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02/23/2006

【演劇】劇団桟敷童子『泥花』2006.2.11&2.19

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劇団桟敷童子『泥花』
2006年2月11日(土)19:00〜/2月19日(日)14:00〜 ザ・スズナリ


お気に入り劇団 桟敷童子の新作公演。前作『風来坊雷神屋敷』は、どしゃ降りとぬかるみの中、公園内のテント公演で、席は遙か後ろの方。役者の細かい表情はまったく見ることができず、雨音がうるさくて台詞さえよく聞き取れないという最悪の環境で、作品の出来以前のところで躓いてしまったが、今回はそんなことはない。決して豪華な小屋とは言えないスズナリが天国のように見えてくる。
関係ないが、先日届いたMODEの『唐版 俳優修業』@中野光座のチケットにはこんな注意書きが同封されていた。「暖房設備がございません。暖かい服装でお越しいただくことを、お勧めいたします」そちらはまだしも「お手洗いの設備が整っておりません。お済ませになってからお越し頂くことを、お勧めいたします」…こうなると芝居見物もアウトドアさながら、まるで山小屋にでも行く気分だ。観客はともかく役者たちにはまともな控え室やトイレが用意されているのだろうかと心配になってしまう。まあ桟敷童子の役者なら、そういう状況には慣れっこだろうが。


今回は東憲司(演出)の祖父や両親の話がモチーフとなっているらしい。そのためだろうか、前作が黒澤明の『用心棒』と『もののけ姫』と東映時代劇をミックスしたような大フィクションだったのに対し、今回はぐっとリアルで地味な話になっている。

舞台は1950年代、筑豊の炭鉱町。赤堀炭坑というところで落盤事故が起きて、責任を問われた炭鉱主は失踪。その娘二人と息子一人が素性を隠したまま、知人のいる鶴山炭鉱に身を寄せてくるところから話は始まる。強いて主人公を上げれば長女の千鶴(板垣桃子)だろうが、語り手となるのは末弟のハジメ(外山博美)であり、この子を主人公と見ても差し支えない。いずれにせよ突出した主人公はおらず、一種の群像ドラマになっている。

すでに述べたように、前2作に比べると作風はぐっと地味だ。明確な対立軸も無ければ、それを巡る闘争も無い。そのため桟敷童子ならではのドラマチックな展開を期待して見ると肩すかしを食うことになる。タイトルになっている「泥花」のモチーフが、『博多湾岸台風小僧』における「彼岸花」のような圧倒的力強さを持ち得ていないのも痛いところだ。

だがこれはこれで決して悪くない。桟敷童子にはもっとドラマチックで波瀾万丈な物語を期待してしまうのも正直なところだが、前作で話を大きくし過ぎて収拾しきれなかった感もあるので、このような地に足の付いた方向への揺り戻しは健全さの証だとも言える。

登場人物が社会の底辺に近いところで生きる労働者たちなのは相変わらずで、描かれる世界は一見リアルで汚らしい。だが東憲司という作家は、実は非常にロマンチックで、少年のような潔癖感に満ちた人のような気がする。『博多湾岸台風小僧』の時には新藤兼人や今村昌平の映画を想起したが、より本質的な部分でこの人の作風に近いのは黒澤明ではなかろうか。『風来坊雷神屋敷』の興櫓木流は明らかに「桟敷童子版 椿三十郎」だったが、この作品においても『赤ひげ』『どですかでん』『どん底』を思わせる要素をあちこちに見い出すことが出来る。桟敷童子の作品に流れる一貫した「熱さ」は、実はモノクロ時代の黒澤映画から継承されたものなのかもしれない。この点は次回作を見れば、もっとはっきりすることだろう。

この作品には明確な対立軸や闘争が無いと書いたが、それが功を奏している部分もある。主要人物の一人道郎(池下重大)は、一家心中未遂の後遺症で性的不能者となり、両親を赤堀炭鉱の事故で失っている。やがて彼は労働運動にのめり込み、最後は運動が盛んな炭鉱へと去っていくのだが、社会的搾取に対する彼の憎しみや闘争心は、物語を動かす主要なモチーフとはなっていない。最初見たときは、その点を物足りなく思ったし、彼がその後どうなったのか分からない点も収まりが悪く感じた。
だが2回見た時「それで良かったのだ」と考え直した。もし彼の階級闘争をもっと前面に出していたら、それこそ時代遅れの鼻持ちならない物語に堕していた可能性が大きい。しかしこの作品は、道郎の生き方に一定の共感を示しつつも、それに単純に同調する事なく、彼に希望を託すような真似もしていない。「その後の彼がどうなったのか分からない」と言うのも、考えてみれば馬鹿げた言いぐさだ。歴史を振り返ってみれば「どうにもならなかった(運動は挫折した)」に決まっているわけで、あえて描くまでもないだろう。道郎の闘いと挫折に対する過剰な思い入れを避けたことで、この作品は2006年の芝居として成立しているのだ。

『泥花』は「闘争のドラマ」ではなく「思いのドラマ」だ。それは最後のハジメの願いが、現実を大きく変えることではなく、「せめてみんなが、炭鉱のことを忘れないようにして欲しい」というものであることからも明らかだ。そのためいつものドラマチックさは無いが、派手な物語の陰に隠れがちだった優しさとロマンチシズムが全開になっている。ラストのハジメと敏チャンの姿は、さながら『銀河鉄道の夜』のジョバンニとカンパネルラだ。
そのラストだが「これだけ地味な物語にもかかわらず、やはり最後には大仕掛けを出さないと気が済まないのね…(^_^;)」というところは、やはり桟敷童子。あの外連味だけは劇団のアイデンティティとして譲れないのだろう。感動的なシーンだが、つい笑ってしまうところでもある。


もう一つ特筆しておきたいのは、千鶴がハジメを取り返しに行くシーンの演出だ。セットは作りつけのワンセット。だがこのシーンで千鶴は離れた場所にある松尾家まで歩いていかなくてはならない。それをどう表現するか? 
何と10人ほどの団員が塀を模した板を持ち、作りつけのセットを隠しながら、歩いていく千鶴の後ろで移動していくのだ。つまり人物ではなく、背景の方が人力によって次々と動くことで、空間移動を表現しているわけだ。考えてみれば、それほど突飛なアイディアではない。むしろ原始的なアイディアですらある。だがこんなものをスズナリのような小さな舞台で見たのは初めてだし、それが全て「人力」というのが何よりも可笑しくて、思わず喝采を上げたくなった。
実は初見の11日、芝居を見る前に、世田谷パブリックシアターの企画で松本修(MODE)のレクチャーを聞いていたことも、その楽しみを倍加する要因となった。メインテーマは「ワークショップによる作品創造」だったが、それに止まらず演劇創作に関する様々な話を聞くことができた。その中で松本氏が「このようなシーンを描くのに、例えば映画なら最初に○○して次に××してという風にカットを割ったりするでしょう。しかし舞台ではそれが出来ません。ではどうするかと言うと…」という具合で、しばしば映画を引き合いに出しながら、演劇表現の困難さについて語っていた。中でも舞台で表現しにくいのは「空間的な移動」だと言い、それをどういうアイディアで切り抜けたかを、『AMERIKA』のビデオを見せながら説明してくれた。
そんな話をつい数時間前に聞いていたことで、あの「人力で動く背景」が、まるで東憲司から松本修に対する一つの回答のように見えたのだ。この単純極まりない、しかし十分に効果的でユーモラスな空間移動の表現を見たら、松本氏は何と言うだろうか? そう言えば、空間移動ではないが『城』の後半にも似たようなシーンがあったな。


役者陣は毎度の事ながら素晴らしい。3本の作品を見て、この劇団は役者を一つの型にはめることを嫌い、意図的に毎回まったく違う役を演じさせているらしいことに気がついた。

千鶴役の板垣桃子。この人はいつ見てもまったく違う表情、まったく違うキャラクターで登場することに驚かされる。『風来坊雷神屋敷』で「しばらくの間阿呆丸=板垣桃子であることに気づかなかった」と書いたが、今回の千鶴役も事前にキャスト表を見ていなかったら、彼女だとわからなかっただろう。毎回毎回、よくあれだけ違うキャラを完璧に演じられるものだと思う。僕は未だに、この人の素顔がどんな顔をしているのかわからない。町ですれ違っても絶対に気づかないだろう。
この人の演技は、本当にふくよかだ。格別美人というわけでもないのに、見る者の目を惹きつけて放さないオーラを全身から発している。他の若い役者たちの演技が鉛筆書きのデッサンだとすると、この人は細部まで完全に描き込まれ着色された写実絵画のようだ。若い役者も他の小さな劇団と比べれば遙かにレヴェルは高いのだが、それでも板垣桃子の前に出ると、細部の肉付きで差が出てしまう。他の役者が「役柄」を表現しているのに対し、彼女は「人間」そのものを表現している、とでも言えばいいだろうか。今回は「アワワワ…」という吹き出しが横に出てきそうな狼狽の演技が、ユーモラスでとりわけ印象に残った。
最近どこかに客演した形跡はなく、桟敷童子の芝居だけに出ているようだが、これほどの女優を一つの劇団に閉じこめておくのはもったいない。5月の番外公演から11月の本公演まで半年の間がある。他の劇団はすぐにこの天才女優に客演を依頼すべし!

「町ですれ違っても気づかない」という点では、板垣以上なのが池下重大。この人も毎度毎度まったく違った顔を見せてくれるし、異なった役を完璧に演じこなしている。『博多湾岸台風小僧』で「熱演に見えない熱演」と評したが、それも彼の優れた持ち味だ。他の役者がやれば、どこまでも臭くなりそうな役を、ごく自然に演じてしまう。彼と板垣桃子が中心にいる限り、どんな芝居でも安心して見ていられる。やはりこの二人が桟敷童子の看板と言っていいだろう。

もりちえは『博多湾岸台風小僧』で初めて見たとき、あの丸っこい顔に加えて強烈な大山のぶ代声で、即座にドラえもんをイメージしたのだが(ああ…怒らないで(^^;)、今回聞いてみると以前とは違う可愛い声をしている(前作『風来坊雷神屋敷』は声が出ない役だった)。つまりあの大山のぶ代声は地声ではなく、大声ばかり出す芝居だったため、たまたま声が潰れていたということか。おかげでだいぶイメージが変わった。
彼女は他の誰よりも板垣桃子と絡むとき、非常に良い味を出すような気がする。演技の質やルックスはかなり違うのに、互いの個性がジグソーパズルの隣り合ったピースのようにピタッとはまる感じ。この二人がもっと深く絡みあう芝居を見てみたい。

男優では、川田諒一も達者で味わい深くて大好きだ。ただこの人、僕の中ではグリングの鈴木歩己とキャラがダブっているのだが、何故だろう? 単に体型が似ているせいか?

『博多湾岸台風小僧』では暴力の権化のような凶暴な男を演じていた桑原勝行、今回はまるで映画『花とアリス』の落研部長だ(笑)。本当に器用な役者ばかりで驚かされる。

今回初めて見る人も何人かいたので後でHPで調べてみたが、まだ役者紹介に入っていなかった。最近人気が高まって新人が増えたのだろうか。

そして今回の芝居はズバリ「外山博美」のためにある。この意見に異論を挟む人はあまりいないことだろう。
『博多湾岸台風小僧』でも裏の主役と言うべき大役を演じていた外山だが、今回は男の子役という奇策によって、飛び道具のような個性をフルに発揮。表の主役である板垣桃子を凌ぐ鮮烈なイメージを残している。『博多湾岸台風小僧』のラストは板垣の一人舞台だったが、今回は外山博美の一人舞台だ。吹きすさぶ大量の紙吹雪。口に紙片が入るのも構わず、客席に向かって大見得を切る外山。意味があるのか無いのか分からない、あの熱さ、わけの分からぬ感情の高ぶりこそ桟敷童子そのものだ。板垣、池下の二人が土台をしっかりと固め、その上を外山が自由に飛び回る構図は、とても美しい。難点は、外山が実は女であることを、すっかり忘れてしまうことくらいか(笑)。


座席は1回目2回目とも前から3列目のほぼ真ん中というペストポジション。ただしこの辺りだと、ラストで大量の紙吹雪を頭からかぶることになる(笑)。毎度毎度あれだけの紙吹雪を役者たちで掃除しているのだからたいへんだ。それでも『風来坊雷神屋敷』の時に比べれば天国のような環境だろうけど。


次回公演は5月に西新宿で番外公演と若手公演。本番公演はベニサンピットで11月。タイトルは『海猫街』。ベニサンはいろいろな意味で好きな劇場ではないのだが仕方あるまい。当然足を運ぶことになるだろう。次はまたドラマチックな内容に戻りそうで、期待が高まる。


しかし毎回入れ込んでレビューを書いているものの、彼らの芝居を見たのは、これでようやく3作目。公演記録を見ると一度も再演をやったことがないようだが、すでに旗揚げから6年、13回の本公演と2回の番外公演をやっているのだから、そろそろ過去作品の再演も考えてみてはどうだろう? とりわけ評判の良かった『可愛い千里眼』など、ぜひ見てみたいのだが…


(2006年2月)


【追記】2006.3
もりちえについて「彼女は他の誰よりも板垣桃子と絡むとき、非常に良い味を出すような気がする」「この二人がもっと深く絡みあう芝居を見てみたい」と書いた。まさかその意見を聞いたわけでもあるまいが、5月の番外公演「まかろに」は二人芝居で、もりと板垣のガチンコ勝負(?)が見られるらしい。楽しみがひとつ増えた。


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