【映画】『クラッシュ』加害者の心の痛み
結局この映画、3回見てしまった。うち2回はオスカー受賞前。この文章はその頃からずっと書きかけのまま放り出されていたのだが、さすがに3回も見て何も書かないのはいかがなものかと思い、書き上げることにした。それにしても、別のスクリーンで同じ映画を3回見たことは以前にもあるがが、後になるほどスクリーンが高品質で大きなところに移っていくというのは、初めての経験かもしれない。普通はその逆なのに。
『ミリオンダラー・ベイビー』の製作・脚本を手がけたポール・ハギスが、製作・脚本に加えて監督まで務め、今年のアカデミー賞で6部門にノミネート、見事作品賞・脚本賞・編集賞を受賞した作品。
『ミリオンダラー・ベイビー』の脚本家として高い評価を受けたので監督業に進出したのかと思いきや、製作が始まったのは、こちらが先らしい。『ミリオンダラー・ベイビー』は元々ハギスの企画で、それをイーストウッドが監督をしたいと申し出たのが『クラッシュ』の撮影開始直後のこと。つまり『クラッシュ』は完成・公開までに、かなり時間がかかったことになる。最後のクレジットが2004年になっている理由が、それでわかった。
ロサンゼルスを舞台にした群像劇。複雑かつ緻密な構成の中で、様々な人間の愛憎がぶつかり合う。全体的な印象は『マグノリア』に極めてよく似ているが、「人種偏見」という社会的テーマを中心に据えたことで、今のアメリカの姿を、よりヴィヴィッドに描き出す作品となっている。しかも社会的・時代的な要素を色濃く持ちつつ、個人的・普遍的な感動を呼ぶ、真の「人間ドラマ」になっているところが凄い。
先に3つの問題点を上げておこう。
まず、映画監督としては最初の作品だけに、映像的な妙味は薄い。いかにも脚本家の作った映画という感じ。シーンの切り替えを同じアクションでつなぐなど細かな工夫が施されているが、これはオスカーも受賞しているとおり、監督よりも編集者の手腕に寄るところが大きそうだ。
数多くのエピソードがあるが、全てが成功しているわけではない。とりわけサンドラ・ブロックと家政婦の和解は表面的で、エピソード別に言えば本作の最大の瑕となっている。その夫であるブレンダン・フレイザーが、白人警官に撃ち殺された黒人警官の汚職を握りつぶし、白人警官を悪者にすることで黒人の支持を取り付けようとする政治工作も、極めてわかりにくい(2回見てようやく理解できた)。ただしこれは字幕があまり良くないせいもある。
そして3つめ。この作品が発するメッセージは、ある意味非常に古臭く、時として説教臭く感じられる。人種問題というセンシティヴな問題を扱っているものの、その原因を政治や経済の構造に求めることはなく、あくまでも個人の心の問題として追及している。本作を否定する人の大部分は、この辺りに引っかかるのではなかろうか。
これだけの欠点を抱えているのだから、決して完璧に近い作品とは言えない。むしろ多くの瑕が目立つ作品だ。
しかしそのような問題点を認めつつも、僕はこの作品を3回見て、3回とも涙を抑えることが出来なかった。
様々な糸がもつれ合い、もっぱら憎しみや不信感だけが支配していたドラマは、中盤の交通事故(Crash)を境に大きな変化を見せ始める(本作は交通事故で始まり、交通事故が中盤の転回点となり、交通事故で幕を閉じる)。
中盤の交通事故は、多くの人が最も感動的な場面の一つに上げることだろう。前の晩、人種偏見から黒人夫婦に不要な取り調べを行い、夫人のクリスティン(サンディ・ニュートン)にセクハラを行った警官ライアン(マット・ディロン)。しかし交通事故を起こして横転した車の中にいたのは、そのクリスティンだった。昨夜の屈辱を思い出し、ライアンが近づくのを泣いて拒否するクリスティン。
その時の「何てことだ…」というライアンの表情が印象的だ。そこに表れているのは、自分のやったことがとんでもない事態を引き起こしてしまったという後悔の思いである。
ライアンには、有色人種の待遇を改善するために出来た法律によって父親が仕事を失ったという心の瑕がある。そのため有色人種に対して嫌がらせをしているわけだが、逆に言えば、その程度の因果関係から生まれた人種差別であり、個々の有色人種に対して真剣な憎しみを抱いているわけではない。それは前半の黒人女医との対話からもわかる。前の晩の嫌がらせにしても、悪意はあるものの、彼にとっては軽い悪戯心でしかない。
だがその軽い悪戯心によって、黒人夫婦の間には深刻な精神的な危機が訪れる。加害者は自分のやったことを忘れても、被害者はそこで受けた傷をなかなか忘れることが出来ないのだ。
夫婦に訪れた精神的危機など知るよしもないライアンだが、翌日、偶然にもクリスティンの事故現場に遭遇する。彼は決して根からの悪人でも鬼畜でもなく、その人種差別的心情は人命を尊ぶヒューマニズムに勝るものではない。ところが昨夜の悪戯によって、一人の人間の命が今危機に晒されているのである。クリスティンがこのまま救出を拒否することで死んでしまったら、それはライアンが殺したも同然だ。ここにおいて彼は、自分の悪戯心がどれほど重い罪であったかを、ようやく理解するのである。
クリスティンを諭し、救出を始めるライアンの姿が印象的だ。クリスティンの下に潜り込み、まるでラヴシーンのような体勢で「Look at me.」と言うライアン。彼は前夜、クリスティンに後ろを向かせ、目を合わせぬまま後ろから猥褻な行為を行った。その時彼は、クリスティンを一人の人間としてではなく、「黒人女」という記号でしか見ていない。クリスティンの方も、彼を「人種差別主義者の白人警官」としか見ていない。しかし間もなく爆発する事故車の中で、二人はようやく互いの目を見つめ合い、互いを記号ではなく一人の人間として認めあう。そこでクリスティンも、この人種差別主義者の心に存在する良心を認め、彼の手による救出を受け入れるのである。
なぜ何回見ても、このシーンで涙が抑えられないのか?
それは、ここに映画としては希有な「加害者の心の痛み」が描かれているからだ。
「何故自分はあんなことをしてしまったのだろう。何故自分は、あんな風に他人を傷つけてしまったのだろう」そんな痛切な思いが溢れているからだ。
「自惚れ鏡」が映画の重要な機能であることを指摘したのは佐藤忠男だが、彼の言うとおり、「被害者の心の痛み」を描いた作品なら巷に溢れている。例えばこの作品とオスカーを争った『ブロークバック・マウンテン』。映画としての出来から言えば、おそらく『クラッシュ』以上だろう。その完成度の高さについて文句を付ける気はさらさら無い。しかし比較すれば不出来な『クラッシュ』の方に、僕はより心を打たれる。
それは『ブロークバック・マウンテン』が、「被害者の心の痛み」を描いた作品という域を出るものではないからだ。イニスがジャックのシャツを抱きしめるシーンに、わずかながら「加害者の心の痛み」を見い出すことは可能だ。しかしあの程度の描写では、「お前のせいで俺はこんな人間になってしまった。俺はただの負け犬だ」という言葉に象徴される「被害者の心の痛み」に拮抗するほどの力はない。「自分が受けた悲しみ」だけでなく、それと同レヴェルで「自分が与えた悲しみ」を描ききった『クラッシュ』の方が、自己批評の深さや新鮮みにおいて優れている。
どちらも字幕に訳されていないのが残念だが、ライアンがクリスティンに対して言った「Look at me.」という言葉は、後のエピソードでも再び繰り返される。
クリスティンの夫であるキャメロン(テレンス・ハワード)は、自分の車を乗っ取ろうとしたチンピラ アンソニー(クリス・リュダクリス・ブリッジス)を結果的に助けるような形になる。さすがに大人しくなり、車から出ていこうとするアンソニーに、「Look at me.」と声をかける(字幕では「待て」と訳されていた)。振り向くアンソニーに対して、キャメロンはあの名台詞を言う。
「君のやっていることは、私に迷惑をかけるだけでなく、君自身をも貶めている」
この台詞が、再び「加害者としての心の痛み」をえぐり出す。
他人と争い、憎み、傷つけることは簡単だ。しかしライアンのように、後になって自分の行為が想像以上に人を傷つけていたことを知ると、人は自分の愚かさに恥じ入り、後悔をする。そこにはもちろん他人に対する罪の意識もあるが、同時に「正しい行為をしたい」と思っているはずの自分が、愚かな考えを持ち、間違った行為をしていたという恥ずかしさもある。この台詞が指摘しているのは主に後者の方だ。
そう、人は正しい行為をしたいと思いつつ、しばしばそれに反する行為を取ってしまう。
キャメロンの言葉は、それに気づいたときの、穴があったら入りたいような恥ずかしさを思い出させてくれる。
その後アンソニーはバスに乗って帰途につく。映画の序盤で彼は「俺は絶対バスに乗らない。バスの窓が何故あんなに大きいか知ってるか? 俺たち有色人種を晒し者にするためだ」という、滑稽なまでに被害者意識丸出しの発言をしている。それが考えすぎであることは言うまでもない。バスの中を見回すアンソニー。乗っているのは有色人種ばかり。彼らは別にバスで晒し者にされているわけではないし、白人支配への怒りがバスの中に充満しているわけでもない。そこにあるのはごく日常的な生活の風景である。
このような幾つかの経験を経て、アンソニーも自分の見ていた支配構造が幻に過ぎなかったことを理解する。もちろん支配構造そのものが存在しないわけではない。しかし彼の思い描いていた支配構造は、頭でっかちで紋切り型な記号に過ぎず、結果的には自らの愚かな行動を正当化するための手段に堕していたのだ。
そのアンソニーが、売り飛ばされようとしていたカンボジア人(タイ人?)たちを救い、解放するところで、映画は終わりを迎える。もちろんこの行為によって、全てがハッピーエンドになるわけではない。英語すら理解できない様子を見ていると、あのカンボジア人たちが幸福を手に入れる可能性はあまり高くないように思える。その直後に描かれる最後の交通事故が象徴しているように、彼らは新たなクラッシュ(衝突)の種となって、自分が傷ついたり、他人を傷つけたりすることだろう。
だがそれでもいいのだと、ポール・ハギスは訴える。
完璧な善人も悪人もいないように、人間のやることに完璧な善行も悪行もありはしない。良かれと思ってやった行為が結果的に状況を悪くする経験は、誰しも心当たりがあるだろう。
だが人間が生きていく限り、そのような衝突を回避することは出来ない。それを回避するには、自分の心身を金属とガラスで防備し、孤独に包まれたまま臆病な一生を過ごすしかない。
もしそれが嫌なら、衝突を恐れてはならない。だがそこで決して忘れてはいけないのは、自分の衝突している相手が唯一無二の「個人」であることだ。互いの目を見ることもないまま相手を「記号」とみなしている限り、その衝突は何も生み出すことなく、自分の人間性をも貶めるものとなる。もちろん互いに目を見つめ合えば必ず衝突が避けられるわけではない。しかし衝突が起きたとしても、その後に建設的な何かが生まれる可能性は飛躍的に高まるはずだ。
この映画のテーマは、そんなごく当たり前の、教条的・道徳的なものだ。
だがそれを聞いて笑う人たちは、日常生活において、そのテーマを「当たり前だ」と言って笑えるほど立派な毎日を過ごしているのだろうか?
エーリッヒ・フロムの『愛するということ』に、次のような記述がある。
人は普通、どんなことがあっても苦しみや悲しみは避けるべきだと信じているが、ちょうどそれと同じように、愛があれば対立は起きないと信じている。どうしてそう思うのかと言えば、身の回りで見かける対立がすべて、どちらの側にも良い結果をもたらさない破滅的な交わりにしか見えないからだ。
なぜ双方に好ましくない結果しかもたらさないかといえば、ほとんどの人の「対立」が、実は、真の対立を避けようとする企てに過ぎないからである。もともと解決などありえないような些細な表面的な事柄で、仲違いしているに過ぎないのだ。
二人の人間の間に起きる真の対立、すなわち、何かを隠蔽したり投射したりするものではなく、内的現実の奥底で体験されるような対立は、決して破壊的ではない。そういう対立は、かならずや解決し、カタルシスをもたらし、それによって二人はより豊かな知識と能力を得る。
(『愛するということ』鈴木晶 訳/紀伊國屋書店/P153〜154)
フロムのように、真の対立が必ず実りをもたらすと断言する勇気は、僕にはない。
しかし世の中に溢れる対立の大部分が「何かを隠蔽したり投射したりするもの」「真の対立を避けようとするもの」であることは確かだと思う。
父親の不幸を人種差別によって鬱憤晴らしするライアン、人種差別が引き起こした災難の責任を錠前屋に転嫁するペルシャ人…この映画にも、そんな愚かな行為に走ってしまう人々が溢れている。
いや、映画の中だけではない。見回せば、周りにはそんな人が山ほどいるはずだ。
例えば、僕。
そして、あなただ。
ごく当たり前の、しかし極めて大切なテーマを説得力豊かに描くことは、奇抜なテーマを描くことよりも、時として難しく勇気のいる作業だ。
それを見事に成し遂げたポール・ハギスを、僕は心から敬愛する。
(2006年4月)
【追記】
なぜこの文章が2か月も未完成のまま放り出されていたかというと、映画で「ごく当たり前の、しかし極めて大切なテーマ」を説得力豊かに描くのがたいへんなように、そんなテーマを持った映画について、単なるストーリー説明以上の何かを書くのもたいへんな作業だからだ。最後に引用したフロムの文章を読んだ時ようやく着地点が見えたのだが、あの一文が目に止まらなかったら、まだ書けなかったもしれない。フロムに感謝。
具体的に触れたのは、ほんの2〜3エピソードだが、他にも「見えないマント」や、キャメロンのやけっぱちの行動、黒人を誤って殺してしまう若い警官など、中心となるテーマに直結し、見る者の心を深くえぐるエピソードが幾つもある。しかし全てを書き尽くす力は無かった。無念なり。
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Comments
TBどうもです。
とても興味深いレビューでした。
当たり前の事を、しっかりと飽きさせずに描くのは難しい事です。
ポール・ハギスからはちょっとシニカルで、しかし根底的には楽観的な人間観察眼を見て取れます。
今年は監督2作目も、イーストウッドとの新作もあるので、次にどんな世界を見せてくれるかとても楽しみです。
Posted by: ノラネコ | 04/15/2006 at 20:54
TBどうもでした~♪
ライアンがクリスティンに向かって「Look at me!」って言うのは憶えてますが、キャメロンがアンソニーに向かって言ったのは全く憶えてません。
映画の見方が、深いですね。
Posted by: はっち | 04/15/2006 at 22:07
TBありがとうございました。
とても真摯に映画と向かい合っていられる姿勢に
とても感銘いたしました。
「加害者の心の痛み」を軸に展開されるレビューに、
何度も感嘆の声を出しながら読ませていただきました。
Posted by: えい | 04/15/2006 at 22:42
こんにちは。TBありがとうございました。
私は2回見てUS盤を更に購入し自宅で何度か見ました。TBいただいた記事とは違うものをTBを張らせていただきましたので、お暇がありましたらお越しくださいませ。…といっても、こちらほど深い洞察などない感じたまま記した記事ですが…(^^ゞ
被害者もそうですが、加害者の心の痛みは計り知れないと思います。だからこそ、黒人を手にかけてしまった警官の苦しみさえ思うと、(そんなに詳しくは描かれませんが)胸が痛いです。
Posted by: charlotte | 04/15/2006 at 22:46
こんにちは、TBありがとうございました!
こちらからもお返ししようとしましたがうまく行かず、なのでコメントで失礼します。
>互いを記号ではなく一人の人間として認めあう。
なるほどです。
考えてみたら、人を記号化する、ということでは肩書きだの職業だの学歴だのでレッテルを貼る僕たち日本人だってもしかしたら事情は一緒で、だからこそこの映画にグッと来たのかもしれません。
Posted by: Ken | 04/15/2006 at 23:34
こんにちは♪
素晴らしいレビューですね。
TBさせていただくのはお恥ずかしいような感想記事ですが、お許しくださいませ。
今年見た映画の中でもトップクラスに挙げたい映画です。
地元公開になったらまた見るつもりです。
Posted by: ミチ | 04/16/2006 at 00:00
#ノラネコさん
ポール・ハギスは明日のアメリカ映画を背負う逸材だと思います。監督第2作がお目見えするのはまだ少し先になるようですが、イーストウッドと再びコンビを組む硫黄島ものに期待しましょう。
#はっちさん
いや、僕も二つの「Look at me.」に気づいたのは、2回目の観賞時でした(笑)。
#えいさん
加害者の心理ならお任せあれ。何しろ僕自身がしょちゅう加害者になってますからね、わはははは…(大汗)
#charlotteさん
最終的には、ほとんどのエピソードがハッピーエンドに近い形で終わる中、ライアン・フィリップの警官と、彼に殺された黒人の若者は、現実の厳しさを描いた重要なエピソードでした。警官が自分の車に火をつけた後、通りかかったキャメロンが、燃えさかる車の前で奥さんに電話して「愛している」と言う、あの美しくも皮肉な光景に、また涙が止まりませんでした。
#kenさん
ごめんなさい。ココログって本当にシステムがダメダメで、なかなかTBができないのです。同じココログ同士でも、TBできる場合よりできない場合の方が遙かに多い。僕がTBを拒否しているわけではないので、お許しください。
少なくとも都市生活では、他人を記号とみなすことは、もはや当たり前になっていると思います。例えば街で立ち寄ったコンビニの店員は「コンビニの店員」という記号でしかなく、よほどの美人か(笑)よほど不快なことでもやらない限り、それがロボットだったとしても何の違いもありません。
アメリカが日本と違うのは、一目でわかる人種の違い故に差別があり、それが元で起こる衝突が多いこと。日本にはそこまでの差別はありませんが、どれを見ても似たような外見故に、記号化された相手を「自動応答するロボット」としか見ていないところがある。つまりいかなる形であれ、記号化された他人との関わりが少ない。これはこれでアメリカとは違う大きな問題だろうと思います。
#ミチさん
僕も今年見た映画の中では、『ジャーヘッド』とトップを争う作品です。興行的には危機的状況を迎えているアメリカ映画ですが、その分インディペンデント系では、今までにないほど深みのある人間ドラマが次々と作られているようですね。今年のアカデミー賞は、そんな現状をよく表していたと思います。
Posted by: ぼのぼの | 04/16/2006 at 00:45
こんにちは。
弊ブログへのトラックバック、ありがとうございました。
こちらからもコメント&トラックバックを失礼いたします。
細やかな考察をされたブログ記事を興味深く拝見させて頂きました。
僕は必ずしも本作品が良い映画とは感じなかったのですが、最初にぼのぼの様が考える問題点を上げてから本題に入る部分に、作品の魅力を公平に語りたいという姿勢を感じました。
DVD化されてからになるとは思いますが、もう一度じっくりと観直してみたいと思いました。
また遊びに来させて頂きます。
ではまた。
Posted by: たろ | 04/16/2006 at 12:29
>ぼのぼのさま
最初に悪い材料全部揃えて,だんだん盛り上げてゆくのはずるいぜと思いながら,最後は手放しで感動させられました。ワタクシ的には,マグノリア系の同時多発,主筋なしは好きなのでその点でも満足度高かったです。
文化も歴史も違うのに等しく貧しいという台詞ありました。マイノリティにも,貧しいながら誇りがありました。日本の場合,ただの貧富の差になってしまい,もっと深刻な事態になるように思えてなりません
Posted by: とみ | 04/18/2006 at 22:44