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11/28/2007

【演劇】劇団東京乾電池『金色の魚春なのに子守歌』2007.11.27

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劇団東京乾電池『金色の魚春なのに子守歌』
2007年11月27日(火) 20:00〜 新宿ゴールデン街劇場


何だかんだで最近ほぼ毎月通っている東京乾電池の月末劇場。3回分のチケットを集めるともらえる東京乾電池手ぬぐいも、めでたくもらうことができた(写真)。しかしこれ、ハンカチでもタオルでもなく、文字通り手ぬぐいなので、使い勝手は悪そうだ。

今月の上演作品は、『眠レ、巴里』が強く印象に残った竹内銃一郎の短編を4本集めたもの。タイトルはその合成であり、こんな戯曲は存在しない。上演されたのは順番に『此処じゃない何処かへ』『金色の魚』『春なのに』『子守歌』。全部で1時間強。

見逃さなくて良かった。『眠レ、巴里』で感じた、竹内銃一郎という作家への共感が本物だった事が、これではっきりとわかったからだ。

『眠レ、巴里』も含め、この人が世界を見る視点は、不思議なほど僕の心情と合致する。どの作品も、表面的に演じられる光景は日常的なものだ。ところがその裏側では、シュールと言ってもいいほど不条理な出来事が進行している。その二重構造がとても刺激的でありつつ、同時に「人生って、本当にこういうものだよね」と奇妙なほど納得がいくのである。

つい最近読んだ本に、こんな一節がある。


全ての出来事にはそれなりの理由がある。人が納得できないのは、実際に起こったことについてではなく、なぜそれがよりによってほかの人にではなく、自分の身に起こったのか、ということである。一応、統計をとれば、ある出来事が起こる可能性や確率はすぐにでも計算できる。いつ自分の身の上に災難が降りかかるかどうかは単に確率の問題と言っても良い。しかし、いったいそれが「いつ」「どこで」起こるのかはだれにも説明することはできないのである。

『偶然のチカラ』p78 植島啓司

一見何事も無さそうな人生、しかしそのすぐ隣には、日常を根底から覆すような出来事が常に寄り添っている。その最たるものは「死」だ。どんなに若く元気な人でも、1時間後にはトラックに轢かれてズタボロの肉塊になっているかもしれない。若者は自分に何が起きたのかもわからぬまま死を迎え、周りの人は「あんなに元気だった人が、なぜ」と嘆き悲しむ。それが可能性や確率の問題であっても、心情的には誰も納得しない。「なぜ、それが私だったのか」「なぜ、それが彼だったのか」…その疑問に答えられる人間など、どこにもいないのである。

まさにそんな形で、『春なのに』の秀樹は、突然人生を断ち切られる。その死は、ある視点から見れば必然とも思えるが、観客が感じるのは、「なぜ、それが彼だったのか」という不条理の方だろう。その後の初男の台詞は、人生に対する果てしない「なぜ?」を感じさせて、吐き気を催すほどだ。

『金色の魚』は、自分の母親が金色の魚に恋をし、家族を捨てて出奔するという、最も奇妙な話。しかしこんな馬鹿げた設定においても、母と娘の会話は、極めて日常的なもので、「金色の魚に対する恋」を、人生における様々な不条理のメタファーと見ることも容易だ。10年後、「私は常に戻ってくる」と言っていた娘に母親から電話がかかってくるラストは、何事もない日常が、いつ異界へとつながるかわからない怖さを感じさせる。

『此処じゃない何処かへ』は、強盗の計画を練る二人の老婆の話で、表面的にはコメディそのものだ。しかし「なぜ、彼女たちが強盗などするのか」という滑稽さは、計画の途中で突然一人が語り出す、宇宙の創世に関する話によって、「なぜ、人間が今ここに存在しているのか」という実存的な問いへと昇華されていく。

『子守歌』は最も日常的な話だが、なぜ娘があのような行為をしたのかという解答は与えられぬままで、日常というものが死の影を内包したまま続くものであることを暗示している。

こうしてみると『眠レ、巴里』は、これらの短編に散りばめられた要素が見事に凝縮された作品であることが理解できる。姉妹二人のありふれたガールズトーク。そこに次第に侵入してくる不条理の影。全てを一挙に覆す終幕…なぜあの姉妹が、あんな悲惨な末路を辿ることになったのか、論理的には説明できる。しかしありふれた日常としか見えない芝居を見ていた観客にとって、そんな論理は何の救いにもならず、「なぜ彼女たちが」という不条理感ばかりが、吐き気のようにこみ上げてくる。

竹内銃一郎の戯曲は、ごく日常的な光景と、それが決して目に見えるほど日常的ではないという真実、我々の毎日の生活が不条理の海に浮かんだ箱庭のような存在であることを描き出す。その光景は、さながら映画『惑星ソラリス』のラストのようだ。

今後、自分が演劇を見る際、竹内銃一郎という名前は、最重要キーワードの一つにランクされることになった。この名前を僕に教えてくれた月末劇場という企画に感謝したい。


…という具合に終われれば良いのだが、今月の企画を、一つの芝居として見ると、少なからぬ不満もある。

これまでに見た4回の月末劇場の中でも、役者の演技が最も稚拙だったのだ。

特に酷かったのは『此処じゃない何処かへ』の二人。無理して歯のない老婆のしゃべり方を演じているのだが、これが不自然極まりない。動作はともかく、台詞はもう少し普通に話すべきだ。わざとらしさばかりが目立って、非常に気持ちが悪い。それに加えて、おかしな台詞を言いながら自分でにやけたり、客席の笑いに釣られたりしているのが最悪。役者が、客席の空気を読むってのは、そういうことじゃないだろう。もう少し真剣に演技しろと言いたくなった。この作品が始まってしばらくの間は「今月は失敗だった。2000円損した」と落胆したほどだ。続く『金色の魚』でも、工藤和馬がまともに台詞を言えなかったり、4本全般を通して稽古不足や拙い表現がかなり目立った。実質的に内輪向けの企画であることの悪い面ばかりが出てしまったようだ。
ただ面白いことに、『此処じゃない何処かへ』では最悪の演技を見せた吉川靖子が、次の『金色の魚』ではなかかないい味を出していたり、工藤和馬も『春なのに』ではまずまずの好演をみせていることだ。要するに、一つの役を演じるので手一杯ということなのだろうか。
その中で最も傑出した演技を見せていたのが、『春なのに』の松元夢子。たいした見せ場があるわけではないのだが、何を考えているのかわからない、その薄気味悪い存在感は、目を離せないほど強烈なものがあった。あとは上原奈美が『子守歌』の方で、なかなか良い味を出していた。


そんなわけで「もっとしっかりとした演技と演出で、竹内銃一郎の芝居を見たい」という思いが募る上演であった。戯曲集も出ているようなので、そちらも何とかして読んでみよう。


来月の上演作品はアゴタ・クリストフの『ジョンとジョー』。その戯曲自体は今回初めて知った作品で、もちろん読んでいないのだが、アゴタ・クリストフは、だいぶ前に『悪童日記』三部作を読んで非常に面白かった記憶がある。あの人の戯曲なら、ぜひ見てみたいものだ。

この月末劇場、出演者は主に若手なので演技はまだまだだったり、見ている観客が内輪ばかりで馴れ合いの雰囲気があったり、毎月HPの情報が間違っていたり(笑)、問題はたくさんあるのだが、上演される演目がいちいち興味深い。こういう作品を2000円で気軽に見られるという点では、非常に良い企画だと思う。だからこそHPに載せる情報をもっと充実させ、一般の観客にも開かれた上演にすべきなのに、なぜそう内輪に閉じ籠もりたがるのだろうか。


(2007年11月)

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