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10/29/2006

【演劇】二兎社『書く女』2006.10.28

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二兎社『書く女』
2006年10月28日(土) 14:00〜 杜のホールはしもと


『書く女』3回目の観賞。地方公演の一環だが、神奈川県の橋本なら都内も同然だ。杜のホールはしもとに行ったのは初めてだが、とても綺麗だし、良い意味でコンパクトにまとまっていて、非常に好印象。これまでの上演作品のポスターが貼ってあったが、『歌わせたい男たち』『新・明暗』『萩家の三姉妹』など、ここ数年の二兎社作品は全てこのホールでも上演されていることを知って驚いた。ちなみに『書く女』のチケット代は、世田谷パブリックシアターは5000円だが、こちらでは4500円。会場の規模(小さい方が良い)から言っても、こちらで見た方がベターなのではなかろうか。
客層は、びっくりするほど女性が多い。世田谷パブリックシアターももちろん多かったが、その比ではない。9割以上は女性だ。それも大方は中高年の女性。芝居を見るため都心まで頻繁に足を運ぶわけではないが、このような近場で良い芝居をやってくれれば毎回見に来ます、といった人々のようだ。

席は9列目のほぼど真ん中。距離的には少し遠くて細かい表情は判別できないが、真ん中なのでステージ全体の見え方はいい感じ。舞台が全体的に世田谷よりも小さいため、同じセットでも上部がスカスカした感じはあまりしない。とは言え、見ている時に頭の中でフレーミングしてみると、やはりセットの上半分は完全に死んでいる。歌舞伎など和物の舞台が横長のシネスコサイズになっているのは、決して偶然ではないのだということを、あらためて思い知らさられた。


3回目の『書く女』、間違いなくこれまででベストの出来だった。

感情表現、体の動き、台詞回し…全てにおいて役者の演技が格段にスムーズになっている。同じシーンで同じ事をやっていても、以前には無かった心地よいテンポが感じられて、まるで別物。カットされたシーンはないにもかかわらず、第一部、第二部ともに初日より5分近く短くなっているのも、芝居のテンポが良くなっていることを証明している。
それが特に目立ったところを一つあげれば、桃水(筒井道隆)が一葉(寺島しのぶ)に人形を見せるシーンだ。台詞のやり取りがグッとスムーズになり、妹が来たので慌てて人形を隠すまでの一連の流れが、以前よりも軽快な笑いを誘うようになっている。
そのように、笑いのポイントが少しずつ強調されているのも、今回の特徴だ。前回石村実伽の演技が少しオーバーになっていると書いたが、今回は他の役者まで彼女に合わせてきたかのようで、それぞれ笑わせどころの演技が微妙にオーバーになっている。だが全体的な統一が取れているので違和感はなく、むしろ作品に明確なリズムを付ける役割を果たしている。公演を重ねるにつれて、観客の反応の良い部分が少しずつ強調されてきた結果だろう。

逆にこれを見てしまうと、初日がどれほどドタバタして焦点の定まっていないものだったかが、よくわかる。はっきり言えば、あれは公開通し稽古だ。芝居によっては、最初の数日間を「プレビュー公演」としてチケット代を少し安くすることがある。この作品も、本来ならそうすべきだったのだろう。

また、今回は観客の反応が非常に素直で節度あるものだったことも特筆に値する。笑うべきところで笑う、しかも笑いすぎない。そういう観客と役者の関係が、実に心地よい空気を醸し出していた。前にも書いたように、初日は観客の質からして良くなかった。妙に笑いのレヴェルが低いし、居眠りしている奴はいるし、「上演中に倒れると音が出るので傘は横に寝かせてください」と言われているのに、傘を倒してしっかり音を出している輩はいるし… やはり芝居というものは、舞台上の役者だけで成立するものではなく、観客と役者の間にある無言のコミュニケーション、両者が作り出す空気が極めて重要であることを、あらためて実感した。
芝居が終わるや否や「良かったわね〜」という感嘆の声が聞こえたのも、この日が初めてだ。拍手が鳴りやまず、二回目のカーテンコールも行われた。今回がベスト公演となった理由の一つは、役者と観客の間に良質なコミュニケーションが成立したおかげだろう(袋をガサゴソさせてお菓子を食べていたおじさんが一人と、ラスト直前で携帯のヴァイブを鳴らしていた人が一人いたのは残念だが)。


役者について言うと、寺島しのぶはもはや言うこと無しの完璧な演技。石村実伽はますますコミカルな姉御肌になってきた。これまであまり目立たなかった粟田麗が、石村との対比もあってか、以前より可憐さを増したように感じられた。
男優では、筒井道隆がかなり良くなってきたようだ。あのヌボ〜ッとした雰囲気は変わらないが、そのヌボ〜ッの中にしっかりとした芯が見えてきた。
しかし約4週間の間に最も大きく成長したのは、斎藤緑雨役の向井孝成だろう。前回「まだ寺島しのぶと互角に対抗できるところまでは行かない」と書いたが、今回は互角どころか寺島を食っているのでは?とさえ思わせる場面さえあった。寺島が意図的に受けに回っているせいもあると思うが、ともあれ見事だ。


そのように役者たちの好演と良い観客に支えられて、劇そのものも、楽しいコメディでありつつ骨太で厳しいテーマを持った作品に成長してきた。

前回「弱者の闘い方」というテーマについて述べたが、それを少し違った角度から捉えると、樋口一葉という人物が「どこにも属さない人間」だったことを示している。

具体的に言えば、彼女は男尊女卑の明治に生まれながら、家庭の事情から戸主となり、家族を養うことを義務づけられる。男尊女卑の社会とは言え、ごく普通の女として嫁に行ける身の上なら、結婚相手さえ間違えなければ、そこそこ幸福な人生は約束されていたはずだ。だが彼女には戸主としての義務があり嫁には行けない。恋した相手である半井桃水とは、戸主同士なので、仮に思いが通じたとしても結ばれない関係にある。
だがその一方、彼女はどこまで行っても女であり、社会的な立身出世は望めない立場にある。開巻早々「女に職業はございません」という台詞が出てくるのも、それを表している。女性の職業と言えばせいぜい女学校の教師だが、学歴のない彼女には、そのような仕事に就く望みもない。田辺花圃のように歌塾を開く金もない。つまり彼女は、女として、社会人として、経済人として、幾重にも社会から疎外された存在なのだ。

その一方で、周りの女たちは何かしら大きなものに属している。母親のたき(八木昌子)と友人の野々宮菊子(江口敦子)は国家に身を委ね、日本が戦に勝てば幸福が訪れるものと信じている。また、たきは「士族」という古いエスタブリッシュメントに誇りを持っているし、菊子は教師としての仕事に加え、一般的な嫁入り願望もある。友人の伊藤夏子(粟田麗)はキリスト教を深く信仰し、その道徳律を信じて疑わないため、娼婦たちとも交流を持つ一葉との距離は広がっていく。妹のくに(小山萌子)や半井幸子(小澤英恵)は、あまり幸福な状況にあるとは言えないが、当時の「女の道徳」にほぼ準じて生きている。そして田辺花圃(石村実伽)は、当時のエスタブリッシュメントに属し、良妻賢母や歌塾の経営者というポジションまで獲得している。

だが一葉は何ものにも属さない、いや、属せない。女でありながら嫁に行ける立場にはなく、文章を書けば「女の道徳を乱す」と批判される。戸主でありながら、女であり教養もないため、ろくに金も稼げない。いわば女でありながら女ではなく、かと言って男にもなれない中途半端な存在。国家主義にも、キリスト教にも、男たちが熱中する社会運動にも属せない。吉原に住んでも、彼女自身が身を売ってるわけではないので、娼婦たちの世界にそれほど深く入り込んでいたとは思えない。様々な世界、様々な価値観に囲まれながら、そのどれにも属することが出来ない彼女は、マージナル・マンそのものだ。

川上眉山(細貝弘二)は「あなたは大きな宇宙を抱えている」と一葉を賞賛するが、それは何ものにも属せない人間が抱え込むしかなかった、とても孤独な宇宙ではなかったののか? 時代の流れからことごとく疎外され、それでも時代の中で生きていかなくてはならなかったが故に、彼女は自分一人の宇宙を作らざるをえなかったのだ。

彼女の周りを取り巻く文士たちは、その宇宙の巨大さは理解できても、その孤独さには思いが至らない。好意を寄せてくれる彼らに、一葉が好意で応えることが出来なかったのは、そのためだろう。

だがそんな彼女の孤独な宇宙に、ただ一人だけ踏み入った男がいる。
それが斎藤緑雨だった。
緑雨は一葉の作品を深く読み込んだ上で、彼女の真意を暴き立てていく。「一見熱涙を持って書かれたかのように見える文章の影には、冷ややかな笑いがある」「あなたは女たちにこう囁きかけている。あからさまには闘うな、しかし男たちのやっていることは全てやれ」…それは決して緑雨の曲解や深読みではなかった。だからこそ彼女は「あなたを千年の馴染みのように感じます」と言い、クライマックスに至っては、片思いの相手であったはずの桃水を退け、緑雨との対話を選ぶのだ。
緑雨が暴く一葉の真意は衝撃的であり、二人のやり取りは鬼気迫るものさえある。だが周りの文士たちはもとより、家族や友人たちさえ立ち入ることの出来なかった一葉の孤独な宇宙を理解した人物は、緑雨ただ一人だけだった。一葉の秘めたる闘いを誰よりも理解し、その行く末を見届けたいと言う緑雨…それはこの作品中、最も切実な愛の吐露でもある。


そしてもう一人、彼女の宇宙に立ち入ろうとはしなかったが、その宇宙の孤独さを理解していた人物がいる。田辺花圃だ。台詞にもあるとおり、一葉の死後、花圃は一葉についてあまり良いことを言わなかったが、同時にこうも述べている。
「本当に自分一人の力でものを書いた女は、樋口一葉だけだった」
それは同じ「書く女」としての立場から発せられた、一葉に対する最高の賛辞だろう。
まったく別の人生航路を辿りながらも、「書く女」としての一葉を誰よりもよく理解していた花圃。最後まで皮肉な口調でありながら、一葉に対する共感と敬意をにじませた花圃の言葉に、涙が出そうになった。


毎回同じ事を書いているようで恐縮だが、やはり見れば見るほど、この作品で最も重要な人間関係は「一葉と緑雨」「一葉と花圃」の二つだと思う。全体が長すぎるため、その二点に物語が収斂しきれていない恨みは残る。だが全体的なヴァランスはともかく、描かれるべきことはきちんと描かれているのだということが、見返すほどにわかってきた。


それにしても芝居は本当に生き物だと思う。10月2日の初日を見たときには、正直感動よりも失望の方が大きかった作品が、4週間後には「文句なしとは言えないまでも、十分に傑作と言える出来」にまで成長してしまったのだ。

地方公演の楽日は11月23日(樋口一葉の命日!)の山口公演。あと4週間たてば、この芝居はさらに成長することだろう。その成長した姿を見届けられないのが残念だ。


最近の二兎社作品の通例通り、2年後の再演を希望する。


(2006年10月)

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