« 【演劇】二兎社『書く女』2006.10.2 | Main | 【演劇】二兎社『書く女』2006.10.28 »

10/27/2006

【演劇】二兎社『書く女』2006.10.15

246693394_155


二兎社『書く女』
2006年10月15日(日)14:00〜 世田谷パブリックシアター


15日の話をする前に、簡単に9日のポストトークの話を。この日はマチネ終了後に永井愛/寺島しのぶ/筒井道隆+司会者によるポストトークがあった。新宿で用事を済ませた後向かうとちょうどいいタイミングだったので、見に行くことにした(半券があればその日の観劇者でなくても見られる)。新国立劇場のシアタートークのようなものを思い浮かべていたからだ。新国立のシアタートークは約1時間で、司会(NHKのアナウンサー堀尾正明)がうまいせいもあって、毎回とても楽しめる。それと同じようなものを期待していったのだが、少々肩すかし。時間は30分と短いし、中身もあまり濃いとは言えないもの。わざわざ新宿から三軒茶屋まで足を伸ばすほどではなかったかも。
とは言うものの、幾つか興味深い話もあった。「この作品は『萩家の三姉妹』や『新・明暗』と同様、世田谷パブリックシアターから提案があって書くことになった」「半井桃水は作家としては大した存在ではなかったが、ジャーナリストとしてはヒューマンな視点をもった優れた人物だった」「チラシに使われている写真は、永井愛の書斎で撮されたもので、寺島しのぶが来ているTシャツも永井のものである」そんなところか。何でも「はい」などの返事で済ませてしまう筒井道隆に対し、司会者が「せめて3つくらい(3行くらいという意味だろう)答えてくださいよ」と言ったのも可笑しかった。


と言うわけで10月15日、東京公演の最終日だ。16回目のステージ、初日と比べてどれだけ芝居として成長していることだろう。


結論から言うと、初日よりも遙かに良くなっていた。

前回感じた不満の多くが消え、良い部分が増えていたのだ。


何故か?

理由は主に二つある。

一つは、役者たちの演技が初日よりも格段にこなれていたこと。これについては後で述べる。


もう一つの理由を先に述べよう。

それは「席が違った」からだ。

初日の席はJ列の少し下手だった。この距離だと僕の視力(1.0/0.9)では、役者の微細な表情までは見ることが出来ない。喜んでいるか悲しんでいるかはわかっても、どんな風に喜んでいるか、どんな風に悲しんでいるかまでは読み取れないといったレヴェルだ。
そしてこの距離からだと、舞台の全景はもちろん、舞台以外の部分までしっかりと視野に入ってくる。それだけ広い視野で見ていると、前回述べたように空間の大部分が死んでいることがはっきりわかってしまう。畳に座られると、広い舞台のほとんどがスカスカになってしまう。

ところが今回の席はG席のかなり上手だ。GとJでは3列しか違わないように思われるかもしれないが、かなり端の方になるとまったく状況が違う。HPに載っている座席表でも見てもらえばわかるが、世田谷パブリックシアターの座席は、舞台に対して弧を描くような形になっている。そのため端に行くほど舞台までの距離が小さくなるのだ。そのため今回の席から舞台までの距離は、前回のほぼ半分になっている。
この差は非常に大きい。まず役者の表情を細かい部分まで読み取ることが出来る。それによって台詞や動きだけでは伝わらない細やかな感情表現が加わることになる。これによって一葉と緑雨のクライマックスなど、前回とは比べものにならないほどの迫力を持って迫ってきた。
それにも増して大きいのは、前回この作品の大きな欠点としてあげた空間の使い方。これがほとんど気にならなくなってしまったのだ。それはそうだろう。この位置からだと視界に入るのは、ほぼ舞台の主要部分ばかりで、特に気になる上のスカスカな空間がまるで見えないのだ。畳のシーンになってもまったく問題は感じない。

席が近くなっただけで、ここまで作品そのものが変わってしまうものなのか…

だが結論は前回と同じ事になる。

いや、前回の結論をより強く裏付けることになったと言っていい。

「やはりこの芝居は、世田谷パブリック・シアターではなく、シアタートラムで上演すべきだった」

これに尽きる。


次に役者たちの演技について。

寺島しのぶは初日から見事な演技だったが、16回目のステージになると、芝居にさらに豊かさが増し、堂々たる大女優の風格すら漂わせている。前回「顔が突出して大きく、全体に不格好に見えてしまう」と書いたが、これも席のマジックで、あの距離からだと全体のプロポーションの悪さがそれほど気にならない。むしろ顔が大きいことで、表情の変化がはっきりと読み取れる。特に緑雨とのやり取りで見せた表情には、思わず鳥肌が立ったほどだった。日本髪の似合わなさは…もう慣れました(笑)。

だがこの日の最大の収穫は、初日に「総じて魅力に欠ける」と書いた男優陣の成長だ。

筒井康隆も、間違いなく初日よりキャラクターの彫りが深くなっていた。先述のポストトークで永井愛が、彼の芝居を評して「お汁粉のシーンで、最初はガリガリ鍋の底をこすっていたのに、家で練習したら、だんだん上手くなってきたんですよ」と言っていたが、そのような細かい部分から半井桃水の人間像を煮詰めていったのだろう。
ただし2回見ても、永井がポストトークで語っていた「反骨の士 桃水」という側面は感じられなかった。確かに彼が朝鮮半島の人々にひとかたならぬ思いを抱き、日本の行く末を憂いていたことを示す台詞はあるが、それが座敷に座りながらの会話で、しかもあの筒井のぬぼ〜っとした話し方なので、どうも説得力に欠ける。この辺がもう少し強調されていたら、作品全体の印象もだいぶ変わったと思うのだが。

それ以上に良くなっていたのは、他の文士たちを演じる若手だ。特に平田禿木を演じた中上雅巳と馬塲孤蝶を演じた杉山英之は、青臭さい演技に鼻白む部分さえあったのが、良い意味で落ち着きが出て、役をぐっと自分のものにしたようだ。階段を駆け上る時も足下を気にしないようになっていた(笑)。
川上眉山役の細貝弘二は最初からいい味を出していたが、その分大きな成長が見られないため、ちょっと影が薄くなったかも。
そして斎藤緑雨役の向井孝成も明らかに良くなっていた。まだ寺島しのぶと互角に対抗できるところまでは行かないにせよ、「ついに一葉の正体を暴いた」と言って『われから』の解釈を述べるシーンなど、初日よりも鬼気迫る迫力があった。今後さらに伸びそうな雰囲気がある。彼は要チェックの役者かもしれない。

女優陣は最初から皆達者だったが、さらに演技が滑らかになったようだ。
ほんの少し気になったのは石村実伽で、大きなお腹をポンポン叩く動作などが前よりオーバーになった気がする。ちょっと受け狙いに走ってる? しかし何度も書くようだが、彼女が舞台上で出す声の魅力には抗しがたいものがある。冷静に分析すると、いわゆる美声というわけではないのだが、何故その声があれほど魅力的に聞こえるのか不思議でならない。


そのような好条件が揃ったことで、作品のテーマも前よりよく見えてきた。楽譜(台本)自体は変わらなくても、演奏者(役者)の解釈が深まり、楽器から出す音色が艶やかになったことで、曲の輪郭が明確になってきたというところか。幾つかのテーマが複合的に奏でられる作品なので、物語として直線的な論理で見るよりも、音楽的なハーモニーを聞き取るべきであることもわかってきた。また、そういう構造がチェーホフの『三人姉妹』に少し似ているようにも感じられた。見ていないが『萩家の三姉妹』も『三人姉妹』を原案にしているそうだから、チェーホフは永井愛にとって大きなバックグラウンドなのかもしれない。


とりあえず内容について一つだけ。

この作品の主要テーマの一つは「弱者の闘い方」だろう。

オープニングの一葉を見ればわかる通り、彼女は様々な負い目やコンプレックスを抱えている。小学校を途中退学しただけで教養がない。元士族だが家は貧しく、男たちの死去によって戸主として家を支えなくてはならない。そのような差は、先輩である田辺花圃との対比でも明らかだ(寺島の着る地味な着物と石村の艶やかな着物との視覚的対比は優れている)。
そして一葉は、規制の権威や社会的な強者に対して真っ向から勝負を挑もうとはしない。実にしたたかに、搦め手から侵攻し、いつの間にか自分の陣地を作ってしまう。
確かに一葉には天性の文学的才能があっただろうし、図書館で古今東西の小説を読むなど普通の努力もしている。しかし彼女が小説家として大成した大きな理由は、それまで女性によって語られることのなかった貧しい庶民の姿を描いたからに他ならない。当初、田辺花圃の後を追うような作品を書いていた一葉は、やがて花圃には描けない世界、すなわち貧しい庶民の世界を描くことで、花圃を追い抜いてしまう。教養がないこと、元士族が零落して吉原で商売を始めること、男尊女卑の明治時代に女として生きること、そして自分が戸主であることや相手の気持ちから恋する桃水とは結ばれないこと…そういった負い目をすべて逆手に取ることで、彼女は作家として大成するのである。

その事実はさほど強調されるわけではない。ボッと見ていると気がつかないくらいだ。そんな調子で3時間近い時間が過ぎた頃、斎藤緑雨が「一葉の正体」を暴くのである。それまでは可愛らしく守るべき存在のように見えた一葉が、実は恐ろしいほどしたたかな女であったことが暴かれるあのシーンは、ミステリーのどんでん返しにも通じる衝撃であり、この作品の最高のクライマックスとなっている。そのシーンがあるからこそ、最後に「桃水への恋心は全て小説の中に消えていった」と告白する台詞が、単なるロマンチシズムではない恐ろしさと哀しさを持ちうるのだ。

だが前回も書いたとおり、そのような構造が明確に見えれば見えるほど、「一葉と緑雨」「一葉と花圃」という二つの人間関係は、もっと克明に描いて欲しかった気がしてならない。

とりわけ「一葉と花圃」の関係は、上に書いたように、文学的には一葉の作戦勝ちに終わる。しかし好きな男への恋心を作品の中に昇華するしかなかった一葉が、小説家としての大成よりも女としての道を全うした花圃よりも幸福だったと、はたして言えるのだろうか?
この作品に登場する「書く女」は一葉だけではない。台詞にもあるとおり、花圃ももう一人の「書く女」なのだ。花圃の存在をもう少し大きく描き、二人の「書く女」が辿った人生の対比をより明確にしていたら、この作品が奏でるハーモニーは、さらに美しく、さらに奥深いものになっていたように思う。


残すはあと1回、10月28日(土)の橋本公演だ。東京公演以上の素晴らしい芝居に成長していることを期待したい。


(2006年10月)

|

« 【演劇】二兎社『書く女』2006.10.2 | Main | 【演劇】二兎社『書く女』2006.10.28 »

Comments

Post a comment



(Not displayed with comment.)


Comments are moderated, and will not appear on this weblog until the author has approved them.



TrackBack

TrackBack URL for this entry:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/85126/12444748

Listed below are links to weblogs that reference 【演劇】二兎社『書く女』2006.10.15:

« 【演劇】二兎社『書く女』2006.10.2 | Main | 【演劇】二兎社『書く女』2006.10.28 »