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09/11/2005

【日記】ネット上の墓標

インターネットも今や日常生活の一風景としてごく当たり前のものとなり、現実空間と仮想空間などという分け方自体が、すでに時代遅れになった感すらある。

そうなればネットの世界にも現実社会の様々な出来事が侵入してくるのは当然だ。


「HPを開いていた人が亡くなったら、そのHPはどうなるのだろう?」という趣旨の文章を読んだのは、もうだいぶ前の事だ。
当然そういうこともあるだろう。口座に幾らかの金が残っていて月々の利用料が引き落とされる限り、HPやブログは生き続ける。無料の場合はなおさらだ。本人が死んだ後も、そのサイトは数年間生き続ける。事情を知らない人たちがコメントを残したり、BBSに書き込みを行ったりするかもしれない。


幸か不幸か、今までそれを実体験したことはなかった。
もちろん実際にはそういうサイトを訪れているのかもしれない。だがBBSがない場合、しばらくの間新規発言が無くても、その理由がわからない。仕事で忙しかったり飽きてしまったりで放置されているのかもしれないし、長期入院をしているのかもしれない。パソコンが壊れているのかもしれない。いずれにせよ、「主催者がすでに亡くなっている」とはっきりわかっているサイトを訪れた事は今までに無かった。


ところが最近、とうとうそのようなサイトを訪れる事になった。

ある劇団のサイトに、そのことが書かれていたからだ。

亡くなったKさんは、僕が近いうちに見に行く芝居に出るはずだった。

ところが8月の頭に、交通事故で突然この世を去ってしまったのだ。


僕自身はKさんを知らない。
個人的にはもちろん、女優として出ている芝居も見た事がない。
したがって彼女の死を悲しむなどという不遜な態度を取ることは出来ない。
それでも劇団や彼女自身のBBSに書き込まれた弔いの言葉を読んでいると、何とも切ない思いがこみ上げてくる。


特にKさん本人のHPを見ていくと、それまでに経験した事のない感情が湧き上がってくる。


例えば好きだった作家が亡くなった後、その人の本を読んでも、こういう感情は湧いてこない。俳優が亡くなった後、その人の出ている映画を見ても同様だ。
小説や映画は「作品」として完成した時点で一つの抽象と化しており、日常的な生々しさを奪われているからだ。そこに人間の最も本質的な部分が表現されているとしても、それはいわば「精神」に属するものであり、もっと日常的な血肉に属するようなものは、あまり含まれていない。

ところが個人の開いているHPやブログは違う。
サイトの性格にもよるが、日記やBBSなどで日常の細々としたことまで書かれている場合、会った事もない人の日常的な行動や考え方を生々しく感じとることができる。場合によっては、仕事などで顔を合わせているものの個人的な話はあまりしたことがない人よりも、その人をずっと身近に感じることができる。

Kさんのサイトは、まさにそのようなものだった。

日記やBBSをはじめ、あらゆるところに彼女の個人的な思いが書き込まれている。その上写真も満載だ。一人の若い女性の生活と人間像がリアルに浮かび上がってくる。

何よりもめげるのは、決して訪れる事のない未来について書かれていることだ。

将来の夢といった漠然としたことはまだいい。
数日後、数週間後に出る芝居や撮影会についての悲喜こもごもな感情を読んでいくと、その日が彼女に訪れることはなかったのだという事実に慄然とさせられる。

実際に身近な人を突然亡くしている場合は別だが、そうでなければ、一人の人間の日常が、ある日突然スパッと断ち切られた光景を、これほど生々しく感じられる場所は数少ないだろう。


そこで感じられるのは、単なる悲しみでも、痛ましさでも、切なさでも、恐怖でもない。

それらの全てを含み込んだ、何とも形容しがたい感情だ。

強いて言うなら「不条理」という言葉が一番近いかもしれない。


死因が病気や自殺の場合なら、このような感情は湧いてこないと思う。それらは本人も周りの人も、ある程度未来を予測出来る死だからだ。その意味においては、自殺ですら自然死に近いと言える。もちろん別の強い感情は湧いてくると思うが、それはここで言う不条理感とは別のものだ。

事故は違う。つい数日前まで、本人は自分が死ぬとは思っていないし、周りもそれを予想していない。いつか誰でも死ぬことはわかっているが、現実にそれを計画に入れて毎日の生活を送っている人間はいない。自分も周りの人間も、ある程度若くて健康であれば、明日も明後日も生きているものとみなして日常生活を送っている。

Kさんも当然そうだったはずだ。

しかし彼女は、ジンギスカン料理や初めて見た毛皮族の芝居の感想を、写真入りで喜々として説明したわずか数日後、この世から消えてしまう。

もちろんそれらの日記を書いている時、彼女は自分が数日後に死ぬとは夢にも考えていない。


小さい頃から葬式に出る事が多かったため、普通よりも死を身近に感じてきたつもりだ。
祖父母4人はすでに亡くなった。
父親も亡くなった。
おじさん、おばさんなども何人も見送った。
ネコや小鳥やミドリガメだっている。

ただし動物たちを除けば、皆自分よりも年上の人ばかりだ。
幸いな事に、自分と同年代や年下で、ある程度親しい人物を亡くした経験は、まだない。

もしKさんが僕より年上であれば、ここまで感情が突き動かされる事はなかっただろう。

彼女が自分よりもずっと若いこと、しかもある日突然暴力的に断ち切られた彼女の日常が、あまりにもリアルな形で今もネット上に残されている事が、僕を戸惑わせる。


若い人が事故で突然命を奪われた時、「(まだ若いのに)なぜ死んだんだ」と誰もが思う。馬鹿げた言いぐさだ。病気ならまだしも、事故で死ぬのに若さは関係ない。

そんなことは百も承知の上で、誰もがそう思わずにはいられない。

そして自分自身が、あるいは自分の愛する人が、明日突然命を失うかもしれないという現実に恐怖する。

今自分がここに生きていることの不安定さに吐き気を覚える。


Kさんのサイトは、まだしばらくは存在し続けるだろう。

彼女の死を悼む人の書き込みも、まだ続くに違いない。

だがそこに本人の書き込みが加わる事はない。

彼女の今後の夢や予定が更新される事も永遠にない。


これから先、そんなネット上の墓標を目にする機会が増えていくだろう。


この書き込みが僕の墓標になる可能性だってある。


そんなネット上の墓標に触れていく事で、僕と「死」との関係は、どんな風に変わっていくのだろうか。


(2005年9月)

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Comments

こちらの記事に同じ思いを抱き、コメントさせて頂きました。
私の父は、交通事故でこの世からバッサリと存在が消滅してしまいました。私も幼少時より葬式体験が多く、自分なりの死生観を持っていたつもりでしたが、突然の死はこたえました。その喪失感からメルマガを発行し、この4月からはブログも立ち上げました。他愛のない独り言、一方通行でも私にとってはこの場が必要不可欠となっています。父の死をようやっと受容の段階だと自覚できるこの頃。危うげな生を発信する自分と少数の受信者の関係も見つめ続けたいと思います。

Posted by: ふるじん | 11/06/2005 23:51

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