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04/22/2007

【演劇】東京ノーヴィ・レパートリーシアター『かもめ』2007.4.20

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東京ノーヴィ・レパートリーシアター『かもめ』
2007年4月20日(金) 19:00〜 ミニシアターKYO


前から見よう見ようと思いつつ、「いつもやっているのだから後回しにしても…」と見送り続けていた東京ノーヴィ・レパートリーシアター、ようやく初見。
下北沢の小さなスペースで、チェーホフの四大戯曲と、ゴーリキの『どん底で』、近松門左衛門の『曽根崎心中』という6本の作品だけを繰り返し上演している劇団だ。詳しくはHPを参照。
http://www.tokyo-novyi.com/


今回見た作品は『かもめ』。どうせ見るなら、チェーホフの四大戯曲を順番に見ていこうと思ったのだ。今、黒テントも神楽坂で『かもめ』を上演しているので、可能ならば見比べたいという目論見もあった。

初めて入るミニシアターKYOは、下北沢南口からすぐのところにある雑居ビルの3階。下がカラオケ屋だが音漏れなどはない。椅子もちゃんとしているし、狭いけれど意外なほど快適な環境だった。
気になったのは他の観客で、何やら半分以上の人が互いに顔見知りのようだった。話を聞いていると、役者とも知り合いのような雰囲気。それ自体は一向にかまわないのだが、問題は芝居に対する反応で、「どう考えても今のは内容に対する笑いではなく、内輪受けの笑いだよな?」というところが少なからずあった。本当に狭い空間で、そんな笑い一つが場の雰囲気に大きな影響を与えるため、少々気になった。


『かもめ』を舞台で見るのは、1999年のシアターコクーンでの公演(演出 岩松了)と、2002年の新国立劇場での公演(演出 マキノノゾミ)に続いて3回目。戯曲は神西清訳と堀江新二訳で、昔から何回となく読んでいる。

上演時間は休憩時間15分を含めて3時間15分。まあ標準的な上演時間だろう。

初めて見る東京ノーヴィ・レパートリーシアターのチェーホフ劇。いろいろな意味で興味深い仕上がりだった。


一番面白いと思ったのは、台詞の言い回しが現代的な言葉に直されていること。特にニーナの台詞や話し方など、まさに現代の若い女の子のそれだ。他の登場人物も同様で、所作も芝居がかったところを極力抑えたリアルなもの。シェイクスピア劇ならともかく、日常的な内容のチェーホフ劇においては、こういう方向性は当然ありだろう。と言うより、こういう日常的なリアリティを重視した上演が、もっと多くなってしかるべきべきだと思う。そんな現代的でリアルなチェーホフ劇を見せてもらえただけで、十分に満足した。


だが全面的に肯定できるかと言うと、素晴らしい美点に負けず劣らず問題点を抱えているのも事実である。

以下、問題点を述べていこう。

おそらくこの芝居(演出/演技)の基本理念は、徹底したリアリズムだと思う。現代的な台詞回しや所作に関しては、それが大きな成功を収めている。しかしそれと同じくらい失敗している部分も多いのだ。

まず日常会話そのままのような話し方だが、これはあくまでも小さな劇場でしか通用しない方法だ。少し前にこの劇団がシアターXで『ワーニャおじさん』を上演したのだが、某レビューサイトに「台詞がまったく聞こえないので途中で帰った」という一文が載っていた。始まって1分も経たないうちに、それも当然だと理解できた。あの話し方では、シアターXクラスになったら、とても台詞は聞き取れまい。せいぜいスズナリ程度が限界だ。
しかし、あのチェルフィッチュの台詞が、新国立劇場で、それなりに聞き取れたことを思うと、日常的リアリティを重視しつつ、もう少し大きな小屋で声を届かせる方法もあるのではなかろうか。あるいは大きな小屋の場合は、それに合わせてスタイルを変える程度の器用さがあってもいいのではないだろうか。

次に、舞台があまりにも暗すぎる。第1幕からしてそうだが、とりわけ第4幕は相当辛い。確かに光源がランプだけなのだから、リアリズムを重視すれば、ああいうことになるのだろう。しかしほとんど真っ暗で役者の表情さえ見えない中、舞台の片隅でぼそぼそと会話している光景は、よく言えば「演劇を超えたリアリズム」だが、悪く言えば「演劇として失格」だ。

特に場面を見て思ったのだが、この演出/演技の手法は、演劇というよりも映画に向いているのではないだろうか。映画なら、囁くような台詞回しでも何ら問題はないし、光源がランプ一つでも、カメラワークや技術的な工夫で魅力的な映像になりうる。しかし舞台でそれをやられると、いろいろ問題が生じてくる。
この劇団の演出家レオニード・アニシモフという人は、スタニスラフスキー・システムの研究者であり演出家だそうだ。スタニスラフスキー・システムについて詳しいわけではないが、そのシステムを導入して成功したのが、アメリカのアクターズ・スタジオであることくらいは、さすがに知っている(ストラスバーグのメソッドはスタニスラフスキーの理論を勝手にねじ曲げているという意見もあるようだが)。そしてアクターズ・スタジオ出身の俳優たちが、舞台もさることながら、アメリカ映画を支える屋台骨となっていることは誰もが知るとおりだ。このことからも、スタニスラフスキーの意図がどうであれ、そのシステムは結果的に演劇よりも映画に向いた演技術なのではないかと推測できる。

また役者たちの稽古不足も目立った。同じレパートリーを繰り返しやっているのに、なぜ稽古不足になるのか不思議なのだが、これほど役者が台詞を噛んだり間違えたりする芝居は珍しい。物にぶつかったり、物を落としたりといったトラブルも多かったし、何よりも、そのトラブルが起きたとき、役者が「素」に戻るのが見えたのはいただけない。誰だったか、軽く声を出して自分の失敗を笑った人までいた。たとえミスっても、まるでそれが最初から予定していた演技や演出のように見せてしまうのが役者というものだろう。基本的には皆しっかりとした演技をしているのに、トラブルに遭遇したときの対処ぶりが、なぜこれほど素人くさいのか、首を傾げるばかりだ。

そして全編において、登場人物があまりにも泣きすぎ! 確かに戯曲のト書きには(泣く)(涙声で)とあるが、それを拡大解釈しすぎている。こんなにも登場人物がメソメソ泣いているチェーホフ劇は、かつて見たことがない。特に第四幕では、ニーナが延々とむせび泣いているのに加え、トレープレフまで涙声になって、二人で鼻をすすり合っている。見ているだけでカビが生えてきそうだ。第四幕のトレープレフは、戯曲に(涙声で)とは書かれていないようだ。第四幕の彼は、泣くことさえ出来ない、もっと虚無的な敗北感に襲われているのではないだろうか。あそこで彼まで涙声にする必要はないと思う。


…と言う具合に、問題点は幾らでも挙げられる。こうやって書いていくと、むしろ駄目な芝居のように思われるかもしれないが、そのような問題点自体が、演劇というもの、あるいはチェーホフ劇というものの性格を浮き彫りにしており、先に上げた美点と合わせて、非常に興味深く、面白い芝居になっていたのだ。その点は誤解なきように。


すでに述べたように通常の演劇とはかなり違うスタイルだが、役者の演技は、トラブルへの対処を除けば、おおむね良かったと思う。自分が戯曲を読んで抱いていたイメージや、これまでに見てきたチェーホフ劇とだいぶ違うが、「これはこれで一つの解釈としてありだろう」と納得できるものがあった。

特に良かったのは、ニーナを演じた中澤佳子と、アルカージナを演じた妻鹿有花だ。

中澤佳子は、ルックスといい、話し方といい、物腰といい、もしニーナが日本人として実在したら、こんな人だろうという自分のイメージ通りで、出て来た瞬間、実に素直に「あ、ニーナだ」と思った。この人、顔の造作自体は似ていないのだが、醸し出す雰囲気が奇妙なほど広末涼子に似ている。見ている内に、もう少し商業的な公演であれば、広末をニーナに据えた『かもめ』もありうるなと思ったりした。
ただすでに書いたように、第四幕のニーナは、もう少し毅然としているべきだろう。そうでなくては、ニーナの話を聞いたトレープレフが「僕には、自分の目的も使命もわからないんだ」と打ちひしがれるドラマが生きてこない。この部分に関しては、役の解釈に大いに疑問があるが、「芝居の登場人物としてのニーナ」ではなく「現実に生きているニーナ」として見るなら、ああいう女々しさも、それはそれでありだろう。すでに述べたように、この辺りに徹底したリアリズム主義の功罪が出ている。

妻鹿有花のアルカージナは女優(役)としての華やかさやカリスマ性に欠けるが、25にもなる息子がいながら、未だ大人になりきれない困った人物としての雰囲気が、よく出ていた。女としての盛りも終わりに近づき、それに対する焦りと苛立ちが見え隠れする中年女の心情を、うまく体現している。
また女優らしい風格の欠如についても、これはこれでありかもしれないと気づかされた。と言うのもアルカージナは、言わば「自称大女優」であり、実際にはそれほどの役者ではないと推測することも可能だからだ。ニーナが彼女を「有名な女優」と形容するところはあるが、あの時点で彼女は、まだ右も左もわからない田舎娘であり、その評価は当てになるものではない。実際はそれほどのスターでも名優でもないのに、女優としての虚栄心だけは一人前…という解釈でいけば、あの雰囲気はピッタリだろう。考えてみれば、兄ソーリンと交わす「私、お金がないの」というやり取りも、その解釈が正しいことを裏付けているようだ。

上世博及も、実際のトレープレフは、こんな地味で内気なオタクっぽい青年だろうと思わせる説得力がある。ただし「現実のトレープレフ」ではなく「芝居の最大の中心人物であるトレープレフ」としては、劇を引っ張っていくだけの魅力に欠けていたのも事実。これまたリアリズム主義の功罪だ。

トリゴーリン役の金沢英俊は、ボソボソとした話し方といい、いささか地味すぎる印象で、女にもてるという設定が説得力を欠いているのが大きな問題。また、あの東北弁(だよね?)はなぜ? 元のロシア語で、彼の台詞は、あのような訛りの強い言葉になっているのだろうか?

自分のイメージと一番かけ離れていたのは、天満谷龍生の演じた医師ドールン。僕のイメージでは、もっと思慮深く、控えめで、優しいキャラなのだが、それとは180度違う、辛辣で皮肉屋なキャラクターになっていた。しかし、そのキャラで全編統一されると、これはこれでありかもと思った。


僕にとって『かもめ』は、チェーホフの四大戯曲の中でも、とりわけ謎が多く、理解しきれない部分が残る作品だ。ところがこの上演では、あまりそういう部分が気にならない。戯曲を読むと、脇役にも多くのドラマがあり、群像劇のような印象を覚えるのだが、この上演では、トレープレフが中心人物で、アルカージナとニーナがそれに続き、さらにその後にトリゴーリンとソーリンが続く…という風に、わかりやすい構造になっている。その分、メインストーリーとの絡みを解釈するのが難しい、マーシャ、メドヴージェンコ、シャムラーエフといった脇の人物は、あまり印象に残らない。たとえば、あそこまであっさりした描き方では、マーシャとメドヴージェンコの結婚生活がどんなものなのか、それが何を意味しているのかをくみ取ることは、ほとんど不可能だろう。
そのような脇のエピソードが実質的に省略された分、素直にストーリーを追いやすいのだが、『かもめ』に秘められた謎について新たな示唆を得ることは出来なかった。その辺りを中途半端に描いて空中分解するよりはマシだと思うが、いささか肩すかしを食った感は否めない。


そんな具合で、功罪両面を含めて興味深い芝居だった。残りの3作品もポチポチ見ていこうと思う。


(2007年4月)


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