【演劇】TPT『三人姉妹』2007.7.28
TPT『三人姉妹』
2007年7月28日(土) 18:00〜 ベニサンピット
僕がチェーホフの戯曲で最も好きな作品は『ワーニャおじさん』だが、最高傑作は何かと問われれば『三人姉妹』を上げる。一般的に代表作として上げられる『桜の園』は、『三人姉妹』で大胆な作劇術を試した後、その成果をまとめ上げた作品だけに、仕上がりは極めて端正だ。しかし、大胆な芸術的野心と、多彩で動的な物語が渦巻く『三人姉妹』には、『桜の園』にはないダイナミックな面白さがある。磨き上げられた完成度では一歩譲るものの、読む者の胸に深く食い込み、忘れがたい印象を残すという点では、『三人姉妹』の方が上ではなかろうか。
同時に『三人姉妹』はチェーホフの戯曲中、一番上演が難しい作品でもある。実際の芝居は2回しか見たことがないが、どちらもろくなものではなかった。とりわけ2001年にシアターコクーンで見た上演は悪夢のように酷い代物で、まだ芝居を日常的に見ていなかった頃だけに、ある種のトラウマにさえなっている。もう一つ、劇団昴による上演は、良く言えばオーソドックスだが、はっきり言えば凡庸な出来だった。
たまたま僕が良い上演に当たっていないだけかもしれないが、戯曲を繰り返し読めば読むほど、この作品の良さを舞台上で十全に引き出すのは、不可能とは言わぬまでも、極端に困難な作業だという確信が深まってくる。
何故それほど上演が難しいのか? 最大の理由は、この作品がハーモニーの劇だからだ。通常の劇のように、一つの大きな流れがあって、そこに傍流が絡んでいく形ではなく、幾つもの細い流れが重層的な構造をなしている。それらが「絡み合う」と言うよりも、もっと緩やかに「響き合う」ような形で物語が進んでいく。そのため漫然と上演すると、いろいろな話が細切れに出てくる、ひどくとりとめのない作品になってしまうのだ。
普通の物語のように直線的な読み方をしたのでは、この劇の構造を把握することは出来ない。実のところ、僕も『三人姉妹』の凄さを理解できるようになったのは、かなり最近のことで、それまでは四大戯曲の中で最も理解しにくい作品として敬遠していたほどだ。何回も繰り返し読み込んでいくうちに、ようやく『三人姉妹』独特の多重構造を理解できるようになり、その奥深さに畏敬の念さえ覚えるようになったが、今でも読み返すたびに、「この描写は3ページ前のこれとつながっていたのか」「この第一幕の台詞は、第四幕のあれを予告していたのか」という新たな発見が出てくる。そしてどのエピソードやテーマに焦点を当てて読むかで、表情が様々に変わっていく。
言うなれば『三人姉妹』という劇は、様々な楽器のパート譜が何重にも重なったオーケストラのフルスコアのようなものだ。ところが紙に書かれた戯曲には、そのような記述形式がないから始末が悪い。紙に書かれた『三人姉妹』は、言うなれば、フルスコアを分解して、ヴァイオリンのパート譜が八小節→ティンパニのパート譜が四小節→フルートのパート譜が十六小節…というような形で配置した代物だ。そんな楽譜をそのまま演奏したところで、交響曲にならないことは明白だろう。『三人姉妹』の上演に必要なのは、そのパート譜を交響曲のフルスコアとして再構成し、各楽器(エピソード)が最高のハーモニーを奏でられるように配置し直す、音楽的、もしくは建築的な作業なのだ。もちろんどんな芝居においても、そのような作業は求められるが、『三人姉妹』を再構成してハーモニーを作り上げる作業は、その中でも頭抜けて困難だろうと思う。
そして残念なことに、『三人姉妹』の壮大なハーモニーを満足のいく形で鳴り響かせた例は、まだ見たことがない。唯一面白かったのはMODEの『逃げ去る恋』だが、あれは『三人姉妹』の中から幾つかの要素を抽出し、原作にはないオリジナルパートをたっぷりと加え、結婚に関するコメディとして再構成した作品だ。本来の姿が交響曲だとしたら、そのテーマを借用して自由に演奏されたジャズのセッションといったところか。『三人姉妹』をモチーフにした作品ではあるが、別枠扱いが適当だろう。
そして今回のTPT(シアター・プロジェクト・トーキョー)による上演も、『三人姉妹』を交響曲用のフルスコアとして再構成することなく、パート譜を直線的に連ねただけの凡庸な出来に終わっている。演出はオーソドックスだが、やはりこの作品は、紙に書かれた戯曲をオーソドックスになぞっただけでは歯が立たないことを痛感させられた。ただし演出がオーソドックスでも、役者に高度な技量があり、一つの言葉や表情に複雑な思いを込めたり、バックに引っ込んでいる時も自分の物語を観客に持続的に感じさせたりすることが出来れば、話は違ってくる。しかし今回の上演は、オーディション・ワークショップで選ばれた若い人たち(本来 役者ではない人もいる)の集まりなので、とてもそこまでは望めない。
しかし演出がオーソドックスな分、良くも悪くも見所は役者の演技になってくるので、以下役者の話を。
ずば抜けて良かったのが、次女マーシャ役の浜崎茜。今回初めて名前を知った人だが、主にテレビなどで活躍している女優らしい。『かもめ』のマーシャ(同名)さながら、終始「人生の喪服」に身を包んた姿は、憂いに満ちた美しさに溢れ、彼女が出てくるだけで、そちらに目が引き寄せられる。彼女の最も素晴らしい点は、他の人物が前面で喋っているとき、その言葉の一つ一つに確かな反応を示していることだ。あまりうまくない役者が前面で台詞を話している姿を見ているよりも、その台詞を聞く浜崎の表情の変化を見ている方が、『三人姉妹』本来の世界を味わえることさえあった。
ただしそういった静の部分はかなりの高得点だが、彼女が前面に立つ動の部分については、まだまだ改善の余地がある。たとえば、彼女が夫クルイギンの凡俗さに愛想を尽かしている感じは出ていたが、その反動もあってヴェルーシニンに心惹かれる感情の動きはあまり出ていなかった。まあ、これはヴェルシーニン役の笠原浩夫に魅力が足りなかったせいもあるのだが…
ソリョーニ役の小寺悠介は、最初少し違和感を覚えたのだが、後になるほど馴染んできて「なるほど、ソリョーニとはこういう人物だったのかもしれないな」と思わせてくれた。このソリョーニというキャラクターは『三人姉妹』の中でも特に難しい役柄で、この人物像を描くのに失敗すると、作品全体がボロボロになってしまう。そんな難役を、小寺は達者にこなしていた。あれで、エキセントリックな行動の裏側に潜む繊細さがもう少し出ていたら、さらに良かっただろう。
役者の中で唯一知っていたのが、フェドーチク役の奥山滋樹。劇団東京乾電池のワークショップ修了公演『海辺のバカ』で目立っていた彼だ。フェドーチクは決して大きな役ではないので、今回はあまり演技的な見せ場はなかったが、やはりこの人には独特の奇妙な存在感があり、舞台に出てくるだけで、良い意味での異物感を与えてくれる。この個性を育てつつ、基本的な演技力を高めていったら、貴重なバイプレイヤーに成長していくのではなかろうか。
良かったのは、その3人くらいか。あとは何かしら違和感があったり、キャラクター造型が浅かったり、演技的に拙かったりで、問題があった。それは必ずしも役者本人の力量だけでなく、明らかなミスキャスティングによる部分が大きい。このあたりは むしろ演出家(門井均)の責任が問われるところだ。
ミスキャスティングの最たるものは、トゥーゼンバッハ役の藤沢大悟 だ。風采が上がらず、朴訥としたキャラクターのトゥーゼンバッハが、なぜあんなに爽やかで今風のイケメンになってしまうのだろう。あれでは「彼が初めて軍服を脱いで家に来たとき、あまりのみっともなさに泣いてしまった」というオリガの台詞が完全に宙に浮いてしまう。決闘を目前に控えたトゥーゼンバッハがイリーナに言う「ただ一つ心残りなのは、あなたが私を愛していないことです」という台詞の悲しみも、まったく出てこない。藤沢と唐沢美帆のコンビは、いかにも今風の若い恋人たちで、どこからどう見てもお似合いのカップルだ。あれでは、イリーナが「あなたを尊敬することは出来るけれど、どうしても愛することが出来ないの」と言う理由が理解できない。
一体どこをどうしたら、トゥーゼンバッハ役にあんなスマートなイケメンを配するという発想が出てくるのだろうか。それによって全く新しいトゥーゼンバッハ像を作り出そうというならともかく、キャラクター自体は原作から特に変わっていないのだから、違和感が募るばかりだ。
チェブトゥイキン役の加治慶三も大問題だ。退役間近の老人を、ろくに老けメイクもしていない若者が、あんなに若々しく演じることで、何を描こうとしたのだろう? あれではチェブトゥイキンが一体どんな人物なのかわからず、混乱をきたすだけだ。
クルイギン役の田村元も長身の爽やかな好青年という感じで、クルイギンの凡俗さや情けなさがまるで出ていない。第四幕で、ヴェルシーニンとの別れで半狂乱になっているマーシャに彼が言う、優しさと臆病さと保身が入り交じったような台詞にもリアリティが感じられない。
長男アンドレイ役の瀬戸口剛も同様で、外見も含め、堂々としすぎている。今回の芝居は、男優陣でのミスキャスティングが目立ちすぎだ。
ヴェルーシニン役の笠原浩夫は、キャスティング上は問題ないのだが、終始薄ら笑いを浮かべたような表情に違和感があった。それを人生に対する皮肉な笑みと受け取るには、ヴェルシーニンが背負っている人生の苦みが感じられなかった。マーシャとの不倫の恋も説得力がない。
女優陣に目を向けると、オルガ役の呂美が、いかにも「戯曲に書かれたとおりの芝居をしています」という感じで、行間にあるものを表現しきれていない。特に、文字上では詳しく書かれていないがオルガという人物を理解する上で欠かせない「学校の教師」としての姿が見えてこなかった。長女らしい包容力も感じられず、次女の浜崎茜の方がずっと大人に見えたのが辛い。
イリーナ役の唐沢美帆は、いかにも青い演技だが、イリーナというキャラクターを考えれば、あれはあれでそう悪くはないかも…という気はした。一本調子な部分が直れば、さらに良いのだが。
ナターリャ役の香里菜知子は、かなりカリカチュアした「嫌な女」を演じていたが、少々やり過ぎの感もある。第一幕からずっと滑稽で嫌な人物を大げさに演じているため、垢抜けないが純朴な女が、次第に化け物と化していく変貌ぶりが出ていない。役作りとして、安っぽい香水をたっぷりつけていたようだが、最前列であの匂いをかがされるのは、少々苦痛だった。
そんなわけで、「若い役者を集めて『三人姉妹』をやってみました」という以上のものは感じられない上演だった。オーソドックスにやるなら、幅広い年齢の役者を集めて、それぞれの役に合ったキャスティングをすべきだし、「若者たちによる新しい『三人姉妹』を作ろう」というなら、もっと大胆な演出を施し、こちらの既成概念を打ち砕く斬新な解釈を見せて欲しかった。これではどの観点からしても中途半端で、結局何をやりたかったのかがわからない。
最後に一つ良い点を上げておくと、ラストの三人姉妹の台詞は、一歩間違えれば赤面ものの難しい場面だが、この上演では非常に自然なものに感じられ、ラストを綺麗に締めくくっていた。「どうだっていいことだ」というチェブトゥイキンの台詞がカットされたことで、彼女たちの悲壮な決意を相対化する奥深さは失われたが、全体の流れからすれば、必ずしも間違いではなかったように思う。
(2007年8月)
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Comments
ぼのぼのさん、初めまして。
先日はトラックバックありがとうございました。
ぼのぼのさんのレビューには、
足元にも及ばない書きなぐり程度の感想で
恥ずかしい限りです。
ブログ始めたばかりで、トラックバックしてもらったのが
初めてでした、ので、初トラバ返しです。
ぼのぼのさんのレビュー、これから
沢山拝見して、今後の新しいものも
楽しみにしています。
Posted by: 水記 | 08/04/2007 11:11