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10/22/2006

【演劇】二兎社『書く女』2006.10.2

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二兎社『書く女』
2006年10月2日(月)19:00〜 世田谷パブリックシアター


前に『やわらかい服を着て』を絶賛したが、あれは一応新国立劇場の制作なので、正式な二兎社としての芝居を見るのは今回が初めてだ。題材は樋口一葉の生涯、しかもタイトルが「書く女」と来れば、作者永井愛の自己投影的な部分も濃いはずだ。いやが上にも期待は高まったが、最終的な台本が上がったのが本番の10日くらい前だったという話が耳に入っていたので、若干の不安も感じていた。さて、どんな作品になることかということで世田谷パブリックシアターに向かう。

初日だけあって、すぐに名前はわからなくても、一目で関係者・業界人とわかる人があちこちにいる。その中でも抜きんでた輝きを放っていたのが、主演の寺島しのぶの母である富司純子。和服姿。その凛とした美しさは、とても御歳60歳とは思えない。真の美女は60を超えても美女なのかと、すっかり目が釘付けになってしまった。純子姉さん、素晴らしすぎる。
ちなみに純子さんの席は真ん中ブロックのかなり後ろの方。その隣に座っている、ちょっと庵野秀明似の男は、僕の見間違いでなければ燐光群の坂手洋二だ。燐光群の役者が3人も出ているのだから不思議はないのだが、富司純子の隣に坂手洋二が座っている光景は、やはり少々シュールであった。


19時を5分ほど過ぎた頃に開演。途中15分の休憩を挟んで、終演は22時20分頃。正味3時間15分の大作だ。日本初の女性小説家と言われる樋口一葉。彼女が小説家を志し半井桃水に師事する19歳から、肺結核で亡くなる24歳までの濃密な5年間が描かれている。

一葉の生涯に関してなら、事前に『樋口一葉と十三人の男たち』という本を読んでいる。タイトルはまるで女性週刊誌のようだが、内容は非常にきちんとした面白いものだ。その本を読んでいたことが、芝居に対する見方に大きな影響を及ぼしていることを、まず前提条件として書いておく。


結論から言うと、いささか期待はずれな出来で、多くの不満を覚えた。


主な不満は二つ。一つは空間の使い方。もう一つは冗長で焦点が絞り切れていない内容だ。


まず空間の使い方。一言で言えば、この芝居に世田谷パブリックシアターという会場は広すぎる。空間の上半分がほとんどスカスカで、見ていて非常に落ち着かない。役者が立って芝居をしているときはまだいい。座敷のセットで座って芝居をすると、生きているのは、あの広い空間のごく一部。あとの空間(全体の約80%)は完全に死んでいる。これは相当辛いものがあった。
これは単に舞台が広いと言うより、空間の構造上の問題だ。プロセニアム形式の世田谷パブリックシアターは、客席が弧を描くように舞台を囲み、3階席まである縦長の空間だ。つまり典型的な西洋演劇用の小屋であり、人々が畳に座るような和物には向いていない。歌舞伎や文楽を見ればわかるとおり、日本演劇の空間は基本的に横長なのだ。それを何の工夫もなく西洋式の縦長空間で上演すれば、視覚的におかしなことになるのは当たり前だ。
もちろん演出次第で縦長の空間をうまく利用する方法もあるはずだが、この作品に、そのような工夫は見られない。障子をモチーフにした巨大なセットも後方に作られた階段も、無理矢理空間を埋めているだけで、ドラマ的な機能を果たしているとは言い難い。叫び声を上げながら男優たちが階段を駆け上るシーンがあるのだが、足下を気にしているため声の出し方が明らかにたどたどしくなっていた。本来なら平面上でやっても何の問題もない芝居であり、それを無理に階段でやったことで、あんな風になるなら百害あって一利なしだろう。

皮肉にも、この芝居を見た数日後に、まったく逆の現象を目にすることになった。映画『オペラ座の怪人』を初めて見たのだ。舞台となるオペラ座は、世田谷パブリックシアターよりもずっと巨大だが、基本的な構造はほとんど同じ縦長の空間だ。ところが映画の画面は横長のシネスコサイズ。それを妙にアップ気味のフレーミングで撮っているため、上方向への寸詰まり感が漂う気持ちの悪いショットが続出している。その映画としての信じがたいほどの鈍感さは、内容以前の問題であり、あれを駄作と呼ぶことに一片の躊躇もない。
それが決して解決不可能な問題ではないことを証明してくれたのが、続けて見た『アマデウス ディレクターズカット版』だった。こちらにもオペラの上演シーンが何度となく出てくるが、的確なフレーミングと移動撮影の多用によって、縦長の舞台が、シネスコサイズの横長画面に生き生きと描き出されていた。要は演出家の才能の問題なのである。

この『書く女』は元々世田谷パブリックシアターの方から永井愛に提示された企画なので、「新国立劇場でやっていれば…」と言うのは非現実的だが、せめて大きな劇場ではなく、小さなシアタートラムのほうでやるべきだった。その方が作品のクオリティは確実に上がったに違いない。
それができなかった最大の原因は、二兎社自体の集客力に加え、寺島しのぶ、筒井道隆というスター俳優を起用したためためだろう。後述するように寺島しのぶは素晴らしい演技を見せているが、そのせいで明らかに内容とそぐわない劇場で上演されることになったとすれば、プラスマイナスでどちらが大きかったことか…
二兎社の過去の作品を調べてみると、最近はシアタートラムとベニサンピットでの上演が多い。『新・明暗』と『萩家の三姉妹』は最初シアタートラムで上演され、それぞれ2年後に世田谷パブリックシアターで再演されている。初演から世田谷パブリックシアター(約600席)のように大きな小屋で上演された作品は、近年一つもない。本多劇場(386席)がせいぜいだ。
つまりこの劇場で初演の芝居を打つことは、永井愛の演出家としてのキャパシティを超えていたのだろう。再演なら、台本は基本的に同じだし、演技陣も慣れているので、ヴィジュアル面など、全体的な演出に力を注ぐことが出来る。しかし初演で、台本の最終完成が本番の10日前では、役者の演技指導だけで精一杯、空間の造形にまで気を配る余裕は無かったに違いない。その結果、視覚的には明らかに未完成な作品が生まれてしまったというわけだ。

ところでネット上で本作の評判を見ていくと、賛否両論で、否定的な評もけっこう目にするのだが、あのスカスカな空間の使い方について苦言を呈している文章には一つもお目にかからなかった。僕の場合、熱狂的な映画ファンから、最近になって演劇を見るようになった口なので、視覚的な問題には人一倍敏感なのかもしれないが、普通の演劇ファンは、こういうものを見て何も違和感を覚えないのだろうか? それは、ちょっとしたカルチャーギャップを感じる出来事だった。そう言えば映画『オペラ座の怪人』も、「映画ファンには不評、演劇/ミュージカルファンには好評」という大まかな傾向が見られた。やはり映画ファンは、特に意識せずともフレーミングにはうるさいということか。


しかしそれ以上の問題は、内容である。決してハズレがないと言われる永井愛にしては、この台本はずいぶん問題があるのではなかろうか。

まず、いらないシーンが多すぎる。例えば後半で活躍する斎藤緑雨や馬塲弧蝶、川上眉山といった文士たちが前半でチラリと登場するシーンなど、まったく不要だ。皆あのシーン無しで後半に初めて登場したとしても、ストーリー展開には何の支障もない。むしろ後半でもっと印象的な登場の仕方をした方がキャラが立つのではないか。伏線のような形にしたかったのかもしれないが、特に斎藤緑雨など、最初の登場シーンから次の登場シーンまであまりにも時間が開きすぎていて、大抵の人は登場したことすら忘れているはずだ。台詞だけで登場する占い師 久佐賀義孝のエピソードもまったく無用だ。その他にもいらないシーンやエピソードが幾つも見受けられた。
何しろ正味3時間だ。あれだけ膨大な情報が詰め込まれ、様々なエピソードを数珠繋ぎにされると、一体何をメインテーマにしているのか焦点がぼけてしまう。特に前半、時代背景を語る説明調の台詞が多すぎるのもマイナスポイントだ。

そして中身だが、驚いたことに、これが先述の『樋口一葉と十三人の男たち』と限りなく同じなのだ。あの新書本が原作なのか?と呆気にとられたほどだ。もちろんどちらも、一般に伝えられる史実と『樋口一葉日記』を元にしているのだから似てくるのは当前だが、それにしても似すぎている。たとえば半井桃水が言う「私は文学的には樋口一葉に何の影響も与えず、ただ片思いの相手としてのみ、後世の人に記憶されるのでしょう」というような台詞は、ほとんど同じフレーズがあの本にも書かれていたはずだ。雪の日に、眠っている桃水が起きるのを玄関で待つ一葉や、先述の占い師の話など、他にもあの本で読んだエピソードのオンパレード。こうなると「永井愛ならではの視点はどこにあるのだろう?」という話になってくる。もちろん永井愛ならではの視点はある。ただし大部分のエピソードが『樋口一葉と十三人の男たち』と重なるため、新鮮みに欠けることは否めない。

『樋口一葉と十三人の男たち』を読んだときから思っていたのだが、一葉を取り巻く人々の中で最も魅力的で興味深い人物は、間違いなく斎藤緑雨だ。一葉と緑雨が「すね者同士」として魂の共振を覚える部分は、一葉の生涯を描いた作品において、最大のクライマックスであるべきだろう。
それがクライマックスになっていないのか? いや、なっていることはなっている。ところが全体の尺が長すぎるため、終盤になってやっと登場する緑雨の存在が、いささか小さく見えてしまうのだ。それ以前のシーンがあと30分、20分、せめて15分でもいいから刈り込まれていたら、一葉と緑雨の出会いは、誰が見ても一目瞭然のクライマックスとして機能していたはずだ。せめて緑雨と桃水が一緒に訪れたとき、片思いの相手である桃水を引き取らせ、緑雨との対話を選ぶシーンは、もっとメリハリのある演出をして欲しかった。


…という具合に、初見ではかなりの不満を覚えたのが偽らざる現実だ。


ついでにもう一つ言っておくと、この日は客の質が悪かった。初日に駆けつけるとなれば、業界関係者か二兎社の熱狂的なファンだろうに、妙に笑いの質が低い。役者がちょっと大げさな演技をするとすぐ笑う。もちろんそういうところで笑うのは全然構わないのだが、一方で「あの人のことを何度も何度も聞いてきたんだぞ」「お前の説明がヘタだから、何度も聞き返したんじゃないのか?」とか、「先勝祝いの寿司なんか食えるか」「まあまあ、せめて魚の命くらい無駄にするな」といった粋な台詞で笑わないのは、どうなのよ?
そう言えば休憩時間にロビーにいたら、後ろにいた女の子たちが「実はこの作者の永井愛って人が、知る人ぞ知る人気作家でね…」とか話しているのを聞いて、思わず振り向いてしまった。実は永井愛のことなど何も知らず、筒井道隆のファンや、朝ドラに出ている寺島しのぶが好きだからという理由で見に来た人々も多かったということか。


最後に役者について。

主演の寺島しのぶは、長時間ほぼ出ずっぱりで、あの膨大な台詞をこなしただけで、十分賞賛に値する。うぶで垢抜けない少女が、恋すること、書くこと、生活することを経て、誰よりも大きく成長していく様を見事に表現していたと思う。
ただこれは言っても仕方のないことだが、彼女は実年齢以上に見た目が老けすぎている。そのため筒井道隆をはじめとする男優陣とからむと、どうしても彼女が一番年上に見えてしまう。さらに言うなら、妹役の小山萌子が非常に背が高いモデル体型で、他にも石村実伽や粟田麗など顔の小さい女優が揃っているため、彼女の顔が突出して大きく、全体に不格好に見えてしまう。もう一つ付け加えるなら、映画『男たちの大和』でもわかるとおり、彼女にはなぜか日本髪が致命的なまでに似合わない。
あくまでも容貌ではなく演技力を買っての起用だろうし、事実演技力については何の文句もないのだが、この作品で描かれた一葉が19歳から24歳までであることを思うと、やはり辛いものはあった。

筒井道隆は、先述の本を読んでイメージしたとおりの、のっぺりとした二枚目を演じて笑えるものがあった。しかしあれでは少々一面的すぎて、一葉が彼に恋い焦がれる姿に説得力がなくなってしまう。表面的には優しい二枚目でも、もう少し太い芯を持った人間像を演じて欲しかった。

この作品を全部で3回見る理由は、永井愛の新作であることに加え、ご贔屓女優の石村実伽が出ているからだ。MODE卒業後初の、いわば女優 石村実伽の第二幕を告げる舞台だ。応援しないわけにはいくまい。
彼女が演じるのは、一葉の先輩でありライバルでもあった田辺花圃。前半3シーン、後半2シーンと、決して出番は多くないのだが、脇役の中では突出して良い演技を見せていた。『逃げ去る恋』のナターシャ役を彷彿とさせるコメディ演技。前にも絶賛したとおり、やはり彼女にはコメディエンヌとしての優れた資質がある。こういう役をやらせると本当に絶品だ。舞台上でよく通る声にも、毎度の事ながら惚れ惚れとしてしまう。
彼女はこの日二度のアクシデントに見舞われた。一つは扇子をバサッと広げるシーンで、そのまま手が滑って扇子を放り投げてしまったこと。もう一つは鰹節を削るシーンで、何かが壊れてすっ飛んだこと(何なのかよくわからなかった)。普通なら恥ずかしい失敗なのだが、思わず舌を巻いたのは、そのフォローの仕方だ。特に扇子を投げてしまった後が凄かった。一呼吸置いて「あっ」と言い、扇子をさらりと広う。その絶妙としか言いようのない間合い、そして「あっ」という言葉が、素の石村実伽ではなく田辺花圃の「あっ」であったため、「今のはもしや演出?」と思ってしまった。それほど自然で絶妙なフォローだったのだ。あれは頭で考えて出来るものではない。もちろん失敗には違いないのだが、本能的にあんな反応が出来てしまうところに、役者としての才能が現れていると思う。何よりも、予定外のアクシデントが起きたときでさえ、石村実伽ではなく田辺花圃のキャラクターが貫かれているところが見事だ。以前、けっこうなキャリアを持った女優が失敗をしたとき、素に戻って恥ずかしそうな顔をしてしまったのを見ているだけに、その集中力には感動すら覚えた。

ただこれは彼女の問題ではなく台本上の問題だが、田辺花圃というキャラクターはもっと詳しく描き込んで欲しかったと思う。萩の舎の先輩としてとして一足先に女流小説家としてデビューしていた花圃は、いろいろと皮肉を言いながらも、文芸誌を紹介するなど一葉の文壇デビューに大きな貢献を果たす。だが文学的な評価は、瞬く間に一葉に追い抜かれ、一葉の死後は必ずしも彼女のことを良く言わなかったとされている。いわばモーツァルトとサリエリを思わせる愛憎関係。それだけでも興味深い上に、この芝居の花圃は、5回のうち2回は妊婦姿で登場し、「実生活での恋愛には恵まれなかったが、小説を書くことで戸主として一家を支え、後世に名を残した一葉」と「小説家としては大成しなかったが、結婚/出産という女としての幸福を捨てず、天寿を全うした花圃」という対比がわかりやすく示されている。だからこそ、女性にとっては永遠の問題とも言える二人の生き方の違いを、もっと深く描き込んで欲しかった。

再三述べているように、この作品には不要なシーンが多い。そういうものを刈り込んで、一葉と緑雨、一葉と花圃といった、真に重要な人間関係にもっとウェイトを置いて描いてくれていたら…その点がどうにも残念だ。

そのほかの役者も、女優陣は全員いい。問題は筒井道隆も含めた男優陣で、女優陣に比べると総じて魅力に欠ける。その中では、川上眉山を演じた細貝弘二が自然な演技で、最も良い味を出していた。斎藤緑雨役の向井孝成もがんばってはいたが、極めて重要な役だけに、もう一皮むけてほしいところだ。


すでに10月15日の楽日も見ているので、ここに一緒にまとめようかと思ったが、かなり長くなったので別発言に分けることにする。引き続き10月15日の楽日と、10月28日の神奈川公演についても書く予定。すっかりこちらも「書く男」になっている。


(2006年10月)

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