【演劇】黒テント『かもめ』2007.4.27
黒テント『かもめ』
2007年4月27日(金) 19:00〜 シアターIWATO
前週の金曜日に東京ノーヴィ・レパートリーシアターの『かもめ』を見たが、それに続いて今度は黒テントの『かもめ』。しかもこの間に、神西清訳の戯曲も読み直している。まさにかもめづくしの一週間。かもめって食うと美味いのだろうか。
黒テントの芝居を見るのは今回が初めて。中心人物である佐藤信の演出作品も、多分見たことがなかったと思う。ただしこの作品の演出は佐藤信ではなく、斎藤晴彦。斎藤はトリゴーリン役で出演もしている。
舞台セットは、椅子とテーブル類とカーテンだけの、ほとんど素舞台に近いもの。役者の衣装も現代的なものだ。しかしそういう点での物足りなさは、ほとんど感じない。これだけ何にもない舞台でもチェーホフ劇は演じられるのだという点に、むしろ感心したくらいだ。
東京ノーヴィ・レパートリーシアターとは似ても似つかぬ『かもめ』。この二つは、かなり両極端に位置するものと言っていいだろう。
黒テント版の特徴は、一言で言えば「喜劇性の強調」だ。その点一つ取っても、登場人物が泣いてばかりいるレパートリーシアター版とは、まったく正反対だ。
ただしその喜劇性の強調が、必ずしもうまくいっていないのが辛いところだ。元の戯曲にある喜劇的要素を強調して笑わせているところもあるが、大部分は、役者のひょうきんな動きや場違いな話し方など、新たに付け足したものであるため、どうしても無理矢理感が漂っている。一番の問題は、余計な要素を付け加えたために、さっきまでふざけていた人物が急に深刻になるなど、ドラマの展開や感情の変化が支離滅裂になっていること。これでは物語に素直についていく事が出来ない。
なるほど、確かに『かもめ』は、チェーホフ自身によって「喜劇」と名づけられている。しかしごく普通に見れば、これは明らかに悲劇であろう。主要人物の自殺で幕を閉じる作品の、一体どこが喜劇なのか? これはずっと前から解けない疑問だった。
ところが最近読んだ本の中に、それに対する一つの解答となる言葉が書かれていた。こんな言葉だ。
この世界は
感じる者にとっては悲劇であるが
考える者にとっては喜劇である
チェーホフが言う喜劇とは、今回見たような、ドタバタした文字通りの喜劇(笑劇?)ではなく、上の言葉に示されたような意味での喜劇ではないだろうか。様々な絶望・別れ・死に満ちた日常は、人間的な視点から見れば悲劇以外の何ものでもない。しかしそんな日常的悲劇も、より客観的な視点から眺めれば喜劇に見えてくる。
人生を天と地の視点両方から見るチェーホフの作劇は、続く『ワーニャおじさん』と『三人姉妹』において、さらに顕著なものとなるが、この『かもめ』では、それほどはっきりと「天の視点」を表す台詞はない。しかし巻頭に記された「喜劇」という文字は、「この物語を、日常的な悲劇としてウェットにとらえ過ぎないで欲しい。より客観的な視点から見たとき、人生の悲劇は簡単に喜劇へ転化し、身を切るような苦しみも滑稽なものとなる。そのような客観的視点を常に保ち、登場人物一人一人の苦しみが、決してこの世界全てにとっての悲劇ではないことを忘れないで欲しい」チェーホフが『かもめ』を喜劇と謳った真意は、そんなところにあったのではないだろうか。
だとすれば、そのような意味での「喜劇」に、無理矢理お笑いの要素を付け加えて演じたところで、うまくいくはずはないのである。
その無理が一番露呈しているのが第四幕だ。そこまでは何とか喜劇的トーンを保っているのだが、第四幕のクライマックスとなるトレープレフとニーナの再会からラストにかけては、さすがに笑いを取ることは無理なようで、普通の深刻なドラマになってしまっている。しかしそこをシリアスにやってしまったことで、それまでの笑いは余計な付け足しだったのだということが、一層明白になっている。
あまりにウェットな東京ノーヴィ・レパートリーシアターの上演も全面的に肯定できるものではないし、そちらが取りこぼしたものを黒テント版がすくい上げていることは確かだ。しかし、単純に否定できない美点はあるものの、全体的には、『かもめ』という作品の本質を誤解した上演、よく言っても「実験的な上演」以上のものではないと思う。
役者では、トリゴーリン役の斎藤晴彦がさすがの存在感で、彼の芝居だけを部分的に切り離してみれば非常に面白い。しかそれが『かもめ』のトリゴーリンなのかと言えば突っ込みどころ満載で、「何でそうなるの?」と言いたくなるところがたくさんある。そもそもトリゴーリンはまだ三十代である。斎藤に演じさせるなら、せめて彼の年齢に関する台詞はカットして、アルカージナより年上という設定に変えておけばいいのに。
アルカージナ役の横田桂子も悪くない出来だが、それ以外の役者は、はっきり言ってイマイチ。特にトレープレフ役の足立昌弥に魅力がなく、トレープレフの行動や感情に一貫性が感じられないのが致命的だ。ニーナ役の遠藤良子も、ただ書かれた台詞を話しているだけという感じで、トレープレフとの再会シーンにおいても何一つ伝わってくるものはなかった。
(2007年5月)
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