【映画】『せかいのおわり』にはあなたといたい
風間志織監督の前作『火星のカノン』は、恋愛の本質をリアルに描いたという意味では、過去何千本と見てきた映画の中でも確実に五本の指に入る作品だった。低予算のインディペンデント映画ゆえ、照明や音声など技術面での貧弱さは隠しようもないが、そんな欠点を補って余りあるほど、恋愛という感情が引き起こす痛みや苦しみ、そしてささやかな喜びと慰めが描き込まれていた。それは他の夢物語のような恋愛映画を木っ端微塵に打ち砕くほどリアルで切実なものだった。
映画の主人公は明らかに久野真紀子であり、大抵の観客は彼女の視点から映画を見ることだろう。しかし2回見たとき、僕が感情移入し、映画を見る視点となっているのが、久野真紀子ではなく中村麻美の演じた聖であることに気がついた。あそこまで心に痛い映画が出来たのは、彼女の複雑なキャラクター設定があってこそだろう。
『せかいのおわり』は、その中村麻美を主役に据えた風間志織の新作である。相手役は、前作でも主要人物の一人だったKEE改め渋川清彦。二人を見守る盆栽屋のバイセクシャル店長が長塚圭史。前作の主役だった久野真紀子改めクノ真希子と小日向文世もチョイ役で顔を見せる。
結論から言えば、なかなかの佳作だが、前作には遠く及ばないといったところか。『火星のカノン』に匹敵する作品がそうそう作れるはずはないので、ある意味予想どおりの結果ではある。
前作に及ばない最大の理由は、脚本/ストーリーにある。前作は脚本が実によく練られていた。4人の男女関係がどう転んでいくか、とりわけ中村麻美のキャラクターに秘められた思いもかけぬ秘密が、物語をどんな結末へと導いていくのか…先の読めないストーリー展開が、本来地味な恋愛劇に適度な緊張感をもたらしていた。
それに比べると本作は、同じ及川章太郎の脚本ながら、日常スケッチ的な作風に終始しすぎたため、前作のようなドラマとしての面白みに欠ける。その緩やかでダルな時間感覚がリアルだとも言えるが、「映画」としていささか緩いものになっていることは否めない。特に長塚圭史の店長が、いろいろ思わせぶりな設定はあるものの、あくまでも後見人的な立場に徹し、ドラマの本質的な流れに関わってこないのはいかがなものか。
また前作以上に予算がなかったのか、フィルムではなくヴィデオ撮影になっているのも痛い。特に夜のシーンでは何とも汚らしい闇が多く、うんざりする。高級な機材を使用すれば、最近はヴィデオでもフィルムに劣らない画質が実現しているし、画質そのものは汚くても、それを逆手に取って優れた表現を生み出している例も珍しくない。しかしこの作品は、単に汚いだけで、それを表現手段として生かそうとする工夫が感じられない。
だが一方で、「映画そのもの」とも言うべき素晴らしい演出が随所に見られ、思わずハッとさせられる。
一例を挙げれば、中村麻美が短期間恋をして同居していた田辺誠一の下につみきみほが戻ってくるシーン。家を出た妻がいるという説明など、それまでまったくなかったにもかかわらず、二人が「ただいま」「おかえり」と言葉を交わした瞬間、もはやここが中村麻美のいる場所ではないことを観客は一瞬にして理解する。そして次のショットは、スーツケースを引っ張って歩く中村麻美…こういう映画ならではの簡潔な省略技法には、惚れ惚れとしてしまう。風間志織が紛れもない「映画作家」であることを感じさせる瞬間だ。
中村麻美は『富江』の頃からずっと注目している大好きな女優だ。余分な肉が一切無さそうなシャープなボディラインは、いつ見ても美しい。しかし本作の彼女には『火星のカノン』の時ほど強い共感は抱けなかった。これは主に脚本のせいだが、真に優れた役者は、脚本に書かれていない部分まで演技で補い、より深い人間像を造り出してしまうものだ。そこまでの力は、今の彼女にはなかったようだ。とは言え、まだまだ成長する可能性を秘めた女優であり、これからも注目していくつもりだ。
渋川清彦は実に達者な役者なのだが、どうしても生理的に好きになれない。あくまでも個人的趣味の話だから、許してくれ。
長塚圭史の存在感はさすがだが、声が父親に似過ぎているのが不気味だった。
脇役では、二枚目のくせに優柔不断な男を演じさせたら天下一品の田辺誠一が相変わらず見事。そして何と言っても高木ブー! 実にいい味を出している。
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前作『火星のカノン』が東京国際映画祭で上映されたのは2001年の10月31日。あの同時多発テロの衝撃が世界中を覆い尽くしていた時期だった。ティーチインで、風間志織は「世界で戦争が起きようとしているとき、こんな個人的な恋愛映画を作っていても良いものかと悩んでいる。でも自分にはこれしか作れないこともわかっているし…」と、創作者としての苦悩を語っていた。
『せかいのおわり』というタイトルを持つ本作は、その疑問に対する彼女なりの回答だろう。ストーリーは前作同様、極めて個人的な恋愛物語だが、前作と違う大きな特徴は、テレビやラジオを通じて、世界中の戦乱や殺人事件、異常気象などの悲劇的ニュースがひっきりなしに流れてくることだ。
そう、我々が生きる世界は残酷な悲劇と不条理に満たされている。ウジウジした恋愛に悩むことが出来る平和な社会も、しょせんは薄い皮膜によって守られているに過ぎない。その皮膜が破れれば、愛だの恋だの嫉妬だのはたちまち蹂躙され、多くの生命も奪われていくだろう。
それでも風間志織は言う。
「せかいのおわりにはあなたといたい」と。
我々のささやかな恋愛が世界の悲劇を押しとどめることなど出来はしない。
だがいつの日かそのような悲劇が訪れ、為す術もなく死んでいくのなら、その時はせめて愛する人と一緒にいたい。
そんな風に愛せる人を見つけたい。
風間志織は、世界の悲劇を見渡し、自分の心の声に耳を傾けた末、きっとこんな結論を出したのだろう。
「世界の終わりが間近に迫っていたとしても、自分に出来ることは、この危うい世界の中でウジウジと恋に悩み、孤独に苦しむ人々の姿を描くことだけ。たとえそれが儚く愚かな行為であったにせよ、今の自分にとっては一番リアルで切実なものだから、私は恋の映画を撮り続ける」
それだけの決意を固めた作家が、これからどんな恋の映画を撮っていくのか、最後まで見届けたいと思う。
*
でも、もう一つだけ言っていい?
ある意味本作で一番気になった点。
何度か出てくるあのラーメン…湯気もたってないし、麺はすっかり伸びきって、おそろしく不味そうに見えたのだけど…
中村麻美が麺を箸をいじっているばかりで、ほとんど食べようとしなかったのも、実際に不味かったからだよね?
「美味いラーメン」という設定なんだからさあ…もうちょっと撮影の段取りは要領よくこなそうよ…
(2005年10月初出)
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