【映画】『しゃべれども しゃべれども』我が暮らし楽にならず…
うだつの上がらない二つ目の落語家今昔亭三つ葉(国分太一)が、ひょんなことから「落語を通じて話し方を習う会」を開くことになる。生徒は、美人なのに恐ろしく無愛想な十川五月(香里奈)、口は達者なのに関西弁が元でいじめられている小学生 村林優(森永悠希)、元野球選手だが解説が極端にヘタで仕事を干されつつある湯河原太一(松重豊)の3人。しかしこの3人、何かといえば喧嘩を始め、収拾が付かない。三つ葉は思いを寄せていた女性(占部房子)に失恋し、落語でも今ひとつ殻を破れない。八方ふさがりの4人は、自分の思いを他人に伝える術をつかもうと、それぞれにもがき始める…
原作は佐藤多佳子、監督は平山秀幸、脚本は奥寺佐渡子。
落語の世界を舞台にしていること以外、それほど新味のあるストーリーではない。話の展開は先が見えるし、人物の配置も類型的といえば類型的だ。しかし、決まりきった話を噺家独自の個性で新鮮に聞かせる落語さながら、ありがちな物語を、細かな作り込みや巧みな語り口によって、見事な作品に仕上げている。平山秀幸監督は、『魔界転生』『レディジョーカー』と続いた大黒星をようやく返上し、『愛を乞うひと』以来の傑作をものにした。
特筆すべきは、登場人物の描き込みだ。この手の映画は、登場人物にシンパシーを覚えさせたら成功したも同然。その点、この作品は完璧と言っていい出来だ。
主人公の三つ葉は、まだ若くていい男なのに、古典しかやらないとか、プライヴェートでも常に着物を着るとかいう頑固さが、彼の不器用な生き方を表わしている。落語は話せても、日常生活で思いを伝える難しさは他の人と変わらない。終盤、十川に向かって言い放つ「落語なんか話せるようになっても、何も変わらないぞ!」という台詞は、そんな自分自身に対する苛立ちでもあり、だからこそ十川だけでなく、見る者の心にも深く突き刺さる。
村林を演じた子役の森永悠希には、誰でも驚かされることだろう。映画初出演だそうだが、あまりにも巧すぎる。クライマックスにおける彼といじめっ子のやり取りは、この映画で最もグッと来た場面の一つだ。巧すぎて可愛気がないという意見もあるが、やはり彼が竹林を演じたからこそ、これほどの傑作に仕上がったことは疑いようがない。
そんな村林と対になる役回りを演じたのが松重豊。最初の内は、野球選手らしくない体格が気になったが、文字通り女子どもに簡単に言い負かされてしまう彼の不器用さが、次第に胸に染みてくる。バイトをしている居酒屋での格好悪さを経て、村林にバッティングを教えるところで、この人のことがすっかり好きになってしまった。
だが個人的に一番はまったのは、香里奈が演じた十川五月だ。こういう言い方は、非常にあれ(どれ?)なのだが…これほど他人と思えないキャラクターも珍しい。
話し方教室で講義をする三つ葉の師匠(伊東四朗)の話に苛立ち、途中退席する十川。理由を問う三つ葉に対し、十川は言う。「あの人、本気で喋ってないじゃない。私たちを馬鹿にしてるわ」…これは、僕がしょっちゅう感じている怒りと同じものか? 相手が機械的に話をしていることが透けて見えた瞬間、すっかり心が離れ、その相手に軽い憎悪や敵意や軽蔑を抱いてしまう、あれか? そうすべきではないとわかっていても、未だに心の中でそれをやってしまう自分としては、初っ端から「アイタタタ…」という感じだ。いきなりそんなエピソードが描かれることで、彼女が口下手で、相手の喜ぶようなことを言えないという設定が、リアルなものとして納得できる。
そんな風に「型通りの会話、心のこもっていない言葉」をかけられることに我慢できない人間は、自分自身が型通りの言葉を口にすることも潔しとしない。だが言うまでもなく、口から出る言葉の全てに自分の真情を込めることなど不可能であり、結局はどこかで妥協点を見いだすしかない。しかしその妥協点をうまく見つけられないため、どうしても口が重くなってしまう人間がたまにいる。この映画の十川も、そして僕も、そんな人間だ。
もう一つ十川が他人と思えなかったのは、彼女が常に黒い服に身を包んでいる点だ。しかも彼女の場合、住んでいるのが下町なので、回りの風景からの浮きっぷりはかなり痛々しいものがある。自分が黒い服ばかり身につけているのは、単にコーディネートが楽とか、汚れが目立たないとか(笑)いう理由もあるが、彼女の姿を見ているうちに、そこには他人との間に一定の距離を置こうとする精神的な理由もあることが、よくわかった。まさしく我と我が身を見ている気分だ。
香里奈ほどの美女が口下手故にもてないという設定は、普通なら「嘘つけ」としか思えぬ白々しさが漂うものだが、この作品の彼女には「確かにこれでは普通の男は逃げるだろう」というリアルさが感じられる。だからこそ、彼女が他人とのコミュニケーションを求めてもがく姿に、素直に感動できるのだ。
この物語は、一見すると、4人がどのように成長し、他人とのコミュニケーションをうまく掴めるようになるかという成長物語のように見える。しかし最後まで見ても「結局彼らはどんな成長を遂げたのか?」という点は、少々曖昧であり、娯楽映画らしい明確なカタルシスには欠けている。
しかし、それでいいのである。「落語なんか話せるようになっても、何も変わらないぞ!」という三つ葉の台詞通り、この映画には、コミュニケーションの不具合を解決する特効薬など、最初から描かれていない。代わりにあるのは、そんな自分の不器用さを受け入れ、諦め、そして肯定すること。「自分の欠点によって傷つくことに、必要以上に臆病になるな」という励ましのメッセージだ。コミュニケーションがヘタだからと言って人生から降りてしまう必要はないし、そのような欠点を抱え、もがき苦しみながらも、人は自分なりの幸福を掴み、生きていけるのである。
コミュニケーションの不具合が題材となっていることから、この映画を『バベル』と比較する意見も見かけるが、僕はむしろ「不器用な人間の、人生に対する諦念と肯定」というテーマから、『リトル・ミス・サンシャイン』に近いポジションに立つ作品ではないかと思う。
歴史に残るような作品ではないだろうが、これほど見る者に心地良い共感をもたらし、楽しませてくれる映画は滅多にない。あまり大きな話題になってはいないが、他のどんな大作よりも必見の、愛すべき映画だ。
(2007年6月)
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