【演劇】劇団東京乾電池『受付』2008.2.27 または柄本明の笑いについて
劇団東京乾電池『受付』
2008年2月27日(水) 20:00〜 新宿ゴールデン街劇場
またもや東京乾電池の月末劇場。1月は竹内銃一郎作品なので、ぜひ見たかったが、仕事が忙しくて見られなかった。月末劇場としては昨年12月末の『ジョンとジョー』以来となる。
今回の演目は、別役実の『受付』。別役作品の中でも有名なものの一つなので、まずハズレはないだろうと思って見たのだが、予想通りというか、予想以上に面白い別役ワールドを堪能することが出来た。
二人芝居で、男が神経科のクリニックを訪れると、受付の女が言葉巧みにあれやこれやと話をもちかけ、とうとう男にカンパや角膜移植、はては献体の約束までさせてしまう不条理コメディ。『場所と思い出』などの別役作品と通底するものがあるのはもちろんだが、二人芝居ということもあってか、イヨネスコの『授業』を彷彿とさせる部分がかなりあった。
様々な解釈、様々な楽しみ方が出来る作品だが、やはり今の時代に見ると、「悪質なカルトや自己啓発セミナーは、まさにこんな風にして人を洗脳していくのだろうなあ」という思いが沸き上がってくる。本作が書かれたのは1980年。まだその手の問題が今ほど顕在化していなかった時代に、こんな芝居を書き上げた別役実の才能と先見性には目を見張るものがある。しかしここまで露骨でなくても、多かれ少なかれ、我々は様々な勧誘や広告、情報操作などによって、強迫観念を植えつけられ、一定の行動を強いられている。このグロテスクな喜劇は、必ずしも特殊な状況を描いたものではなく、もっと普遍的な人間社会の怖ろしさをカリカチュアライズしたものと捉えた方が、さらに面白い。
誰が出演するのかまったくわからないまま見に行ったのだが、この回は、男が三平大介、女が中村真綾だった。中村真綾を月末劇場で見るのは、7月の『眠レ、巴里』、9月の『ここに弟あり』に続いて、これで3回目になる。劇団関係者や家族・友人以外で、こんなに彼女の芝居を見ている人間も珍しいだろう。
しかし若手二人の演技は、かなり悲惨なものだった。演技の質そのものは悪くないのだが、とにかく台詞が入っていない。言い間違い、言い直し、まるで口が回らず日本語の発音になっていない、台詞が出てこなくなってしばらく間が出来る…などなど、本番に向けて一体どんな稽古をしてきたのか不思議になるほどだ。三平大介もさることながら、台詞の量が多く、役柄的にも難しい中村真綾は、ボロボロと言う他ない出来だった。柄本明が出演した『ジョンとジョー』のような例外もあるが、月末劇場は、基本的に新人たちの公開稽古といった意味合いが強いので、演技的な完成度を求めても仕方がないのはわかっている。台詞の量が非常に多く、これまでに見た竹内銃一郎や岸田國士の作品と比べても、難易度が高かったことは確かだ。それにしてもこの演技は、2000円を取って客に見せられる仕上がりではない。
しかし、実は今回最も面白かったのは、その点なのだ。
と言うのも、この戯曲、本来は二人芝居のはずなのに、この日は実質的に三人の出演者が存在したからだ。
もう一人の出演者…それは劇場の隅にいて、例の高笑いを響かせていた柄本明に他ならない。
柄本明の笑いについては、『授業』の時にも書いた。笑っているのが柄本でなければ、確実に他の観客から「うるさい!」と怒鳴られるであろう大きな笑い。しかもその笑いが、多くの場合、何故そこで笑うのかわからない異様な笑いなのだ。『授業』の時もそうだったが、この人が笑い出すと、それによって劇場の空気が変化する。今回で言えば、観客の反応は、最初は「何故こんなところでこんな風に笑うんだろう」という戸惑い、次に彼に追従するかのように一緒に笑い、やがて「やはり何かが違う」と、ある種の気まずさが広がっていったように感じられた。必然的に、柄本が笑い声を上げながら見ている芝居は、その笑い声まで込みで一つの芝居になってしまうのだ。
そして今回、彼が笑い始めたとき、僕は「よし、今日こそは このオッサンの笑いのメカニズムを解明してやろう」と思い、頭脳の60%を舞台のそのものに向け、あとの40%を舞台と柄本明の笑いの因果関係に振り向けることにした。
そこで出た結論。
「やはり よくわからない」(笑)
とは言うものの、さすがに幾つかのパターンは見えてきた。
まず、いつも意味不明なところで笑っているわけではなく、普通に可笑しくて笑っている場合も確実にある。
だがそれ以上に多いのは、役者が台詞を噛んだりした時の笑い。ただし必ず笑うわけではなく、時には笑わないこともある。
そして最も大きな笑いが上がるのは、間違いそのものよりも、その間違いに役者自身が戸惑って「素」が出てしまった時らしい。ある方もそのようなことを示唆していたが、どうやらその意見は正しいようだ。
したがってあの笑いは、役者に対する舞台外からの演技指導と言うか「叱咤」のような役割を果たしている面もある。ただしそれは一筋縄で解釈できるようなものではなく、純粋な笑いも混在していて、その二つの違いは、その場その場の空気や状況で判断するしかない。しかも役者の素が見えて笑った時でさえ、叱咤として笑っているように感じられるところもあれば、単純に可笑しくて笑っているように感じられるところもある。だから役者が、ヘタにあの笑いを意識し始めると、相当な混乱をきたすことになるはずだ。そのような笑い故、舞台上の役者、ましてや新人にとって、これほど怖いものはないだろう。
そして今回、その笑いを真正面から浴びることになったのが、中村真綾だった。それはもう、見ていて背筋が寒くなるほど痛々しい光景だった。
この舞台では、デスクをはさんで男女がずっと向き合っている。男は下手、女は上手。そして柄本明は下手側の隅の椅子に、舞台を斜めに見るようにして座っている。つまり中村の表情や演技は柄本に丸見えなのだ。中村に比べれば、三平の芝居に笑うことは格段に少なかった。しかしそれは、彼の演技に問題が無かったからと言うよりも、単純に柄本の位置からでは三平の表情がほとんど見えなかったのと、三平の方でも後ろにいる柄本の存在をあまり意識せずに済み、ペースを乱されなかったためだろう。
ところが中村は違う。台詞を噛んだりするのはもちろん、それに対するわずかな戸惑いまで、全て見抜かれてしまう。柄本との距離は3メートルもない。視界の端には柄本の顔が映るし、その笑い声は物質的な存在感を持ってストレートにぶつかってくる。何と言う怖ろしい状況だろう。
台詞が入っていないこと自体は実力不足と稽古不足の結果だろうが、それに加えて彼女が次第に柄本の笑いを気にし始め、ますます混乱をきたしていく様子がありありとわかった。特に後半、彼女が素に戻って苦笑してしまい、そこから何とか気を落ち着けて演技に戻っていく時の一連の様子は、せいぜい10秒程度の時間だったにもかかわらず、手に汗握るほどの見物だった。
最初に述べたように、通常の見地から言えばボロボロの演技だ。しかしそれ故に見ることの出来た、柄本と中村の火花が散るような葛藤。芝居の内容そのものとは別に、これほど「生々しい」舞台は滅多に見られるものではない。ある意味、これこそが月末劇場の醍醐味だろう。
そのようなわけで、通常の意味で面白い戯曲を堪能しつつ、役者と演出家(もしくはそれに類する存在)の生々しい葛藤まで味わえる、まことに希有な舞台だった。
こんな風に書くと、中村真綾をボロクソに貶しているかのように思われるかもしれないが、それは少し違う。確かにまだまだ実力不足だし、どんな事情があったか知らないが稽古不足も甚だしい。少なくとも今回に関しては、とても人からお金を取れるような演技ではない。それは事実だ。
しかし、あの怖ろしい状況によくぞ耐えて最後まで演技をした。僕はむしろその点に感動した。自分があの若さで、あの立場に置かれたら、一体どこまで崩れ落ちていたことか。そして彼女も、危うく崩れ落ちそうになる瞬間を何度か見せながら、そこから必死に立ち直り、最後まで健気に演技を続けた。そのリアル極まりないドラマを眼前で見せられて、何ゆえ彼女を貶すことなど出来ようぞ。
これまで中村の芝居を3回も見たのは、たまたまそこに彼女が出ていたからに過ぎない。しかし今後は違う。今回の生々しいドラマを見て、彼女のファンになってしまったからだ。あの怖ろしい状況をくぐり抜けた彼女が、今後どんな成長を遂げるか、ぜひとも見届けていきたい。がんばれ中村真綾。あの状況をくぐり抜けたら、もう怖いものはそう多くはないはずだ。応援してるぞ。
3月の月末劇場はまた岸田國士の二本立てで『ここに弟あり』と『屋上庭園』。しかし『ここに弟あり』は、この6か月間で三度目の上演だ。いくら何でもやり過ぎじゃなかろうか。『屋上庭園』は見たことがないので興味があるが、さすがに次回は見に行くかどうか微妙だ。
なお4月〜5月にスズナリでやる劇団東京乾電池の本公演『コーヒー入門』は、すでにチケットが発売されているにもかかわらず、出演者は未だ「東京乾電池メンバー」としか発表されていない。しかも月末劇場と同様、回によって出演者が違うらしい。つまり今チケットを買っても、その回に誰が出るのかわからないというわけだ。このルーズさは、もはや確信犯だろう。昔なら「ふざけるな!」と怒ったところだが、ずっと月末劇場を見てきたら、そんな乾電池イズムにすっかり慣らされてしまい、「あはは、いかにも東京乾電池だ」と思うようになってしまった。やれやれだ。
(2008年3月)
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