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09/24/2005

【演劇】innerchild『遙〈ニライ〉』2005.9.16 & 9.23

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innerchild『遙〈ニライ〉』吉祥寺シアター


2005年9月16日(金)


初めて吉祥寺シアターを訪れた。三越の脇を過ぎた辺りから、風俗店やラヴホテルなどが林立する怪しげな通りとなり、「本当にこの道でいいのか?」と大いに不安になるが、そこを抜けると突然場違いに小綺麗なシアターが現れる。単に新しいというだけでなく、内装が驚くほど美しい。しかも客席数(約200席)に対してロビーなどがやたらに広い。中に入って、ステージの大きさ、とりわけ天井の高さにさらにビックリ。座席数はシアタートラムより少ないくらいなのに、ステージは世田谷パブリックシアターと同じくらいでかい。これだけ天井が高いと、普段スズナリあたりでやっている劇団は、空間が間延びしないよう苦労するのではないかと心配してしまうほどだ。トイレなどもすべてピカピカ。この設備の豪華さは、下北沢などの劇場とは一線を画するものだ。あまりに綺麗すぎて落ち着かない気もするが、とりあえず気に入った。


innerchildの芝居は初見。過去の作品歴を見ると、神話・伝説・民俗学などを題材にした壮大な物語を延々と作っているらしい。その手の話は、子どもの頃から諸星大二郎の漫画に親しんできたので大好きだ。
しかしこの芝居に対する期待はさほど高いものではなかった。神話や伝説を題材にした物語を、小説や漫画という形で読むのはいい。専門的な知識が脚本上でうまく処理されていれば、映画やテレビでも何とか楽しめる。だがその手の話を演劇という形で描くのは、かなり難しいだろうと思ったからだ。

残念ながらその予想は的中する事になった。

舞台は琉球諸島に属する島の一つ。時代は太平洋戦争末期。男たちは次々と戦地に旅立っていき、幾組かの男女の愛と別れが描かれていく。だが残された女たちも、やがて米軍の上陸で命の危険にさらされていく。そして死んだ(?)人々は、もう一つの世界へ行くのだが、そこがなぜかアイヌの国。だがこの国は完全なあの世ではなく、あの世とこの世をつなぐ中間地点のような場所らしい。この世界で生け贄(?)として殺されると元の世界に戻ることができ、逆に元の世界の名前を思い出すと、完全にあの世に行ってしまう。その中で様々な葛藤が描かれていくのだが…はっきり言って、設定があまりにも複雑すぎ。その上登場人物も無駄に多すぎる。何でもかんでも詰め込めばいいってものじゃないぞ。

そのような点について具体的な文句を述べ始めたら切りがない。特に前半は、これがどんな物語なのか、誰が主役なのか、一体どこに視点を定めればいいのかが全然わからず、まったく物語に入っていく事が出来なかった。始まって30分以上たった頃にオープニングタイトルや出演者などのクレジットが出てきたのには、思わず溜息が出た。おいおい、まだ本編に入ってなかったのかい…

設定やストーリーの複雑さ、登場人物の無駄な多さに加えて、もう一つこの作品の致命的な欠点を上げよう。それは非常に安易な形で映画的なストーリーテリングを使ってしまったことだ。

冒頭は現代。舞台となる島を訪れた本土の青年が、民宿の老人から60年前の話を聞くところから物語が始まる。映画ではよくある構成だ。だがこの作品では、それがうまく機能しておらず、一体どんな話なのか、誰が主人公なのかを混乱させるだけの結果に終わっている。
そのような構成が映画でうまくいくのは、語り部となる老人たちが、60年前の場面では別の役者が演じる若者として登場したり、画面の色味や質感を変えるなど、現代と過去の違いがはっきりと描き分けられるからだ。ところがこの舞台では、語り部役を同じ俳優が演じ、芝居だけで現代と過去の違いを表現しようとするためメリハリがつかない。現代の登場人物と過去の登場人物が同時に登場したりするシーンもあるから尚更だ。この手の回想形式は、映画向きではあっても演劇向きではなく、やるならそれなりの工夫というものが必要だろう。

さらに悪いのは後半だ。琉球の地とアイヌの地、主要舞台が二つになると、その二つが映画で言うカットバックの手法によって描かれていく。これなど映画と演劇の表現方法の違いを理解していないとしか思えない。映画ならカット一つで場面転換が出来る。いきなり人物→人物でつながることは少ないが、説明的なワンショットを間に加えても、数秒しかかからない。ところが演劇でこれをやると、暗転また暗転の連続で、場面転換にいちいち数十秒の時間がかかる。その間に観客の緊張感は失われ、登場人物に対する感情移入も途切れてしまう。結果、テンポが悪くなり、盛り上がるべきところが盛り上がらず、作り物臭さばかりが目立ってしまう。これなどもっとセットや照明の設計に工夫を凝らして、いちいち暗転しなくても済む演劇らしい場面転換の方法があったはずだ。それが無理な注文でないことは、最近見た劇団桟敷童子やTHE SHAMPOO HATの芝居が証明している。


万事がそのような具合で、お世辞にもよく出来た作品とは言い難い。

では見て損をしたかというと、そんなことはない。

確かに出来の悪い作品であり、批評的に見たらいくらでも貶せるのだが、僕はこの作品が「好き」で仕方ない。

それはこの作品が描こうとしたテーマに強く心惹かれるからだ。

この作品、外見こそ最初に述べたような諸星大二郎的神話世界だが、その本質はむしろ大林宣彦の映画に通じる叙情的な世界ではないのか。ややこしい設定や余計な登場人物をそぎ落としていくと、結局この作品はハル(石村実伽)とクシラ(古澤龍児)とイクマ(小手伸也)の三角関係を中心にしたドラマ、とりわけハルという女の愛の物語だったということがわかってくる。
だからこそ、ハルとクシラが再会し、言葉を交わし、しかし手を触れあうことなく別れてゆくラストには、強く胸を締めつけられる。もしそこへ至るまでのストーリーテリングがもう少ししっかりしていれば、あそこで号泣したかもしれない。

それだけに可愛さ余って憎さ百倍、なぜ最初からその中心的なテーマに焦点を絞らなかったのかと、よけい頭に来るわけだ。


おそらく作・演出の小手伸也は、「ものを捨てられない人間」の典型なのだと思う。
何かを減らす事でテーマを浮き彫りにするという術を持たず、常に何かを足していくことでテーマを描こうとする。
もちろんそれが成功している部分もあるのだが、この作品については失敗している部分の方が遙かに多い。
それは登場人物の無意味な多さに顕著に表れている。この劇団の内情は何も知らないが、数多くいる劇団員を少しでも多く、あるいは全員を出演させるために役を増やしているのであれば言語道断だ。それはプロの作家が取るべき姿勢ではない。

そんなわけで、何とも愛おしく、それ故に歯がゆさが募ってくるという、実に困った作品なのだ。


この芝居を見た最大の目的である石村実伽について書こう。考えてみれば、舞台に立つ彼女を見るのは『ジェントル・マミー』以来、実に6か月半ぶり。いやが上にも期待は高まる。

結果的には、前半「?」の連続、後半は彼女の新しい魅力を十分に堪能したということになる。

ただし前半の「?」は、石村本人の問題というより、再三述べたとおり誰が主人公なのかもわからない、混乱した脚本と演出の問題だ。もっと明らかな主役として描かれるべき石村が、ちっとも前に出てこない。三線を弾きながら、あの美しい歌声を聞かせてくれたし、踊りも見る事が出来たが、それだけのことをやっても彼女があまり目立たないというのは、逆に凄い話だ。

しかし中盤からは、彼女の素晴らしい魅力が光り輝き始め、広い舞台を覆い尽くしていく。これまで彼女の演技を「女」路線と「男の子」路線という分類で語ってきたが、この作品の彼女は、その二分法では語れない新しい魅力を見せていた。一番近い演技は『城』のフリーダ役だが、もっと妖精のようにファンタスティックな印象だ。映画『ナビィの恋』におけるナビィばあちゃんと奈々子のキャラクターを、一人で体現しているかのようでもある。
クライマックスとなる「増えたムックリ」の場面では、彼女の感情表現が全てを圧倒していた。混乱した物語が、ようやく彼女とムックリに集約された感動的な瞬間だ。胸に迫るラストについてはすでに述べたとおりだ。

前半はともかく後半の彼女は、6か月半の空白を埋めるに足る素晴らしさだった。

あらためて石村実伽という女優と出会えた幸福を噛みしめずにはいられない。

しかし毎回絶賛ばかりというのも何なので、今回一つだけ気になった点を指摘しておこう。それは彼女のヘアスタイルだ。

どういうことかと言うと、他の女優たちは皆黒髪でほぼストレートヘア。太平洋戦争時の琉球やアイヌの女として違和感なく見られる。ところが彼女の髪だけ強めのウェーブがかかっていて、しかも軽くブラウンに染められているのだ。『城』の時とほぼ同じヘアスタイルだが、『城』はヨーロッパが舞台だから問題ない。ところがこの作品においては、そのヘアスタイルが琉球の女として明らかな違和感を感じさせる。
『城』の時、他の女優陣がお面を思わせるような細い眉のメイクをする中、彼女だけがはっきりとした眉を持っていた。この違いは、フリーダというキャラクターの特殊性を強調する役割を果たしていたわけだが、今回はそのような演出意図で、あのヘアスタイルをさせたわけではないだろう。万が一そうだったとしたら、キャラを立てる手段を間違えている。

確かに後半は、彼女の圧倒的な演技力によって、そんな違和感はどこかに吹き飛んでしまう。しかし最初から黒髪のストレートヘアであれば、さらに良かった事は間違いない。
一作品ごとにロバート・デ・ニーロのような肉体改造をしろとは言わない。だが一週間以上の公演で、しかも主役を演じるのであれば、役作りのために髪の毛を本来の姿(黒髪のストレート)に戻すくらいの事はしてもバチは当たらないのではないか…そう思わずにはいられなかった。


最後に、彼女の他に気になった役者も上げておこう。

主催者である小手伸也は、演技がうまいわけではないのだが、妙に脂ぎったルックスとアクの強さで、やたらと印象に残る。しかもこの人が女優にキスをしたり抱きついたりするシーンが妙に多い(笑)。「おい、それわざとそういう脚本にしてないか?」と思わず突っ込みを入れたくなるのだが、そんな部分まで含めて、とにかく印象に残った。

女優では、その小手伸也の姉を演じた中谷千絵という人が最も良かった。ただし彼女はある意味損をしていたと思う。彼女の演技の質、佇まい、声、台詞回しなどが、石村実伽と妙にかぶっているからだ。そうなると、どうしても石村の方がパワフルだという話になってしまう。このキャスティングのアンサンブルには、いささか首を傾げるものがある。


以上は初日の感想だが、楽日にまた見に行くので、作品と役者がさらなる成長を遂げていることに期待しよう。


                          *


2005年9月23日(金)


と言うわけで再見。

驚いた。

ひどく混乱しているように見えた作品だが、2回見るとほぼ完全にストーリーを理解できるのだ(逆に言えば2回見ないとわからないということだが)。

だからと言って、実は極めてよく出来た作品だった…ということにはならない。ストーリーを理解したからこそ断言出来るのだが、やはりこの物語には余計な要素が多すぎるし、登場人物も無駄に多すぎる。
例えば現代と過去の中途半端な行き来は、話の本筋を見えにくくさせているだけだ。琉球とアイヌの言葉の共通点に関する説明も同様。しかも台詞にもあるように「なぜアイヌだったのか?」という素朴な疑問は最後まで解決されないままだ。明治政府によるアイヌ弾圧のエピソードまで入れるなど言語道断。大学のレポートじゃないんだから、勉強した事を一から十まで盛り込む必要はないだろう。少しは「削る」という事を覚えてくれ。
さらに言えば「戦争」という要素すらいらないと思う。「この世」と「あの世(ニライ・カナイ?)」、そして「その中間にある世界(ここではアイヌの世界)」をめぐる物語だけで、このテーマは十分に語りきれる。「戦争」という絵の具は色が強すぎて、背景として使ったつもりでも、他の微妙なグラデーションがすべて消し飛んでしまう。この作品に、そんな強烈な絵の具は不要だ。戦争が無くても人は死ぬ。その普遍的な物語を描けばいいだけだ。
演出については前に述べた通り、悪い意味で映画的すぎる。スクリーンを使って言葉の説明をしたりするのも、小説や漫画ならいいが、演劇に向いた手法ではない。

この手の不満は数え上げれば切りがない。本当に贅肉だらけの作品である。

だがそのような贅肉を削ぎ落とした後に残る「生と死」にまつわるテーマ、そして何よりも「愛」のドラマには、胸を打たれずにいられない。


毎回お定まりの石村実伽賛歌になってしまうのは、自分としても本意ではないのだが、観念的なテーマを血肉化し、演劇的な表現に翻訳している最大の功労者は、やはり彼女なのだから仕方ない。

この作品における石村実伽の役は「思い」の権化、そして「死に抗うもの」の象徴である。島を去っていこうとするクシラを止めようとするシーン、そのクシラからもらったムックリを失った時の絶叫…すべてが見る者の胸をかきむしる。愛する男をこの世に引き戻すため霊能力を使うものの、失敗して打ちのめされた時の感情表現も抜群だ。

そしてクシラからの贈り物「増えたムックリ」を手にした時、彼女はついに愛する者の死を受け入れる。「愛する者が死から逃れられないのであれば、その人を自分の下にとどめておくことは諦めよう。だが二度と会うことがなくても、あなたの私への思い、そして私のあなたへの思いは、これからも私の心の中で生き続ける」そんな心の声が彼女の奏でるムックリから聞こえてくる。

6本のムックリを持った石村が後ろを向き、腰を曲げて、老婆のように後方に消えていくだけで、その後の60年という歳月の重みが表現されてしまう。あの芝居は、彼女のベスト演技の一つに数えられるだろう。


再三述べているように、この作品が描こうとしているテーマは、とても真摯で胸を打たれるものだ。しかし贅肉だらけの脚本と、演劇の特性に合わないことばかりやっている演出によって、本来の価値が見えにくくなっている。

その邪魔な壁を突き破り、作品の魂と観客を強引に結びつけているのが、石村実伽の演技なのだ。

あの愛らしい肉体のどこに、こんな巨大な感情表現を可能にする力が秘められているのか不思議でならない。

こういうものを天性の才能と呼ぶのだろうか。


【追記】

2回見たが、終演から数日たった今になって、もう1回見るべきだったと後悔している。確かに不満は多い。書きやすいという事もあって、つい批判的な記述が多くなってしまうのだが、やはりこの作品には掛け替えのない魅力がある。それは1回目よりも2回目の観賞において遙かに心に響くものだった。もし途中でもう1回見ていれば、楽日には涙を流していたかもしれない。「増えたムックリ」を見た時の石村実伽の表情、そしてあのラスト…それだけでも長く心に刻まれる芝居となることだろう。


(2005年9月初出)

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Comments

はじめまして。トラックバックをいただいていたようですが、スパム防止のため条件に合致しないと自動的にはねるようになっています。失礼してしまい申し訳ありませんでした。
『遙』の感想拝見しました。ぼくのなかでは大絶賛だったのですが、ほかの人からも、セリフが生きていないとかテレビ的という批評をきいて、なるほどと思いました。ぼのぼのさんのおっしゃるように「詰め込みすぎ」というのもあたっているかもしれませんね。
結局、ぼくの場合、結果として感動できてしまったということなんですね。感動できるかできないかは、芝居の出来だけでなく、観る側のもっている文脈やその日の体調にも左右されるような気がします。
石村実伽はぼくも魅力的な女優だと思います。また、ホワイトバンドについても読ませていただきましたが、共感しました。
では、また何かあればお願いします(トラックバックは自動ではねちゃうかもしれませんが……m(_ _)m)。

Posted by: sugi | 09/26/2005 at 01:47

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