【演劇】ク・ナウカ『トリスタンとイゾルデ』2006.7.28
ク・ナウカ『トリスタンとイゾルデ』
2006年7月28日(金) 20:00〜
東京国立博物館 庭園 特設舞台
2001年に青山円形劇場で上演された作品の再演。初演時は今ひとつの評判だったはずなので、その再演が今年のメイン作品に決まった時には首を傾げたものだ。
ところが上演が始まると、聞こえてくるのはほぼ絶賛ばかり。期待して見に行ったところ、その期待を上回る出来で、僕がこれまでに見たク・ナウカ作品中、おそらくトップにランクされる見事な作品となっていた。
原作は言うまでもなくワーグナーのオペラ(その基になった伝説もあり)。内容は原作に極めて忠実で、CDの訳詞を読み直すと、構成はおろか台詞までほとんど同じであることに驚かされる。ただしワーグナーの音楽は一切使われない。代わりに原田敬子がこの芝居のために書き下ろした現代音楽と、ク・ナウカのメンバーによるパーカッション演奏が用いられている。台本・演出は宮城聰。
トリスタン ムーバー=大高浩一/スピーカー=阿部一徳
イゾルデ ムーバー=美加理 /スピーカー=本多麻紀
ブランゲーネ ムーバー=中村優子/スピーカー=鈴木陽代
マルケ ムーバー=塩谷典義/スピーカー=吉植荘一郎
コーンウォル(イングランド)とアイルランドの戦いが終結し、アイルランドの王女イゾルデはコーンウォルのマルケ王に嫁ぐことになる。イゾルデを迎えに来たトリスタンは、彼女の許嫁であるモロルトを戦場で殺し、しかもイゾルデに傷を手当てしてもらった過去があった。
トリスタンに裏切られたと感じたイゾルデは、トリスタンを徹底的になじり、償いの杯を飲むよう求める。毒杯だと知りながら杯をあおるトリスタン。イゾルデはその半分を奪って飲み、自らも死の床に就こうとする。
だが二人は死ななかった。侍女のブランゲーネが毒薬を媚薬にすり替えていたからだ。禁断の恋に落ちるトリスタンとイゾルデ。身も心も結ばれた二人は、その愛を全うするため、死の国への旅立ちを決意する…
二人がコーンウォルへ向かう船上で媚薬を飲み、恋に落ちるまでが第一幕。マルケ王が狩りに出かけた夜、トリスタンとイゾルデは結ばれるが、その現場を発見されてトリスタンが深傷を追うまでが第二幕。15分ほどの休憩を挟んだ後の第三幕では、イゾルデが死の床にあるトリスタンの下へ向かうが、到着寸前にトリスタンは息を引き取る。イゾルデがトリスタンへの思いを謳い上げる姿で幕。
野外に設置された舞台は、昨年の『ク・ナウカで夢幻能な「オセロー」』とまったく同じ場所。その時と同じ能舞台を模した構造で、中央に本舞台があり、後方の後見座に女性のスピーカーとコロス、上手の脇座に男性のスピーカー、そして下手に橋懸かりがある。違うのは客席の屋根が無くなったことくらいか。
その舞台セットからもわかるように、『ク・ナウカで夢幻能な「オセロー」』で試みた実験が、この作品の中に昇華されている。前作ではまだ手探り状態だった能舞台の使い方もこなれたものとなり、何もない裸同然の舞台から、豊かなイマジネーションがあふれ出してくる。前回見にくいと評判が悪かった電光掲示板は冒頭だけの使用に抑えられているし、男性スピーカーは地声だが、女性スピーカーはわずかにPAを通して聞き取りにくさを補うなど、観客の立場に立った細かな改良も施されている。
そして背景となる庭園。前作では、かなりの部分で木々や池が照らし出されていたが、今回はその夢幻的な風景がほとんど映らない。それがラストに至って、ついに姿を現したときの鳥肌が立つほどの感動。まさに異界への扉が開かれた瞬間だ。野外公演はこれまでにも何度かあったが、今回ほどそれが効果を上げた例はない。
そのような背景の扱いも含めて、今回は照明の使い方が見事だった。本舞台の床はアクリル製で下からも照明が当てられるのだが、それが特に第二幕、互いを求め合うトリスタンとイゾルデの描写で絶大な効果を上げていた。
役名は原作のままだし、台詞上はコーンウォルやアイルランドが舞台になっているが、日本の明治時代がモチーフに取り入れられている。マルケ王は明治天皇の姿をしているし、部下のトリスタンたちも明治時代の軍服。そしてイゾルデは琉球の王女の服装をしている。コーンウォルのアイルランド制圧を、明治政府の琉球王国制圧に重ね合わせているわけだが、ここまではク・ナウカ作品でよく見る脚色だ。
しかし第三幕で舞台がトリスタンの故郷に移ると、トリスタンたちがアイヌの服装をしているのに驚き、苦笑した。琉球から蝦夷(アイヌ)へと飛ぶ設定が、昨年見たinnerchildの『遙〈ニライ〉』に、あまりにもよく似ていたからだ。もちろんアイヌも明治政府によって抑圧された人々だから、琉球と同様の意味を持たされているのだろうが、それにしても似すぎている。宮城聰も小出伸也と同様、琉球に流れるニライ伝説に基づいて、このような演出を行ったのだろうか?
演技は一人のキャラクターをムーバーとスピーカーの二人で演じる、ク・ナウカならではの人間浄瑠璃スタイル。そのスタイルを崩して言動一致のスタイルを導入する作品も増えていたのだが、この作品はごく一部を除いて完全な言動分離。また普段はムーバーとスピーカーの性別が一致しないことも多いのだが、今回は男性の声は男性が、女性の声は女性が当てているため、初めて見た人にもわかりやすかったはずだ。
今回特に活躍が目立ったのはトリスタン役のムーバー大高浩一。ク・ナウカの美男子担当役ながら、美加理を前面に立てて一歩引いたポジションにいることが多い彼が、今回は大健闘。特に第二幕から第三幕の途中までは彼が主役として舞台を引っ張っていた。今までに見た彼のベストパフォーマンスだ。その声を担当する阿部一徳は、スピーカーとしては最大の実力の持ち主であり、いつも通りの素晴らしさ。ムーバー=美加理/スピーカー=阿部一徳というコンビが最強だと思っていたが、大高/阿部のコンビもそれに負けない魅力を持っていた。
イゾルデの声を担当した本多麻紀も賞賛に値する。トリスタンが大高/阿部、イゾルデが美加理/本多とくると、キャリア的にも実力的にも本多がワンランク落ちるのは明らかで、見る前はかなり心配だったのだが、そんな心配を吹き飛ばす会心の出来。ムーバーとして出てくると少し地味な印象を覚える人だが、今回のスピーカー演技で俄然彼女を見直すことになった。
そしてイゾルデ役のムーバー、美加理。普段とは逆に大高を前面に立てている感じで、今回はトリスタンの方が主役か…と思っていたら、最後の最後にやってくれた。トリスタンの亡骸に寄り添い、共に夜の国へ旅立ったかと思われたイゾルデは、静かに起き上がると、世界の全てを圧するかのようなオーラを発し、トリスタンへの思いを謳いあげる。その姿は、トリスタンが「昼」を拒否して「夜」の国に旅だったのに対し、「昼」と「夜」の合一を図るもののように見えた。
白装束で舞にも似た動きをする美加理は、とてもこの世の人とは思えない。存在の次元が違い過ぎる。そういう思いはこれまでに何度も抱いてきたが、本作のクライマックスにおける美加理は、今まで見た中でも最高に強力なオーラを発していた。僕はこれまで彼女を「芝居の化け物」と呼び、「美加理は彼女一人で美加理という名の芸術ジャンルなのだ」と賞賛してきた。しかし以前の作品で、そんな最大級の賛辞を贈ってしまったため、この日の美加理を形容すべき言葉が見つからず困っている。ほぼ出ずっぱりで作品全体を支配していた『王女メデイア』も凄かったが、この『トリスタンとイゾルデ』第三幕における美加理は、今までに見た最高の演技だ。いや、そもそもこれを他の芝居、他の役者と同じ「演技」という言葉で呼んでいいものなのか?
一緒に見た友人が「ほとんどの芝居は人間の日常的なものとつながっているが、美加理さんの芝居は、巫女のように神に向けられた演技に思えた」と言っていたが、まさにその通り。確かに彼女は、観客に対してではなく、神や宇宙の真理といった、より巨大な何かに向けて演技をしているように見える。そんな演技の方向性も、美しさも、オーラも、全てが別次元。こんな人を眼前で見られる幸福を、一体何に喩えよう。
内容についてだが、エロスを経て死へと向かう二人の旅路は、一見特殊に見えるが、その実、人間が生きてこの世にあることの普遍的意味を浮き彫りにしているように感じられた。
普段は開演前に宮城聰の解説などを読むのだが、今回は開演まで暗い場所に座ってしまったため、ストーリー以外はほとんど読んでいなかった。ところが帰りに彼の解説を読むと、僕が作品を見て感じたこととほとんど同じ内容が書かれていたのに驚いた。いつもだと、解説を読み直して初めて「なるほど、そういう意図があって、ああいう演出を行ったのか」と感心するものの、「でも解説がなかったら、そういう意図は伝わらないよね」と、その表現の独走ぶりに首をひねるケースが多いからだ。悪く言えば作家側の表現不足、良く言えば観客に極端に高度なリテラシーが求められるということだ。
それが今回は、解説を読まずとも、宮城の表現意図がほぼ丸ごと観客である僕に伝わってきたのだ。その点からも、本作はク・ナウカの最高傑作と言うにふさわしい。
中でも特に重要なテーマに触れている部分を引用してみよう。
*
今回僕が『トリスタンとイゾルデ』を取り上げるにあたっては、ふたつの前提があります。ひとつは、この(ワーグナーが書いた)台本を、ワーグナー自身の音楽から解き放つこと。もう一つは、この台本を「恋愛至上主義」から解き放つことです。ある学者が言ったように、「近代」のエッセンスは「恋愛至上主義と社会進歩史観」だとすると、われわれは『トリスタンとイゾルデ』を、「近代」という檻から解放しようともくろんでいるのです。
恋愛至上主義、というのは、「わたしはわたしであり、ほかの誰でもない」という考えの上に成り立ちます。ほかの誰でもないわたしが、ほかの誰でもないあなたを好きになった。つまり「個人」の「唯一無二性」の精華が恋愛である、という考え方。でも、「ほかのひとではだめ、あなたでなくてはダメ」と選びあった恋人は、やがてセックスという、あらゆる生物がみなひとしなみにおこなっている、最もありふれた行為をすることになります。一組の恋人がセックスをしているその同じ瞬間に、世界中で何万人、何千万人もが、ほとんど同じ行為をしているのです。
むしろこの、全然「唯一無二でない」ところ、に、生命体としての祝福を見い出したい、というのが今回の『トリスタンとイゾルデ』の眼目になっています。性愛を刹那のよろこびではなく永遠の快楽(けらく)につなげようとしたこの台本の思想が、こうして19世紀という限界を超えて生き延びていく。それを僕は願っています。
(〈演出ノート〉より)
*
僕がこの作品を見て強く感じたのも、ここで語られている「恋愛の非 唯一無二性」と、それ故の普遍性とでも言うべきものだった。
トリスタンとイゾルデの二人は、初めて会ったときから惹かれ合っていたようだが、その部分は直接描かれていないし、その時点ではまだ運命の恋というほどのものではなかったようだ。二人が共に毒杯をあおろうとするのは、あくまでも昼(一般社会)の論理に囚われてのことに過ぎない。
二人が分かちがたい恋に落ちるのは、そこで毒薬とすり替えられた媚薬を飲んだことによる。つまり二人の自由意志、互いを唯一無二の相手とみなした結果ではなく、ある種の不可抗力、生き物としての生理現象に操られた結果なのである。ここにおいて「ほかのひとではだめ、あなたでなくてはダメ」という恋愛の理想は崩れ去っている。
それを明示しているのが、第二幕で二人が結ばれるシーンだ。腰巻きだけになって四つんばいで舞台を駆け回る大高の動きは、ある意味とても滑稽で、性行為にまつわるロマンチシズムを剥ぎ取り、それが極めて生物学的な行為であることを露わにする。
だがその様子は、滑稽ではあっても、決して否定的な思いを抱かせるものではない。まるで昆虫のように抱き合った姿のまま、マルケ王たちに発見されるトリスタンとイゾルデ。マルケ王は、明治天皇を模したゴテゴテした服装に身を包み、機械仕掛けのようにぎこちない動きをしながら、トリスタンの不実をなじる。だが社会的な権威に身を包んだロボットのような王の姿と、半裸のまま昆虫のように抱き合った二人の姿が対比されたとき、より生命の本質に近いのがトリスタンとイゾルデの方であることを、観客は痛感する。
二人の姿は社会的な見地から見れば滑稽かもしれないが、一方でより大きな生命の流れにつながるものを感じさせる。それは、限られた生しか持てぬ個人が、誰かとつながることによって永遠なるものへ一歩近づく光景だ。一方の王は、社会的権威や物質的な鎧を身にまとうことで、逆に永遠の流れから疎外されている。宇宙的な視点から見たとき、より滑稽なのはマルケ王の方だろう。そして「ほかのひとではだめ、あなたでなくてはダメ」という恋愛至上主義も、実は「王権」と同じ社会的なイリュージョンであり、マルケ王の側に属する発想なのだ。
もちろんほとんど全ての人間は、この両者の間をさ迷いながら生きている。どちらか片方が良くて、もう片方が悪いなどという単純な話ではない。両者に見られる滑稽さは、人間が生きていく上で不可避的に持たざるをえない滑稽さなのだ。
そこで露わにされた生の両極は、観客に対して根源的な問いを投げかける。
「あなたは、この世界のどこに存在し、どこに向かおうとしているのか」と。
『アンティゴネ』など過去の作品でも、宮城聰は同じテーマを描こうとしていたはずだ。しかしすでに述べたように、その意図が十全に観客に伝わっていたとは言いにくい。彼の描こうとしたテーマが、ここまでストレートに伝わってきたのは初めてのことだ。『王女メデイア』は、テーマはわかりやすく伝わってきたが、あまりにも理に落ちすぎた展開がスケールを小さくしていた感がある。この『トリスタンとイゾルデ』は、明確でわかりやすいテーマを持ちながら、芝居のスケールを遙かに超えた宇宙的な広がりを感じさせることにも成功している。
ラスト、トリスタンと共に息絶えたかと思われたイゾルデは再び立ち上がり、トリスタンが永遠の流れに身を任せる姿を謳い上げる。オペラでは、この後イゾルデはトリスタンの亡骸に体を重ね息絶えることになっているから、むしろ逆の展開である。ク・ナウカ版のイゾルデは死なない。それはこの世における生が何よりも尊いなどと言っているわけではなく、白装束で舞うイゾルデに、生と死、昼と夜、人間と宇宙の合一した姿を体現させたかったからだろう。美加理という傑出した才能と、博物館庭園の借景によって、この数分間は真に神がかったものとなっている。ク・ナウカが描き出した最も美しい光景。ク・ナウカが到達した最高の境地だ。
宮城聰がSPAC(静岡舞台芸術センター)の芸術総監督に就任決定したことで、活動停止の噂が流れているク・ナウカ。ファンとしては、どんな形であれ活動を続けて欲しいものだが、こんな「ク・ナウカの集大成」とでも言うべき作品を見せられてしまうと「宮城さんも、とうとうク・ナウカの総決算に入ったようだな」と思わずにはいられない。来年2月の『奥州安達原』がどんな作品になるかわからないが、最後まで彼らの活動をしっかりと見届けることにしよう。
ク・ナウカの『天守物語』とMODEの『AMERIKA』を見て本格的な演劇ファンになった自分にとって、短いながらも歴史が一巡した思いを抱かせる一夜だった。
(2006年8月)
The comments to this entry are closed.
Comments