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04/23/2006

【ダンス】ピナ・バウシュ ヴッパタール舞踊団「カフェ・ミュラー」「春の祭典」2006.4.16

Pina0602


ピナ・バウシュ ヴッパタール舞踊団「カフェ・ミュラー」「春の祭典」
2006年4月16日(日) 国立劇場 大劇場


最初に言っておくが、僕はピナ・バウシュについて特に詳しいわけではない。公演を見るのも今回が初めてだ。そんな人間が13500円ものチケット代を払って、何故この公演を見に行ったかと言えば、ひとえにペドロ・アルモドバルの映画『トーク・トゥ・ハー』の影響である。まあ今回は、そんな観客が結構な割合を占めていた気もするが。
『トーク・トゥ・ハー』は、いきなり「カフェ・ミュラー」の舞台風景から始まる。踊っているのはピナ・バウシュ自身。そんなに長いシーンではないので、作品の全体像はほとんどわからないが、幽鬼のようなピナの踊りと、椅子を次々とどけていく男の姿は鮮烈な印象を残した。

舞踊団自体は最近も何度か来日しているが、1万円以上もするチケット代を払う決心はなかなかつかなかった。しかし今回は違う。何しろ演目があの「カフェ・ミュラー」だ。しかもストラヴィンスキーの「春の祭典」との二本立て。「カフェ・ミュラー」では映画と同じようにピナ自身が舞台に立つ。彼女の踊りが見られるのは、これが最後だというもっぱらの噂だ。ここまでの条件が揃って見ないわけにはいくまい。躊躇することなくS席を購入した。


場所は三宅坂の国立劇場 大劇場。過去に何度か足を運んでいるが、最近歌舞伎から遠ざかっているため、かなり久しぶりだ。国立劇場は歌舞伎などの古典芸能専門で、本来ならコンテンポラリーダンスは新国立劇場でやるものだが、20年前にこちらで「カフェ・ミュラー」の日本初演が行われたため、同じ場所でやることをピナが希望したらしい(20年前に新国立劇場は無かった)。

到着すると、当日券を求める人々の長蛇の列が目に飛び込んでくる。リピーターが多い模様。最終日だけあって、客席は超満員。ここまで熱気に満ちた国立劇場は初めてだ。

座席は前から4列目の中央ブロック、ど真ん中より少し上手寄り。本当はもう何列か後ろにしたかったのだが、その辺りは埋まっていて、10列以上後ろになるなら前の方がいいだろうということで、ここを選んだ。


14時を10分ほど過ぎた頃客電が落ち、「カフェ・ミュラー」が始まる。

椅子とテーブルが並ぶカフェらしい場所で繰りひろげられる、男と女のドラマ。明確なストーリーは見いだせないし、無理に見いだそうとすればするほど作品が遠ざかっていくようだ。しかしそこに描かれているものが、幸福な恋愛などではなく、男女の絶望的なディスコミュニケーションであることは間違いないと思う。
特に印象的なのは、男が女を抱きかかえては落とす行為を何度も反復するところ。その非生産的な反復行為には、男と女の悲しい隔たりと、それでも互いに離れることが出来ない閉塞感のようなものが感じられた、男を演じたドミニク・メルシーは、ちょっとウィリアム・ハート似で、全身から気怠さと疲労感を漂わせつつ不思議なエロティシズムを醸し出している。

彼らの行く手にあるテーブルや椅子を次々と倒していく男。時には二人の抱擁の手助けまでして愛を成就へ導こうとするが、それも無為に終わる。彼は無力なキューピッドなのだろうか? 映画『ベルリン天使の詩』における、沈鬱な中年男の姿をした天使たちを思い出した。

そしてピナ。最初からずっと登場しているにもかかわらず、静かなる狂騒から無視され、独りぽっちで幽玄な動きを続けている(倒れたまま動かないこともある)。その動きは他の誰とも違う。この舞台だけでなく、これまでに見たどんなダンスともまるで違う。ほとんどのダンスは「生」の表現だと思うが、彼女の動きは「死」を表現しているように見えて仕方がない。「冥界のダンス」…そんな言葉が頭をよぎる。

だが、これに似たものをどこかで見た記憶がある。
普通のダンスや舞踊やバレエではない。
しかしこの幽玄な動きによく似たものを、確かにどこかで見ているはず…

間もなく、それが「能」であることに気がついた。

能には、この世に思いを残した死んだ亡霊や、狂女と化した女が、自らの悲しみを僧侶や旅人に謡って聞かせるという内容の作品がたくさんある。この作品のピナは、そんな亡霊のような存在なのかもしれない。だからこそラストまで全ての登場人物が彼女の存在を無視しているのだろう。

見終わって数時間たってから「卒塔婆小町」のことを思い出した。
オリジナルの能は見ていないが、それをベースに三島由紀夫が『近代能楽集』の一つとして書き上げたものなら、ク・ナウカのアトリエ公演で見ているし戯曲も読んでいる。
かつては比類なき美貌で鳴らした小野小町が百歳(三島版では九十九歳)の老婆となって地上を彷徨う姿を描いた作品だ。
この作品に登場するピナも、若い頃にあのカフェで誰かと愛しあい、傷つけあったのだろう。そして年老いた(あるいは亡霊となった)今も、あのカフェに宿り、飽くことなく繰り返される愛の葛藤を見届けているに違いない。

解説によれば、この作品はピナが少女時代に見た光景を元にしているらしい。だとすればピナが演じていたのは少女時代の彼女ということになる。だが想い出を元にしているからと言って、あのキャラクターを単純に少女時代のピナだと決めつける必要もないだろう。そもそもあのダンスに少女性はあまり感じられない。やはり僕は、あのキャラクターを卒塔婆小町のような存在だと解釈したい。

一つ残念だったのは、事前に聞いていたとおり、この作品は席があまり前の方だと全体が見渡しにくい。手前に椅子とテーブルがあるため、しばしば人物の動きがそれに遮られてしまうことがある。この作品を見るためのベストポジションは2階の最前列だろう。登場人物の関係性を立体的に把握するには、椅子やテーブルに邪魔されることなく全体を見渡せた方がいい。
ただし出演者が舞台の前方に来ると汗の酸っぱい臭いまで感じられる生々しさは、やはり捨てがたいものがある。作品の構造やダンスとしての動きを見るには2階の方がいいが、出演者の息使いや細かい表情といった演技的な部分を子細に見られる4列目も捨てたものではない。


約45分の「カフェ・ミュラー」が終わると、25分間の休憩。この間にセットが運び出され、巨大なビニールシートが敷かれ、土が盛られる。その光景自体が一種のダンスのようで、なかなか楽しかった。後で聞いたところによると、土はドイツからわざわざ運んできたそうだ。確かにそこらではなかなかお目にかかれない綺麗な赤土だった。


いよいよ後半「春の祭典」が始まる。

これには文句なしに圧倒された。「生け贄」をテーマにした陰惨な物語と、ダイナミックで生命力溢れるダンスが劇的な対比を見せ、スペクタクル性に溢れた舞台を形作っている。文字通り手に汗を握りっぱなしだった。「カフェ・ミュラー」はできれば2階で見たいと思ったが、こちらは絶対に前の方がいい。4列目などとケチなことを言わず最前列、いや出来ることなら舞台上に上がって、あの熱気を全身で浴びたいほどだった。

群舞シーンでは、ダンサーの動きがピタリと合っているわけではなく、意外なほどバラバラに動いている。最初は違和感を覚えたが、見ていく内に、むしろそれが生々しい生命力を生み出す大き要因であることに気がついた。バレエやブロードウェイミュージカルのような一糸乱れぬダンスが、建築学的な構造美を表現しているとすれば、こちらはもっと自然で生物的な美を生み出している。動物が動き回るとき、体の各部分は当然別々の動きをするが、全体として見ると一個の生物としての美を醸し出す。このダンスは、さながらジャガーのような巨大なネコ科の生き物が跳ね回っている姿を彷彿とさせる。
性的なイメージに満ちた男性ダンサーと女性ダンサーの交わりも、生物的なイメージをさらに増幅させていた。ただしジェンダーの問題について触れると、この作品では男女の自然な交わりよりも、男性が力づくで女性の自由を抑圧するようなイメージが多かったと思う。
またダンサーたちは、白人主体かと思いきや、東洋系から南米系まで色とりどり。この辺りも群舞と同様、「部分を見るとバラバラなのに、全体として見ると(人間という)一つの生き物」というイメージを強調していた。

予習として、以前から持っていたCD(ピエール・ブーレーズ指揮/クリーブランド管弦楽団演奏)をかなり聞き込んでから臨んだのだが、それは大正解だった。音楽の構成は大体頭に入っていたため、あとはそれをダンスによってどう表現するのかに関心を集中できる。静かな曲から一転、「春のきざしと若い娘たちの踊り」や「大地の踊り」「選ばれた乙女への賛美」といった荒々しい曲になだれ込むところなど、「おおっ、そうきたか!」と背筋がゾクッとした。
実は僕がこのCDを買ったのは、チャーリー・パーカー(ジャズのアルトサックスプレイヤー)が、特に好きな音楽として「春の祭典」を上げていたのがきっかけだった。今度の公演を見ている内に、なぜパーカーがこの音楽を好きだったのか、ようやく理解することができた。後半「選ばれた乙女への賛美」のあたりで、パーカーの壮絶なアドリヴが、本来の音楽に重なるような形で突然僕の耳に響き渡ったのだ。今まで何故この類似性に気づかなかったのか不思議なくらいだ。野性的な激しいリズム、目まぐるしく変化するメロディー、猛り狂うような金管楽器の音色など、このストラヴィンスキーの音楽には、チャーリー・パーカーのアドリヴに通じる要素が多数存在する。
それを実感したとき、僕の目の前に、ストラヴィンスキー、チャーリー・パーカー、そしてピナ・バウシュという3人の芸術家が表現しようとした壮麗な音の大聖堂が姿を現した。今回はもちろんピナ・バウシュ ヴッパタール舞踊団のダンスが主役だが、この公演を見たことによって、「春の祭典」とは一体どんな曲なのか、目から鱗が落ちるように理解することができた。


「春の祭典」は意外に短い曲なので後半の部は約35分。終演後のカーテンコールには、男物のように見えるスーツ姿に着替えたピナも登場。すぐ目の前で彼女の落ち着いた笑顔を見ることが出来て嬉しかった。こんなかっこいい婆さん、世界中探しても数えるほどだろう。
最終日だけあって、カーテーンコールは5回ほど。何だかんだで全て終わった時、時計は16時を回っていた。


ダイナミックでスペクタクル性に満ちた「春の祭典」は文句なしに面白い。それに比べると「カフェ・ミュラー」は予想よりも難解で今ひとつ、というのが見終わった直後の率直な印象だった。
ところが見終わって時間が経てば経つほど「カフェ・ミュラー」の印象が、心の中で膨れ上がっていく。
「春の祭典」は最初から全身を圧倒した。一方「カフェ・ミュラー」は、大部分が肌の表面で跳ね返されたはずなのに、後でふと気づくと、細くて鋭い針が心臓のすぐ近くに突き刺さっていた…そんな印象だ。

静と動の両極端な作品だが、その組み合わせも、能と狂言が必ずワンセットで演じられる能楽のスタイルに近いものを感じる。この二本を一度に見られたのは、本当に幸福な体験だった。


帰りは、この辺を歩く機会など滅多にないからということで、国立劇場から永田町の駅まで、青山通りに沿って歩いていったのだが、途中で奇妙な光景を見た。ある場所に何本も同じような木が並んでいて、その中の一本だけに濃いピンクの花が咲き誇っていたのだ。植物には詳しくないので、何と言う花(木)なのかはわからない。花は桜に似ているが、幹の感じから桜ではないと思う。僕の目には周りの木にも同じ種類に見えたが、だとすれば何故その木だけに花が咲いていたのだろう?

その理由は今もわからない。

しかし灰色のコンクリートに固められた街で、ただ独り、鮮やかな花を毅然と咲かせる姿は、どこか「カフェ・ミュラー」のピナ・バウシュに似ている…後になって、ふとそう思った。


(2006年4月)

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