【演劇】クレネリ♥ゼロファクトリー『なみだくじ』2005.9.5
クレネリ♥ゼロファクトリー『なみだくじ』
2005年9月5日(月) 19:30〜 ザ・スズナリ
前作『乙女の国』を見て、一発でファンになってしまったクレネリ♥ゼロファクトリー。女優の本多真弓が主催するプロデュースユニットで、さほど大きな話題になっていない割には、順調に公演を続けているようだ。
前作があれだけ良かったので、今回も当然見に行くつもりではあったが、一抹の不安もあった。この劇団の過去6作は全て「作 大岩真理/演出 若月理代」のコンビで作られていたのに、今回は演出が東京タンバリンの高井浩子という人に代わっていたからだ。
だが演出家の交替は、良くも悪くも大した影響を及ぼさなかったようだ。前作が音楽や効果音を多用していたのに対し、今回はほとんど音楽らしい音楽が使われていないなど、幾つかの違いは見られたが、全体的には驚くほど前作によく似た作品に仕上がっている。これがクレネリの作風なのだろうが、あまりによく似た設定に「二番煎じ」という言葉が頭をよぎったのも否めない。
舞台は、自殺の名所である森のすぐ側に立つ民宿(廃業したばかり)。そこの住人であるわけありげな兄妹(有馬自由/清水直子)と、妹の元彼(瓜生和成)、官能小説家でもある妹を慕ってきた謎の女(本多真弓)、自殺し損ねた女の子(小林愛)の5人が、過去のトラウマをぶつけ合い、犯した罪を告白し、愛憎の入り交じった葛藤を繰り広げていく。そう書いただけで『乙女の国』を見た人なら、「確かにそっくりだ」と納得してくれるだろう。事実そっくりなのだ。
となると、どうしても『乙女の国』と比較してどうかという話にならざるをえないのだが、結論から言えば『乙女の国』に軍配が上がる。主な理由は以下の2つだ。
1つ目は、ある種の少女漫画に通じるクレネリ独特の痛い世界観は、ほぼ女しか出てこない前作の方が、よく描けていたから。今回は舞台設定や、5人のうち2人が男であることなどから、現実的な雰囲気が強く、冷静に考えればかなり突飛なストーリーが素直に入ってこなかった。ストーリー自体も、前作の方がより濃密で強い説得力を持っていたと思う。
2つ目は、前作の俳優陣の方が魅力的だった。特に大きいのは、5人の中心に位置する主演女優の違い。今回の清水直子は演技に抑制が効きすぎていて、前作の高橋理恵子のように、立っているだけで人を惹きつける魅力に欠けていた。男性陣に関しては、個別の演技は良いのだが、あの妙に生々しい男の匂いが入ってくると、デリケートな世界観に微妙な違和感をもたらしているように感じられる。ただしこれは『乙女の国』で初めてクレネリを見た人間の特殊な感想かもしれない。
その中で特筆に値するのが小林愛。明らかに一人だけ演技の質が違っていて、彼女が小柄でコロコロした肉体を動かして台詞を喋ると、沈鬱なドラマに心地よい風が吹き抜けていく。今までまったく知らなかったが、TEAM発砲・B・ZINという劇団の看板女優らしい。注目の女優がまた一人増えた。
総じて、前作に似すぎていたために肩すかしを食らった感は否めない。それがクレネリというユニットの普遍的なテーマだと言うなら、毎回語り口に工夫を凝らし、常に前作を凌ぐような新作を作り続けていくしかないだろう。言うまでもなく、それは毎回違ったテーマを描くよりもたいへんなことであり、今回はそのハードルをクリアするのに少し失敗したようだ。
かなり辛口な評価になってしまったが、これは前作『乙女の国』に対する愛情の裏返しでもある。あれだけの作品を作れたのだから、もっと優れたものを望んでも罰は当たるまい。二歩進んだ後に一歩下がったとしても、以前よりまだ一歩進んでいる事に変わりはない。来年の4月に駅前劇場で上演される新作も当然見に行くつもりだ。そこで本作よりも二歩進んだ姿を見せて欲しい。
しかし最後に一つ、どうしても気になる問題を書いておこう。前作でも気になったのだが、本作でそれがさらに拡大したように感じられたからだ。
それは主催者である本多真弓さんだ。
前作でも本作でも、彼女の演じる役は、どこかストーリーから浮いてはいないだろうか? いてもいなくてもあまり物語の本質には関係ない役であり、特に今回はあの役がいることで逆に劇の純度が薄められてはいないか?
もちろんストーリーの進行には一役買っている。だがそれはあくまでもストーリーを先に進めるための道具に過ぎず、他のキャラクターに比べて悩める人間としてのリアリティが欠けているように感じられて仕方がない。
これは脚本の問題もさることながら、本多さんの演技の問題でもある。研ぎ澄まされたような演技力を持つ他の役者たちに囲まれると、彼女の演技は明らかにワンランク落ちる。整った顔立ちとスレンダーなスタイルを持つ美女なのだが、それが陰影の乏しさにつながり、感情の表現力を弱めている点も痛い。
台詞を喋っている間はまだいい。一番の問題は、台詞がなく、他の役者が前面で演技をしている時だ。優れた役者は、そのような時でも常に物語の一部となり、別の役者が話している台詞に何らかの反応を示している。その微かな演技が舞台上の空気をより濃密なものにする。音楽で言えば、ギターが前面に出てソロを取っている時でも、バックで地味にコードを押さえるだけのキーボードがいるかいないかで音の雰囲気が変わってくるようなものだ。
ところが本多さんは、台詞が無くて後ろや横に引っ込んでいる時、何を考え、何を感じているのかがまるで伝わってこない。「椎名実里」ではなく「本多真弓」に戻ってしまっているような印象さえ受ける。主催者として、他の役者の演技や観客の反応、舞台の流れを客観的に見ているのだろうか? 役者として舞台に立ったら、終始その役に成りきって、ものを考えたり感じたりしてもらわなくては困るのだが。そのような集中力の欠如が、彼女の役を物語の中でいっそう浮いたものにしている気がしてならない。
(2005年9月初出)


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