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05/13/2007

【演劇】東京ノーヴィ・レパートリーシアター『ワーニャ伯父さん』2007.5.8

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東京ノーヴィ・レパートリーシアター『ワーニャ伯父さん』
2007年5月8日(火) 19:00〜 ミニシアターKYO


先日の『かもめ』に続いて、東京ノーヴィ・レパートリーシアターのチェーホフ劇『ワーニャ伯父さん』を見た。

『ワーニャ伯父さん』は、チェーホフの戯曲の中で最も好きな作品だ。作劇術の巧みさや物語の重層的な深さでは『三人姉妹』『桜の園』の方が上だと思うが、自分にとって、これほど好きな戯曲、登場人物の苦しみや哀しみが全て我が事として理解できる戯曲はない。
そして『ワーニャ伯父さん』はチェーホフの四大戯曲の中でも、最も上演しやすい、ハズレの少ない作品だ。他の三作に比べるとストーリーや人間関係がシンプルなので、内容を妥当に解釈し、ある程度のテンポを保つことが出来れば、そうひどい出来にはならない。おそらく一番上演が難しいのは、クラシックの難曲のように高度なハーモニーとリズムを要求される『三人姉妹』だろう。

今までに見たワーニャの舞台は、1998年シアター・コクーンでの『ワーニャ伯父さん』(演出 ルドルフ・ジョーウォ)、2002年 新国立劇場での『ワーニャおじさん』(演出 栗山民也)、2006年こまばアゴラでの『北緯43°のワーニャ』(演出 斎藤歩)の3本。
この内『北緯43°のワーニャ』だけは、昨年レビューを書いたとおり、内容をまるで血肉化できていないダメ作品だったが、あとの2作は、それぞれに見事な出来映えだった。役者たちも魅力的で、シアターコクーンでの立川三貴(アーストロフ)、新国立劇場での鈴木瑞穂(セレブリャーコフ)と角野卓造(ワーニャ)は、強く印象に残っている。中でもセリブリャーコフを演じた鈴木瑞穂は、尊大さと俗物性と、それでも人を惹きつけてしまう不思議な魅力を兼ね備えていて、秀逸だった。


と言うわけで、東京ノーヴィ・レパートリーシアターによる『ワーニャ伯父さん』だ。

まず結論を書こう。『かもめ』は、興味深くはあるものの首を傾げる部分も多く、素直に肯定できるものではなかったが、こちらは絶賛に値する出来映えだ。これまでに見た中で最も感動的な『ワーニャ伯父さん』、いや最も感動的なチェーホフ劇と言ってもいいかもしれない。


ただし非の打ち所が無いというわけではなく、気になった点も多いので、先にそちらについて書こう。

相変わらず劇場が暗すぎる。どうやら作品ごとの演出によるものではなく、舞台を照らす照明がこれ以上設置されていないらしい。第四部のワーニャとアーストロフの会話シーンでは、『かもめ』の第四部と同様、人物の表情がまったく見えなくなってしまう。第二部も、いくら設定が夜とは言え、あの長丁場で照明がほとんどランプ一つなのはきつかった。ソーニャとエレーナのシーンでは、その照明が妙にはまっていたが、ワーニャの独白は全編で最も中だるみするシーンになっていた。

そしてこれも『かもめ』と同じく、芝居がかった台詞回しを排したリアルな会話で演じられるため、小さな劇場以外での上演は無理。この作品をシアターXで上映したとき、台詞が聞こえなくて帰った人がいたのも当然だと思った。ただし、これはあくまでもそういう上演スタイルの作品なので、小さな劇場でやっている分には文句を言う筋合いはない。批判されるべきは、このスタイルのままシアターXで上演をしてしまう無謀さの方だろう。
『ワーニャ伯父さん』はモスクワ芸術座で初演が行われている。正確な席数はわからないが、写真を見る限り大きな劇場であることは間違いない。つまりこの演技/演出スタイルで上演される『ワーニャ伯父さん』は、決してチェーホフが本来思い描いていたものではなく、特殊な方法論によって作り上げられた、異端の『ワーニャ伯父さん』なのだ。ただし表面的なスタイルは異端であっても、戯曲の本質にしっかり深く食らいついていることは間違いない。

役者と役柄の年齢があっていない人が何人かいて、違和感を覚えた。一番ひどいのはセレブリャーコフ(稲田栄二)で、あのメイクはドリフターズのコントにしか見えない。若くて美しいエレーナが、鈴木瑞穂に心を奪われることはあっても、あんなマモーみたいな爺さんに惹かれることはないだろう。二人が夫婦として並ぶと、どう見てもただのギャグだ。テレーギン役の岡崎弘司もかなりのメイクをしていたが、そちらは役柄上あまり違和感を覚えなかった。
そしてワーニャ役の菅沢晃は、出てきた瞬間「え? この人がワーニャ? 何かの間違いでは?」とビックリしてしまった。ワーニャは47歳の設定だが、あれではせいぜい37歳、ヘタをすれば27歳だ。ただし、この件については後で詳しく述べる。


次に良い点。


台詞は『かもめ』と同じように現代風の口語になっている。前回も気になったのだが、この台本は誰の翻訳をベースにしているのだろう? 神西清訳をベースにして、それを役者が自分の口から出る自然な言葉に直しているように感じられるのだが。
台詞の自然さは前回も最大の美点だと思ったが、こちらで目を見張ったのは、しばしば複数の会話が同時進行することだ。前でワーニャたちがメインの会話をしているのに、後ろでは、テレーギンたちがまったく別のピントがずれたような会話をしている。その滑稽さ、「お前にとっては重要な出来事も、他人にとっては大した問題ではないのだ」という虚しさ…ああ、これこそがチェーホフだと、心が震えた。この演出は、第三幕で、ソフィーがエレーナにアーストロフの回答を尋ねるシーンで大きな効果を発揮している。ただし、内容をまったく知らない人が見たら、メインの会話ではなくバックグラウンドの会話に耳を傾けてしまう可能性もあり、『ワーニャ伯父さん』について、ある程度の知識を持っている人向けの演出ではあるかもしれない。

全体のテンポやメリハリの付け方も『かもめ』より遙かに良くできている。照明が暗すぎる関係もあって、第二幕の途中で少し間延びする部分はあるが、致命的な問題ではない。上演時間は15分の休憩込みで約3時間20分。ということは、かなりゆったりとしたテンポなのだが、ほとんど冗漫さは感じない。


そして特筆すべきは俳優陣だ。

中でも絶賛に値するのが、ワーニャ役の菅沢晃と、ソーニャ役の三浦尚子だ。

菅沢晃は、すでに述べたように、どうがんばっても47歳には見えない。外見や立ち居振る舞いだけ見たら、これの一体どこがワーニャなのだと突っ込まざるをえないほど若々しい。したがって、もはや再出発も不可能な47歳という年齢に達した男の憂愁は、ほとんど感じられない。戯曲の要となる要素を最初から捨て去った異端のキャスティングだ。
しかしその異端のワーニャの何と魅力的なことよ! 中年男ならではの憂愁こそ感じられないが、田舎の管理人暮らしで知性を持てあましている鬱屈や、この先もだらだらと空虚な人生が続くことが見えてしまった苛立ちが、鮮明に表現されている。とりわけ第三幕のセレブリャーコフとの言い合いは、一見冷静に椅子に座りながらも、言葉の応酬の中で次第に感情が高ぶっていく様を演じて圧巻だ。他の人々がいろいろと口を挟む演出(演技?)が、ここでも大きな効果を上げている。
最も注目すべきは、そのコメディセンスだ。先日黒テントの『かもめ』評でも書いたとおり、チェーホフ劇に余分なものを付け足して無理に喜劇色を出そうとしても、大抵は失敗する。ところがこの作品における菅沢晃は、余分なものを付け足すのではなく、あくまでも元の戯曲に則りながら、それを微妙にデフォルメしたりアレンジしたりして笑わせるのだ。「さんざん読んできたお馴染みの台詞を、こんな風に言うことも出来たのか。あのさり気ないト書きを、こんな風に演じることも出来たのか」という驚きの連続。それは、ジャズミュージシャンが、スタンダードソングから全く新しい魅力を引き出してくるのにも似た光景だった。チェーホフの喜劇は、このように演じられるべきなのだ。もっとも『ワーニャ伯父さん』は「四幕の喜劇」ではなく「四幕の田園生活劇」と銘打たれてはいるのだが。
ただ惜しむらくは、第四幕の、アーストロフを前にした嘆きに、少しリアリティが欠けていた。あそこはやはり47歳の中年、当時のロシアなら初老と言ってもいい年齢(チェーホフ自身は、その歳まで生きられなかったのだ)に達した男の嘆きだからこそ胸に染みるのであって、まだ若々しい菅沢に言われても、その哀しみは十全には伝わってこない。これは彼が実際に歳を重ねるまで待つしかないだろう。

ソーニャ役の三浦尚子は、左門豊作のごときメガネやメイクで不器量さを表現しているが、すらりとした立ち姿が美しいためか、それほど不細工な印象はない。そのため最初のうちは、他のキャラクターのアクの強さに圧倒され、ほとんど目立たない。彼女の演技が見る者の心を強く捉えるのは、第二幕の後半からだ。アーストロフへの思いと自分のコンプレックスを独白する場面からエレーナとの対話にかけては「そう、この台詞はこういう風に語って欲しかったんだよ」の連続。感情が高ぶって、涙と笑いがごちゃ混ぜになってしまったソーニャの、何と愛しく切ないことよ。エレーナの告白を、つい笑いながら聞いてしまう無神経な態度さえ、彼女の演技を通してみると、自然な心理の流れとして納得できてしまう。第三幕で彼女がセレブリャーコフに「哀れみの心を持ってください」と嘆願するところや、マリーナが彼女の体にそっと手を添え「ガチョウがガアガア騒いでるだけですよ」と慰めるところでは、思わず涙がこぼれそうになったほどだ。
そして第四幕のラスト、あの長台詞を、まさかこんな風に話すとは予想もしなかった。『三人姉妹』のラストもそうだが、この部分はどうしても締めの台詞を読む感じになってしまい、そこまでの話の流れから浮いた印象になりがちだ。それがこんなにも自然に、こんなにも感動的に、心に響いてくるとは…
戯曲では、この場面でワーニャは涙を流し、その頭をそっと抱きしめるソーニャもまた涙声になる。しかしこの上演では、ワーニャも、それまで泣き役を一人で担当していたソーニャも涙を流さない。ソーニャの台詞は、字面だけを見れば、戯曲と同様、辛い人生をひたすら堪え忍ぶよう訴えるものだが、三浦尚子の話し方は、そのニュアンスを大幅に改変し、アーストロフが第二幕で語った「遠くに見える灯火」を感じさせるものになっている。それをじっと見つめるワーニャの、悲しみと、諦念と、かすかな救いを求める気持ちがが混ざり合った表情…ゆったりとした暗転の中に消えていく二人の姿は、当分の間脳裏から消え去ることはないだろう。
菅沢晃のワーニャは、極めて魅力的だが、47歳の憂愁を切り捨てた点に若干の未練が残る。しかし三浦尚子のソーニャに関して言えば、ほぼパーフェクトだ。これまでに見た、そして僕がイメージしていたソーニャ像を打ち破りながら、これこそがソーニャなのだと納得させる力がある。今後は三浦の演技が、僕の中でソーニャのスタンダードになりそうだ。

渡部朋彦の演じたアーストロフは、登場した瞬間、強い抵抗を覚えた。立川三貴や中村育二が演じた、ワイルドだが男の色気を漂わせた二枚目のアーストロフに対し、ただがさつなだけの魅力がない男で、でかい口ひげが滑稽に見えたからだ。もっともこの口ひげは、台詞にもちゃんと書かれているので、実はこれが正しいメイクなのだろうけれど。
その違和感が和らいできたのは、第二幕からだ。今までのイメージと違うアーストロフに次第に慣れてきて、これはこれで一つの解釈としてありだろうと思い始めたのだ。とりわけ第二幕における、酔っぱらった状態でのソーニャとのやり取り、そして第三幕のエレーナとのやり取りは、とても自然なものに感じられた。
とは言え、惜しい点が一つある。現在の生活に疲れ、心が荒んでしまったアーストロフはよく表現できているのだが、その泥沼の中で、今もかすかに未来を夢見ている心情、エレーナが言う「一本の木を植えるにも、千年先の姿を想像し、人類の幸福を思い描いている」部分があまり表現できていないのだ。エレーナに地図の説明をする場面でも、彼の心は過去や未来を大きく行き来することなく、現在に絡め取られているように見える。それではアーストロフという人物の非常に大切な部分が欠けてしまう。他が良いだけに、この点が何とも惜しい。もっとも「身近な人間関係における感情表現はうまいのだが、より巨大な理想や概念の表現になると急にリアリティがなくなる」というスケールの小ささは、小劇場系の役者全般に言えることだが(いや、あえて小劇場系のと限定する必要もないのかな…)。

少々問題を感じたのは、エレーナを演じた串田奈温子だ。一言で言うと「テンション低すぎ」。前半の、おそらくは意図的な影の薄さは、やり過ぎの感がある。ワーニャやアーストロフの個性が強烈なので、エレーナも最初から後半程度の存在感を示さないと、物語のアンサンブルが崩れてしまう。ワーニャもアーストロフも、ただ顔形が綺麗だからエレーナに惹かれたわけではなく、彼女の持つ都会的な匂いや、女性としてのエレガントさに惹かれたのであろう。また、音楽で身を立てようとしながらも叶わず、老教授の妻となることで生計の道を立てている彼女に、自分たちと同類(彼女が言うところの「端役」)の哀しみを感じ取っていたのかもしれない。そういう微妙なニュアンスが、抑えすぎた演技によって、単なる「暗さ」に埋もれてしまっている。
ただし演技の方向性自体は間違っていないと思う。エレーナは、実はこの作品で一番難しい役どころなのだが、きちんとした解釈がなされていた。特にソーニャとの絡みは秀逸だ。これで全体的なテンションを上げて、第一幕からもっと存在感を発揮できれば、さらに良くなるはずだ。

セレブリャーコフの稲田栄二は、最初に述べたとおりドリフ並みのメイクがひどすぎる。ただし老教授の俗物臭は良く出ているし、第三幕でソーニャに諭されて心が揺れ動く様を表現した部分など、今までにない新鮮さがあった。それでも最後まで、彼がエレーナと夫婦である不自然さが消えないのが残念だ。

ヴォイニーツカヤ夫人役の西山知子、テレーギンの岡崎弘司、マリーナの山下智寿子、エフィームの一柳潤は、それぞれに好演。とりわけテレーギンは秀逸だった。


以上、決して不満がないわけではない。ト書きを無視している部分や、台詞の意味合いを変えたところも目立つので、チェーホフの思い描いていた『ワーニャ伯父さん』本来の姿とは少し違うものになっているかもしれない。しかし、これはこれで一つの『ワーニャ伯父さん』として、絶賛に値する。チェーホフが好きな人はもちろん、チェーホフを知らない人にも勧められる、見事な出来映えだ。


そして、このような芝居を見ると、あらためて『ワーニャ伯父さん』という戯曲が持つ魅力に心を打たれてしまう。
この作品の素晴らしさは「視点」にある。人が人生の中で普遍的に抱える問題、それを描く手法ではなく、それを見抜く視点そのもの、提示された問題点そのものが、胸を深く貫いてくるのだ。苦しむ人々を見つめる視点は、静かな共感に満ちたものであるが、より巨大な視点を並列させることで、その苦しみを相対化することも忘れていない。我々の人生が、悲劇であると同時に喜劇でもあることを見抜く明晰な視点…それこそ、僕がチェーホフの作品を愛してやまぬ、最大の理由だ。


次は順番どおりにいけば『三人姉妹』。しかし最初の方で述べたように、『三人姉妹』は最も上演が難しい作品で、悪夢のように酷い代物を見せられたトラウマもある。しかも四大戯曲中、最も長い作品なので、『ワーニャ伯父さん』で3時間20分かかるスタイルなら、『三人姉妹』では、ほぼ4時間? むむ…見たいけど恐ろしい。恐ろしいけど見たい。


(2007年5月)

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