妙に台詞を噛んでいたし、これまでに見た彼女の芝居と比べると少し安定感に欠ける印象があった。彼女がこのシリーズに参加するのはこの1本だけ。3回程度のリハーサルと、わずか2回の本番で、まだこのリーディング公演の呼吸が掴み切れていなかったのだろう。その点では、3本目で完全にリーディングのコツを掴んだように見えるともさとと好対照だった。

今井朋彦と中村彰男は、台詞の量自体が他の3人に比べて格段に少ないため、それほど大きな印象は残らないが、それぞれに手堅い芝居だった。


結局2本しか見られなかったリーディング公演だが、これだけの演出家と役者がずらりと揃うことは滅多にない。戯曲もそれぞれに興味深いし、チケット代も安い。これと同じレヴェルで第2弾をやってくれたら、今度はせめて4〜5本は抑えることにしよう。


(2008年5月)

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