【演劇】MODE『審判』2007.11.17&12.8
MODE『審判』
2007年11月17日(土) 14:00〜 シアタートラム
2007年12月8日(土) 19:00〜 シアタートラム
先にこちらのレビューを書き始めたのだが、どうも筆が進まなくて中断している内に『失踪者』を先に完成させることになってしまった。さらに『審判』を2回見たところ、上演時間が短くなったせいもあって、だいぶ印象が変わり、実質的にほとんど書き直すはめになった。以下の大部分は、3週間の間を置いて2回分の上演を見た上でのレビューである。同じ話を繰り返さないよう『失踪者』評を前提に書かれているので、先に『失踪者』評を読んでから、こちらを読まれることをお勧めする。
『AMERIKA(失踪者)』『城』『変身』と来て、ついに登場したMODEカフカの第4弾『審判』。あとは短編しか残されていないので、シリーズとしてはこれで一区切りだろう。言わば真打ちとしての登場。例によって、1年ほどかけたワークショップの中から生み出された作品だ。さて、その出来映えはどんなものか。
まず息を呑むのは、シアタートラムの空間を思う存分に利用した美術セットの見事さだ。2階建ての基本構造と、両脇に地下へつながる階段。その中で大きな門やドア、デスクやベッドなど、様々なセットが役者たちの手によって動かされ、目まぐるしい場面転換をしていく。この見事さは『AMERIKA』や『城』を凌いでいる。
美術セットの要となるのは、『変身』で利用されていた、あの「透けるドア」だ。照明の当て方一つで、重々しい木のドアに見えたり、向こう側が綺麗に透けて見えたりする魔法のドア。『変身』を見たときも凄いと思ったが、今回はそれをさらに巨大化し、フル活用している。楽日は最前列で見たので、ようやく仕組みが分かったのだが、一番外側と、取っ手で開け閉めをするため真ん中部分だけに木の枠があって、それ以外は蚊帳のような繊維で出来ているのだ。あのいかにも重々しそうに見える木枠は、全部絵で描かれたもので、実際にはただの平面に過ぎない。アイディア賞ものの見事な大道具だ。
もう一つ注目すべきは、役者たちの衣装の早変わりだ。もちろん早く変わるだけなら大した意味はない。肝心なのは、その早変わりが、しばしばセットの変化よりも雄弁に「空間移動」を表現している点だ。銀行のオフィスでOLをやっていた女優陣が、黒ずくめの傍聴人になったり、キャバレーの踊り子になったり、街の子供になったり…その迅速かつ大胆な変化だけで場面が変わったことを観客に理解させてしまう。
昨年の2月に松本修のレクチャーを聞いた時、彼は「映画に比べて舞台で特に表現しにくいことの一つは空間の移動だ」と述べていた。本作の美術セットと衣装早変わりによる空間移動の表現は、その難問に対する、彼の一つの回答だろう。
では、そのような見事な演出が見られる『審判』が一つの作品として面白かったかと言うと、いささか首を傾げるものがある。全体的に言えば、『失踪者(AMERIKA)』『城』より、だいぶ落ちることは否めない。特に1回目の観賞時には、しばしば退屈して眠くなることもあった。『城』も中だるみする部分はあったが、本作に比べれば格段に緊張感が維持されていた。
では『審判』のどういう部分が、『失踪者』『城』よりも落ちるのか?
まず、上演時間が長い上に、メインストーリーとあまり関係ない挿話が多すぎて冗長だという点が上げられる。観客だけでなく松本修自身もそう思ったようで、11月17日の時点では休憩込みで3時間15分から20分ほどあった作品が、途中で改訂され、楽日の12月8日には3時間を少し切る程度にまで短縮されていた。
カットされた主なシーンは、Kとモンターク嬢との会話シーン、そしてキャバレーのシーン。銀行オフィスでのダンスシーンもかなり短縮されていたし、他にも細かくカットされたところがあった。全体的なテンポも少し速くなったようだが、これは演技やセットチェンジの段取りが流暢になったためだろう。リーフレットに挟まれているキャスティングリストを見たら、12月8日の上演では存在しなくなった役がちゃんと削除されていた。
カットする箇所としては妥当な線だろう。個人的には、最初の銀行シーンでの振り付けが大好きなので、カットされてしまったのは残念だが、ストーリーテリングにはほとんど関係ないので仕方あるまい。キャバレーのシーンは僕も明らかに不要だと思った。この2つがカットされたため、ダンスシーンがかなり減った印象を覚える。
これによって楽日の上演は、最初の頃よりも引き締まったものとなり、冗長さはだいぶ軽減されたのだが、皮肉にも、それはこの作品が抱えている根本的な矛盾を露呈する結果にもなった。
入場者に渡されるリーフレットで、松本修は「過去の舞台や映画は、寄り道部分をはしょっているのが物足りない。どうもテーマ主義的な感じがする。自分の舞台では、そういう寄り道部分もできるだけ省略せずに表現したい」というような発言をしている。最初の頃の3時間15分以上あった上演を見た人なら、その言葉の意味がよくわかるはずだ。同時に、それが観客の見たいものと必ずしも同じではないこともだ。
それに気づいた松本が、寄り道的な部分をある程度カットしたことで出来が良くなったわけだが、切れる部分はまだ他にも残っている。もちろん寄り道を全て切ったらカフカではなくなってしまうだろうが、小説では意味があっても舞台上ではほとんど意味をなしていない描写が少なからず見受けられた。そのような寄り道をもっと大幅にカットし、せめて2時間半程度の作品にすれば、作品の輪郭が明瞭になり、さらに面白くなったのではなかろうか。
だとすれば、これは最初から松本の演出コンセプトが間違っていたことになる。理念はどうあれ、演劇として実際に面白いのは、寄り道をはしょり、ある程度テーマ主義的になった作品の方なのである。テーマ主義を退け、寄り道ばかりで、なおかつ面白い『審判』を作ることも可能かもしれない。だが少なくともこの作品は、それに成功していない。
映画の世界では一時「ディレクターズカット版」というのが流行ったが、たとえば『ベティ・ブルー』や『天国の門』のように、明らかにオリジナル版よりも優れた作品がある一方で、『グラン・ブルー』のように監督の個人的思い入れでつまらないシーンが増え、オリジナルよりも密度が低くなってしまった作品も多い。この『審判』には、そんな悪しきディレクターズカット版の匂いが漂う。
また、すでに述べたように、井手茂太振り付けのダンスシーンがだいぶ減ったのだが、これはそもそもダンスを劇中に入れる必然性があまりなかったことを示している。一方ダンスシーンをカットした『失踪者』などほとんど想像できないし、カットしたら別物になってしまうだろう。内容の違いから、『失踪者』で成功した手法が『審判』ではうまく機能しなかったということだ。
『失踪者』が、台詞よりも身体表現によって物語を紡ぎ出す動的な舞台だったのに対し、『審判』はほとんど台詞劇と言っていい静的な舞台になっている。
しかしそこに、もう一つの根本的な問題が存在する。
本作は、戯曲というものを書かず、翻訳された小説をベースにワークショップで作り上げられた作品だ。そのため、台詞劇であるにもかかわらず、肝心の台詞が、演劇用の台詞としては弱すぎると言う致命的欠点があるのだ。
優れた戯曲があり、優れた役者がいれば、素舞台で役者が喋っているだけでも十分に面白い芝居を作ることが出来る。最近見たもので言えば、TPTの『スペインの芝居』(ヤスミナ・レザ作)が、それを証明する傑作になっていた(素舞台ではなかったが、セットはほとんど無きに等しい)。そのような作品と比較すれば明らかだが、『審判』で用いられた台詞はあくまでも小説用の台詞であり、演劇の台詞として3時間も観客を惹きつけるには魅力に乏しい。言葉の意味、音声としてのリズム感、対話のドラマ性、書き言葉ではなく話し言葉ならではのロジック…全ての面で強度が不足している。
また「あの台詞はどういう意味だったんだろう?」と、気になったところを原作でチェックすると、大抵の場合その台詞の前か後に、地の文でKの心理描写や説明が書かれている。そんな地の文にあたるところを的確に表現せぬまま、ただ台詞だけを話されても、見る方は戸惑うばかりだ。
優れた小説用台詞が、必ずしも優れた演劇用台詞になるわけではないことを証明するシーンが二つある。原作小説においては、二つのクライマックスとも言うべきシーンだ。
一つは大聖堂での「掟の門」に関する会話。カフカ版「大審問官」とも言うべき、哲学的な寓話だ。それは、自分の理解力に合わせて一語一語を噛みしめたり、前に戻って読み直したり出来る小説においてすら、そうやすやすと意味を理解できる内容ではない。しかも小説では、教誨師が幾つもの解釈を述べ、読者にこの寓話を読み解くヒントを与えている。それでも十分に難解な代物である。
ところがこの舞台においては、教誨師がただ一方的に寓話を話して、それで終わりだ。教誨師の説明や解釈をカットした上に、あの寓話をただ舞台上で台詞として喋られても、まるで頭に入ってこない。先ほど勢いでカフカ版「大審問官」と書いたが、ドストエフスキーの「大審問官」(『カラマーゾフの兄弟』に登場する哲学的叙事詩)の方が、「掟の門」に比べればずっとわかりやすいドラマ性を備えている。怖ろしく長くなると言う問題を別にすれば、そのまま演劇の台詞として読んでも伝わるものがありそうだ。しかし「大審問官」よりも抽象的で、頭の中で映像を作りにくい「掟の門」を、ただ台詞の形で話して、はい終わりというのは、あまりにも辛い。あの寓話を舞台上の台詞として正確に聞き取り、自分なりに何らかの解釈を加えるには、かなり高度な集中力が必要なはずだ。この地味な芝居を2時間40分見た段階で、それだけの集中力をまだ維持できている人間が羨ましい。いや、これは皮肉でも何でもなく、最近つとに集中力が衰えている身として本当に羨ましい限りなのだが、僕を羨ましがらせるような人間は、多分そう多くはいないはずだ。
もう一つは、画家ティトレリが話す「本当の自由/見せかけの自由/引き延ばし」のシーンだ。こちらも非常に深いテーマを含んだ話だが、「掟の門」に比べれば格段にわかりやすく、人生における様々な暗喩として受け取めることが出来る。たとえばこの台詞は、癌やHIVにかかった場合の生き方の選択として、ほぼそのまま当てはまりそうだ。そこまで具体的な限定をせずとも、もっと抽象的に「生と死」の暗喩として、あるいは人生における様々な「選択」や「決断」の問題として解釈することも出来る。読む者の思考を刺激し、Kが迫られている選択は他人事ではないのだと実感できる、原作でもとりわけ面白い挿話だ。
ところがこれを演劇の台詞として話されると、不思議なくらい何も伝わってこない。「掟の門」と違って内容的にはほとんどカットされていないにもかかわらず、何故あんなにも言葉が心に響いてこないのか。明確な理由はわからないが、やはりあれは小説用の台詞であり、演劇用の台詞ではなかったということだろう。
ついでに言うと、その後ティトレリがほとんど同じ3枚の絵をKに売りつけるところは、原作で読むと「3つの内どれを選んだところで、行き着く先は結局同じなんだけどね」という皮肉や不気味さを感じさせた。しかし舞台では、地の文にあたるKの心理描写が表現されていないため、ほんとど何も伝わってこない。これは先ほど書いた「小説では意味があっても舞台上ではほとんど意味をなしていない描写」の一例だ。
松本修が、そんな小説と演劇の違いを理解していなかったとは思えない。
それなのに何故彼は、こんな基本的な間違いを2つも犯したのだろう?
おそらく松本は、同じように寄り道が多い『城』と、ほとんど原作どおりの『変身』が成功したことで、カフカのテキストをそのまま舞台化することに自信を持ちすぎたのではないだろうか。
確かに『城』と『審判』は、ストーリーも劇の構造も非常によく似ている。しかし『城』は、主人公がよりアクティヴにあれこれ動き回るため、長丁場でも緊張感を保ちやすい。また、それぞれの挿話も『審判』よりは一般的なドラマ性を持っている。つまり、『城』もかなり台詞劇に偏ってはいるものの、『審判』と比べたら、遙かに動的かつ視覚的な作品になっているということだ。『審判』は、そのギリギリのバランスを崩し「あくまでも小説用の 舞台には向かない台詞を用いた台詞劇」に傾きすぎたため、傑作とはなりえなかったのだ。その2作よりも明確な起承転結を持ち、ストーリー性に富んだ『変身』との比較は、するまでもないだろう。
そのような問題とも絡むので、次に役者について。
出ずっぱりでヨーゼフ・Kを演じた笠木誠には、敢闘賞を与えたい。11月18日の上演時間は3時間15分以上あったが、その間に台詞を噛んだ回数は数えるほど。『城』の田中哲司が台詞を噛みまくっていたことを思えば、驚くべき仕上がりぶりだ。しかも『城』は常に1日1公演だったはずだが、こちらは昼夜2公演の日が4回もある。それを最後までこなした実力には、文句なしに拍手を送るべきだ。
だが残念なことに、田中哲司と比べると、笠木には長丁場の舞台を引っ張っていくだけの華が欠けている。それは否定しがたい事実だ。田中哲司は決して細やかな感情表現に優れた役者ではないが、舞台に立つだけで観客を惹きつける、スターらしい魅力がある。2時間ならともかく3時間を超える作品になってくると、役者に華があるかないかは、退屈せずに芝居を見られるかどうかの重要な要素になってくる。11月17日の観賞時に少なからず眠気を覚えたのも、笠木の地味さが大きな原因だった。またヨーゼフ・Kは、『城』の測量士同様、やたらと女にもてる。田中哲司ならそれも理解できるが、アクの強い顔立ちで典型的な二枚目とは言い難い笠木が、あらゆる女にもてまくる光景には、あまりリアリティが感じられなかった。
ところが12月8日の楽日には、笠木の演技が格段に良くなっていた。華がないことに変わりはないのだが、演技の押し引きがうまくなり、陰影に富んだ魅力が明らかに増していたのだ。こうしてみると11月17日は、破綻を出さないことに汲々とした、まだ生硬な演技だったことがわかる。楽日は昼夜公演だったので、その疲れが見られ、かなり台詞を噛んでいた。帽子を落っことして階段の下まで取りに行くようなハプニングさえあった。ところが皮肉なことに、そんな疲労感や落ち着きの無さが、実にうまい具合にKの心理表現として機能していたのだ。そのような偶然を誉められても嬉しくないかもしれないが、自分のコントロールを超えたところでKらしさがにじみ出ていたということは、彼が「Kを演じる」段階から「Kの人生を生きる」段階に踏み込んでいたことを示している。
なお、11月17日は前から3列目のほぼ真ん中、12月8日は最前列のほぼ真ん中で見た。たった2列前に行っただけなのに、舞台の見え方がまるで違う。時には手を伸ばせば届くほどの距離で役者が芝居をするので、生々しいことこの上もない。スズナリや駅前劇場でも、これほど近くで演技が見られることは希だ。そのような事情もあって、12月8日の演技がさらにリアルに見えた点は否定できないので、一応お断りしておく。
シアタートラムは決して大きな劇場ではないし、『失踪者』の方は、最前列で見ても最後列で見ても大きな違いは無さそうだ。しかし『審判』に関しては、たった2列ずれただけで、美術セットも役者の演技も、かなり違って見える。この芝居を最前列で見た場合と最後列で見た場合では、まるで別物のように違う作品になることだろう。
笠木誠に次いで印象に残るのは、ともさと衣だ。中盤以降、レニというキャラクターは紅一点に等しい存在となるため、地味で静的な舞台上で、彼女の美しさは大きな視覚的楽しみを与えてくれた。
ただ残念なことに、女性キャラクターでは最も登場場面が多いものの、レニはメインストーリーやKの行動に大きな影響を与える存在ではない。ポジション的には『城』のフリーダ(石村みか)とよく似ているが、フリーダの方がレニに比べれば遙かに大きな存在感を持っていた。それは測量士とフリーダのロマンスが、かなりリアルなものとして描かれていたからで、二人の愛憎関係は一つの独立した物語として十分な見応えがあった。それに比べると、尋ねてきた被告人に次々と恋をしてしまうレニのキャラクターは一種のファンタジーであり、彼女とKとのロマンスに、フリーダと測量士のような男女のリアリティを感じることは難しい。これはともさと衣の演技の問題ではなく、キャラクターが元々そういうものなのだから仕方あるまい。こういう部分も『審判』が『城』に及ばなかった一因である。
他に目立った役者は、弁護士役の斎藤歩だ。その朗々とした台詞回しは実に聞き応えがあり、時には原作以上の存在感を発揮していた。以前『北緯43°のワーニャ』における演技を酷評したことがあるが、今回の『失踪者』と『審判』は、どちらも見事な出来映えで、大いに見直した。しかし終盤に出てくる「闘牛士のような格好をした外国人」って、あれは一体何だったのだろう????
イタリア人女性を演じた大崎由利子。台詞は全部イタリア語なので言葉はまるでわからないのに、表情や身振りによって何を言っているか大体わかってしまうのだから凄いものだ。
太田緑ロランスは、モンターク嬢の役で奇妙な存在感を発揮していたが、楽日ではカットされていたのが残念。確かにストーリー上はカットされても仕方ないのだが。
逆に、小説では強い印象を残した画家ティトレリ(中田春介)とKの叔父(小嶋尚樹)は、舞台ではほとんど印象に残らなかった。中田春介は『失踪者』のロビンソン役では良い味を出していたが、ティトレリ役には持ち味が合わなかったようだ。
最後に細かい点を少し。
斉藤ネコの音楽は、場面転換の部分で大きな効果を上げていたが、そもそも音楽が流れるシーンが非常に少ないので、ちょっと物足りない。また『城』のテーマは一度聞いただけでグイッと心を鷲づかみにされる名曲だが、今回はそれに匹敵する印象深いテーマがなかったのも残念だ。
画家ティトレリが登場する直前、街の子どもたちのシーンは、動きといい衣装といい、どう見てもピナ・バウシュだ。あれも井手茂太の振り付けなのだろうか? それ以外にも、あまり井手茂太らしくないコンテンポラリーダンスや、コンテンポラリーアートの視覚表現を舞台で再現したようなシーンが幾つか見られた。
以上、いろいろと書いたが、11月17日の公演だけを見た時点では、もっと酷評になるはずだったのだ。楽日を見ることが出来て、本当に良かった。
総じて言うなら、『失踪者』はまさしく演出の勝利。ワークショップ形式の創作が最高の成果を上げた作品であり、役者たちも生き生きとした表情で演技することを楽しんでいた。
それに対して『審判』は、演出コンセプトに基本的な間違いがあり、戯曲を作らないワークショップ形式のマイナス面が出てしまった作品だ。それを笠木誠をはじめとする役者たちの熱演が、傑作とは呼べぬまでも、何とか見られるところにまで引っ張り上げた…そんなところだろう。
最後にまったくの余談。最終公演を見終えた後 食事を済ませ、電車に乗るためシアタートラムのところまで戻ってくると、ちょうど着替えや片付けをして打ち上げの乾杯が済んだ時間だったのか、あの広場周辺の至るところに出演者の顔が見えた。みんな晴れ晴れとした良い顔をしていたのが印象的だった。
(2007年12月)
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