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06/02/2005

【映画】『赤ひげ』東京国際映画祭における事故の顛末+作品評

【注】(2005年5月)
この文章が書かれた状況は、いささか説明を要する。発端は1998年の東京国際映画祭。黒澤明の追悼特集で上映された『赤ひげ』が、途中でロールの一部が間違った順序で上映されるという事故が起きたのだ。少し長いが、本文との兼ね合いも考えると要約が困難なため、当時書いた文章をそのまま以下に再録する。読み返したところ、あらためてこの日の某ドラ息子の言動に腹が立ったため、晒し上げの意味も込めている。

              *

久しぶりに見たが、初見のときとよく似た感想を抱いた。この映画、すごく良いところと明らかな欠点の両方を持っている。だがその両方の面で、黒澤明という作家の特質が実によく現れた作品だと思う。


と言うことで、ここから作品の分析に移りたいのだが…残念ながら、今回は作品そのものに対する感想は書かないことにする。その理由は以下の文章を読めばわかるだろう。


さて、この日起こったことを以下にレポートしよう。これがアップされる頃には、もうどこかで報じられているとは思うが…


この映画は途中に休憩が入るのだが、その前までは問題なかった。問題はその後だ。


なにせこちらも5〜6年ほど前に一度WOWOWで見ただけだ。細かいストーリー展開など忘れている。だがそれにしてもちょっとおかしいとは思ったのだ。「あれ? おとよってこんなに簡単に心を開くんだっけ? 何だか安易な展開だなあ…」「保本ももっとおとよとの深い関わりを通して医者の道に目覚めるんじゃなかったっけ? 違ったかなあ? あれは何か別の映画だっけ?」… しかし具体的なシーンを思い出せなかったため、この辺までは僕の思い違いかと思っていた。あるいは何らかの理由で「ごく一部が抜けている」程度かと…
ところが…何の前振りもなく長次が出てきて、一家心中をほのめかすシーンでは、さすがに当惑した。「え? 長次って前に出てきたっけ?(^^;) オレ知らぬ間に居眠りしてたのかな? それともここって回想形式になってるんだっけ?(爆)」などと…
その頃だったかな、僕の後ろの席の男性が怒ったように席を立ち、やがてロビーの方から怒鳴るような声が聞こえてきたのは。それから間もなく上映が中断。すぐに客電が付いたので、これはただ事ではないと思いきや、やはり…

最初に壇上に立ったのは劇場の支配人だったかな、東宝の人だったかな。忘れてしまったけど、とにかくそこで客席に伝えられたのは「ロールの順番が入れ替わっている」(核爆)という事実だった。すでに何回も見ている熱心なファン(僕と違ってストーリーをきちんと覚えている人)の抗議で、上映が中断されたわけだ。

そこからがすごかった。「これをもう一度繋ぎ直そうとすると、たいへんな時間がかかって…」と言うばかりで、きちんとした結論を出さない関係者に向けて、多くの観客が怒声を浴びせる。「帰れなくなる人もいるから、とにかく今日はこのまま上映してくれ。そしてちゃんとしたものを見る機会をまた別に作ってくれ」という人間がいる一方で、「最初からやり直せ!」という人間もいる(笑)。何らかの処置は必要なのだが、それをすぐに明言できない関係者が口を濁しているせいで、客がよけい怒る。

そして黒澤久雄(字は合ってるか?)が壇上に上ったのだが、実は僕が一番ひどいと思ったのはこの人だった。何しろ開口一番「今日は日本映画界の一番恥ずかしい部分を見ることになりました。日本の映画界なんていうのは、こんなものなんです」といきなり矛先を「日本の映画界」という漠然としたものに向けてしまったのだ。
それを聞いた客の何人かが拍手する。バカか? お前たちは? 「今の拍手はどういう意味だ?」と思わず怒鳴りたくなった。いや、そうしなかったことを、後で後悔した。
「このことを東宝と映画祭事務局に厳重に抗議し、原因を究明するつもりです」という台詞は当然のことだが、いきなり最初に「日本の映画界なんてのはこんなものです」はないだろう。
もちろん背景にそういう事情があるのはよくわかる。例えば映画館で(この映画祭でも)画面とスクリーン・サイズが合ってなくて上下が切れているようなことはよくあるし、そういう上映環境/条件に対する無頓着さが、日本の映画界の悪癖であることは確かだ。
しかしねえ…今はそういうことを言ってる場合じゃないでしょう? 交通事故が目の前で起こったとき、いきなり「これが日本の交通事情です。政府が我々から税金を取ってやっていることは、この程度の行政なのです」と言うようなものじゃないか。今ここで起こっていることの責任は、「日本映画界」なんて漠然としたものじゃなくて、そのフィルムをつないだ誰かと、それをチェックもしなかった映画祭関係者にあるはずだ。それをいきなり「日本映画界の…」と言うことは、婉曲的には正論であっても、結果的にはこの事件の責任の所在をあいまいにするだけじゃないか。事件は「日本映画界」なんてところで起きてるんじゃない、今「この劇場」で起きてるんですよ、黒澤君。
客の1人が「日本映画全部を悪く言っちゃいかんよ」と抗議の声を上げていたが、そりゃ当然のことだ。頼むから問題を拡散し、責任の所在を曖昧にするような発言だけはやめてくれ!

結果的には、もうフィルムを繋ぎ直している時間はないので、そのままのつなぎで上映されることになった。しかしこれが…すごい…すごすぎる(^^;)
上映がストップするところまでは、時間が前後することはなく、中抜けのダイジェスト版になっていたのだが、再び上映が始まってからは、時間が行きつ戻りつすることになって、いやはやそのストーリー展開のシュールなことと言ったら、もう…(^^;)×(^^;) 『市民ケーン』も『レザボア・ドッグス』も遙かに凌ぐ見事な時間解体術(笑)。関係者の説明では、まるで大きなロールがまるごと入れ替わってしまったかのようだが、絶対そんなことはないぞ。あの前後の仕方は相当手が込んでいる(笑)。誰かがわざと編集し直したかのようだ。
そんな具合なので、見ていて何とも滑稽で…もっとも涙を誘うあの井戸のシーンに至っては、ひきつった笑いが起こりそうだった。メチャクチャなストーリーの上に乗った感動的シーンというものが、かくも笑いを誘うものだったとは(笑)。ひっひっひっひっひっひっ…
【注】(2005年5月)実際には、ロールが13→12→11の順番で進んでいたらしい

しかし…こんな『赤ひげ』ってもう二度と見られないだろうなあ(笑)。
ある意味、非常に貴重な体験ではあった(^-^)。

上映が終わった後、原因の報告とこの事件に対する何らかの措置を観客に対して取るということで、客の名前と住所を全員に書かせていた。名刺があればそれでもいいというので、わたしゃ名刺を置いてきたが。


…という顛末です。しかし僕はまがりなりにも前に一度見ているから、「貴重な体験であった(^-^)」などと余裕をかましていられるが、この日初めて『赤ひげ』を見たという人には、大きな同情を禁じ得ない。

また怖ろしいことに、この作品が上映されているのとほぼ同じ時間に、別の会場でアボルファズル・ジャリリ監督の『DON−ダン』でも、ロールが入れ替わるという事件が起きていたそうだ! 僕はチケットさえあれば、『赤ひげ』をやめてでも、『DON−ダン』の方を見ようかと思っていたのだが、結果的には『赤ひげ』で正解だった。初見でいきなりそんな代物を見せられてはたまったものではない。ジャリリ監督の怒りも当然のことだ。いくら何でもひどすぎる…
【注】(2005年5月)こちらのミスはイラン側の責任だったらしい


作品のセレクションだとか、様々な手際が悪いとかいうのは、まだ大目に見ることが出来る。しかしこういう事件は、冗談ぬきに国辱もの、世界に対する恥さらし以外の何ものでもない。こういう事件だけは二度と起こさないでくれ!>映画祭事務局


しかし同時に同じような事件が起きたというのは、ある意味で幸いだったかもしれん。一件だけならともかく、同時に二件もこんなことが起きては、さすがに事務局も真剣な対応をせざるをえないだろう。きっとチェック体制の厳重な改善がなされるはずだ。え? もしなされなかったら? その時はこの発言を読んで何らかの怒りを覚えた人間が、一斉に声を上げるべきだろう。


そんなわけで、映画そのものとは無関係なレベルで、本日は今年の映画祭で最も印象深い日となりました。


              *


【注】2005年5月
…とまあ、そんな事件があったのだ。以下はその後追加上映(お詫び上映)がなされた時の状況と、作品そのものの感想。


              *

あの日ユニークな編集がなされた(笑)『赤ひげ』を見て、最後に住所を書いていった観客には、後に追加上映の手紙が届けられた。追加上映は11月18日と26日の夜から。僕は18日の方に行って来ました。劇場は前回と同じ渋東シネタワー3。ロードショー中『アンツ』を休映しての上映だ。

まず案内状の入った封筒と引き替えに封書を渡された。中に入っていたのは、チケット代の払い戻しとして現金1200円、そして渋東シネタワー2の招待券が2枚、シネタワー3の招待券が2枚だった(共に12月のみ有効)。
僕は前売りだったからチケット代に払ったのは1000円だったが、全員に一律1200円で払い戻したのだろう。誠意が感じられる。難点を言えば、簡単なお詫び状のようなものが入っていれば、さらに良かった(手紙無しで現金が入ってると、ちょっと殺伐とした感じがするでしょ?)、
そして「何で渋東シネタワー全部、もしくは東宝系全部の招待券じゃないんだ?」(正直ちょっと使い勝手が悪い)ということだが、まああまり細かいことは言うまい(もう言ってるって(^^;)。

上映された『赤ひげ』はもちろんちゃんとロールがつながっていて(笑)、しかもニュープリントだった。力が入っている。ただ2つほど小さな問題があった。

まず一つは上映前のトークはもういいよ、ということ。それなりに面白いことは面白いのですが、ゲストも前回と同じだし、30分はちょっと長すぎる。短い映画ならともかく、『赤ひげ』は185分もあるので、「もういいから早く映画を見せてくれよ」という気分になった。僕は渋谷駅から家まで、夜でも30分以内で帰れるが、遠くから来ている人は、もっとそう思ったことだろう。内容もいささか内輪受けが多かったし…

もう一つは、妙に「関係者」の数が多かったこと。上映前のロビーでも思いっきり幅を利かせていて、僕がチラシを見ようとしたら、チラシを見ていた関係者に対していきなり別の関係者が、「ほらほら、それはお金払った人しか持ってっちゃダメだよ」とか話しかけて、僕の前を遮るような形で話し始めたので、やりにくくなってチラシのところに行けなかった。さらに僕の隣の方の席に、関係者(と言うかその連れ?)の若い連中がたくさん座っていたのだが、そこへ関係者のおっさんが来て、僕の頭越しに「必ず拍手しなくちゃダメだよ」とかでかい声で突然言ったので、ちょっとビックリした。大体「拍手しなくちゃダメだよ」って、でかい声で最初からサクラを強要してどうするんだよ。少なくとも映画祭のような場では、いい映画なら、ほっといたってみんな拍手するってば…

またその関係者たちが妙に浮かれてるんだよなあ…どういう「関係者」なのかわからないけど、今回の主目的は、前回迷惑をかけた観客に対するお詫び上映なんだから、もう少し静粛にしてもらわないと、せっかくの誠意を疑われるだろうに…


…という問題点はあったけれど、ロードショーを休映しての振り替え上映に加え、チケット代+4枚の招待状というお詫びは、十分すぎるほどのものだった。国際映画祭におけるロール違いというのは、実にひどいミスだし、二度とあってはならないことですが、それに対するフォローはほぼ万全だったと思う。東宝関係者の方々の誠意を強く感じることが出来た。


ま、つまるところ、この事件で一番救いようのない言動を取った人間は、どこかの馬鹿息子だったってことだな(笑)。


せっかくだから少し感想も書いておこう…


              *


『赤ひげ』黒澤明監督
(日本/ニッポン・シネマ・クラシックス/渋東シネタワー3)


非常に多くの不満がある作品だ。以下、その中でも主要な不満点について述べる。


最大の不満は、赤ひげが最初から最後まで完全無欠のスーパーマンでしかないこと。これは他の黒澤作品にもたまに見られる欠点だ。

医術に優れ、情にも厚く、教育者としても素晴らしい…というだけならまだしも、政治的手腕にも長け、10人ものヤクザを素手で簡単にやっつけてしまうというのは、ちょっとやり過ぎじゃないか? 本人は、奉行を脅迫したり金持ちから大金を巻き上げている行状を指して、「わしはこのような卑劣なことをやる人間だ」と言っているが、それを真に受ける観客はどこにもいないだろう。「清濁を併せ呑み、政治的手腕にも長けた人物」と見えるだけだ。このようなスーパーマンが主役だから、前半は見ていてドラマとしての面白さに欠けることは否めない。だって主人公の性格や思想、行動に全く変化がないんだもん。

他の黒澤映画にもいろいろなスーパーマンが登場するが、ここまで完全無欠で、一度たりとも窮地に陥らないキャラクターは他にいないのではないだろうか? あの三十郎ですら、劇中で一度は危機に陥るし、その窮地を弱者によって救われるという逆転劇が用意されている。ところが赤ひげには、そういうシチュエーションが見事なほど何もない。せめて過去のエピソードとして、赤ひげに何らかの傷を背負わせることは出来なかったのだろうか? 例えば過去に思わぬミスによって患者を死なせたとか、保本と同様若い頃は出世の虫だったが、その愚かさに気づいて町医者に転向したとか…そうすれば人間描写もずっと立体的になったと思うのだが…


まあ百歩譲って赤ひげの完全無欠ぶりを「これはこれでよし」を認めたとしよう。それでももうちょっと面白い見せ方があったのではないだろうか?
例えば一番最初に、赤ひげが患者に貧乏たらしいお仕着せを着せ、畳も敷かないことに文句を言う患者が登場する。それに対して別の患者が「先生の意図は…」と説明してしまうのだが、その辺の真相がわかるのをもっと後にして、最初の内は赤ひげが本当に嫌な独裁者にしか見えないようにするとか。大体あそこであの患者がいきなり赤ひげの意図を説明するのは、あまりにもリアリティに欠けている。

黒澤作品の中でも人気の高い『隠し砦の三悪人』を、実は僕はあまり評価していない。一言で言って「単調」な作品だと思う。それは登場人物のキャラクターがあまりにも固定されているからだ。強い者は最初から最後まで強いまま。弱くて卑近な者は最初から最後まで卑近なまま…いくらアクションその他で見るべきシーンがいっばいあっても、この人物設定で139分は、途中でだれてしまう。この作品の最大のクライマックスが、例の「裏切りごめん!」のシーンであることは、その意味でも象徴的だ。あの田所兵衛だけが、『隠し砦の三悪人』というドラマの中で、唯一「変化した人物」だからだ(頼むから最後に言い訳のようについている百姓たちのやり取りをもって、「あの2人も変わった」なんて言わないでくれよ)。
『隠し砦の三悪人』と同様、赤ひげというキャラクターには、「変化しない」ゆえの単調さがつきまとう。少なくとも『生きる』(主人公の大きな変化)や『七人の侍』(侍と侍、侍と百姓の関係が絶え間なく変化する)のような作品に比べれば、そのドラマ的なダイナミズムは遙かに落ちると言わざるをえない。


第二の不満点は、『乱』以降の映画で特に顕著になる「台詞による説明」、それも露骨なまでのメッセージがところどころに見られること。「無知と貧困さえ無くすことが出来れば、病気の大部分は起こらないで済むんだ!」とか…もちろん主張自体は正論なのだが、やはりそのようなメッセージは、台詞で演説のように投げ出すのではなく、あくまでもドラマとして見せて欲しかった。
大体なぜあの台詞があの場面で出てくるのかがわからない。その時死にかけている六助の病気は、別に無知や貧困とは関係ないではないか。同じ生すぎる台詞でも、これをせめておとよのエピソードに組み込んでいたら、台詞としての説得力/必然性は多少なりとも増したはずだ。
『乱』においても、登場人物の一人がいきなりクライマックスで、人間の愚かさを台詞で喋り始める。しかしあれを聞いて「お〜い、まさにそのテーマを今まで2時間半もかけて映画として描いてきたんだろう。それをあんたがいきなり台詞でまとめてどうするんだい」と思わず突っ込んだのは、決して僕だけではあるまい。
この傾向は『夢』でさらにひどくなり、『八月の狂詩曲』で頂点を極める。そこまでひどくはないにせよ、「台詞による説明/台詞によるメッセージの伝達」という晩年の悪癖は、すでにこの作品から始まっていたようだ(これ以前の作品にも見られるが、もう少し自然だった)。


第三の不満点は「やはり黒澤には大人の恋愛、特に女はまったく描けない」ということ。具体的には前半に出てくる二つのエピソード、六助の過去を娘が延々と語るシーンと、佐八の過去が回想形式で綴られるシーンだ。

前者は長回しの芝居に迫力はあるものの、話の内容そのものには、「ふ〜ん」という程度の感慨しか残らない。大きな理由は、その話に対する赤ひげと保本のリアクションがほとんど描かれていないからだ。描かなかったと言うより、おそらく描けなかったのだろう。あんなドロドロとした男女の愛憎劇に対して、あまりにも黒澤的なキャラクターである赤ひげや保本が、何らかの意味ある感想を述べられるはずがない。もし彼らがあの話に何らかの影響を受けたりしたら、その時点から彼らは黒澤的キャラクターではなくなってしまう。だからあの話は、「六助にはこんな暗い過去があったんだよ」という、かなり表層的な意味を持つにとどまっている。「それだけの役割を果たしていれば、十分じゃないか」と言われれば、まあそれまでだが…

そして後者においては、回想形式で長々と、ある男女の出会いと別れが描かれる。これがしかし…う〜ん、何ともリアリティがない…
とにかく馴れ初めからして凄いぞ。雪の降る日に男が(結構早足で)歩いていると、ずっと向こうにある店の奥から、女が飛び出してきて、傘を渡すのだ! 店先で男が雨宿りをしているとか、雪のために男が往生しているとかならともかく、こんなバカな出会いのシチュエーションがあるわけないだろうに。あるいは江戸時代の女はみんなこれくらい積極的だったのか? それともオレ以外の男は、みんなこういう経験があるのか?(;_;)クウ~

それ以上に凄いのは、女が最後に男の腕の中で、実質的な自殺をすることだ。あの女は、家に乳飲み子を抱えているんだろ? 今乳飲み子を抱えた女が、その子供を見捨てて、昔好きだった男に抱かれて自殺するような真似をするか? もちろんそういう女もまったくいないとは言わないが、ドラマとしての説得力はゼロに等しい。大体あの女は、佐八のいる前で赤ん坊に乳を含ませていただろうに。もし赤ん坊を見捨ててでも、佐八の腕の中で死にたいと思っているような女なら、決してそんなことはしないと思うのだが…
そんな調子だから、佐八がこの事件以降、自らをむち打つように人のために働くことになるのも、全然説得力がない。せめて佐八自身が、つい思いあまってあの女を殺してしまったというなら、まだ話はわかるし、先に述べた問題も解決できると思うのだが…


…と言うような無視できない欠点が多々あるのだ、この『赤ひげ』には。


ではこの作品がただの失敗作かと言えば…全然そんなことはないから困ってしまう。
『七人の侍』など最上級の作品には及ばないにせよ、やはりこれは見る者の涙を絞り取る素晴らしい作品なのだ。


だがこの作品の素晴らしさについて、詳しく書く気はない(笑)。そのような文章は、他の人々が山のように書いているので、そちらを読めば済む事だ。しかし誤解を招くのも嫌なので、不満点との兼ね合いについて少しだけ書いておく。


先ほど赤ひげというキャラクターの単調さについて述べたが、実はこの作品の実質的な主役は赤ひげではなく、青年医師の保本であり、彼こそ赤ひげの「変化の無さ」を補ってあまりある「変化する人物」なのだ。さらに言えば、物語の主役は「赤ひげ→保本→おとよ」へと移り変わっていくと言ってもいい。
保本とおとよがなぜ、誰のために、いかにして、どのように変化していくのか? この物語の核心は、あくまでもそこにある。そして赤ひげが後ろに引っ込み、保本とおとよが前面に出てくる後半においては、先に上げた3つの主要な欠点はほとんど解消されてしまう。逆に言えば、この作品の不満点は前半に集中しているということだ。

ただしそれらの欠点が解消されたと言っても、克服されたわけではない。単にそれらの欠点がほとんど目立たなくなったというだけだ。したがって後半においても、保本の変化に対して、赤ひげのスーパーマンぶりが単調であるという欠点はそのままだ。例えば後半で赤ひげが何らかの形で窮地に陥り、成長した保本の機転がそれを救う、というようなエピソードは入れられなかったのだろうか? それが無理なら、せめて自殺を図った狂女の親に「可愛そうなのは彼女の方だ」と抗議する下りの台詞は、赤ひげではなく保本に言わせて欲しかった。確かにリアリズムの見地から言えば、あれだけの短い期間に、保本が赤ひげを部分的にせよ乗り越えるのは不自然だが、作劇術としては十分に許される範囲だし、ドラマとしては絶対そちらの方がツボにはまってると思うのだが…


だが後半においては、もはやその程度の欠点は大した傷になりようがない。保本のキャラクターとその変化もよく描けているが、何と言ってもおとよと長次の2人を中心とした話が素晴らしすぎる。子供を使って客の涙を絞り取るとは、実に卑怯千万なやり方だが、「卑怯でも何でも泣かせたもん勝ちだもんね〜(^-^)」という世界である。おとよが茶碗を買うエピソードや、あの井戸のシーンで泣かない奴は人間じゃねえ!!(笑)


…と言うわけで、多くの欠点はあるものの、涙なくして見られない素晴らしい作品なのだ、この『赤ひげ』は…


(1998年11月初出/2005年5月改訂)

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Comments

どちらかというと、この映画前半の方が後半よりも遥かに映画的完成度は高いと思う。
一般受けするのは、わかりやすいお涙頂戴シーンがある後半でしょうけどね。

>ドラマとしての説得力はゼロに等しい。
>佐八がこの事件以降、自らをむち打つように人のために働くことになるのも、全然説得力がない。

他人の不幸を踏み台にして幸せになるようなことは恥ずかしい。
「これは罰(ばち)が当たったんだ」
という感覚が生理的に納得できない人には
ちょっと無理かもしれないとは思います。
現代人(私もですが)は自分の幸福を追求するのは自分の当然の権利という感覚がありますから。
自分ばかり幸福になっては申し訳ないという気持ちは理解されにくいのでしょうね。

とりあえず、一度山本周五郎の短編でも
いいので、読んでみられることをおすすめします。
*念のため書いておきますが、私この映画完全無欠だと思ってるわけではありません。

Posted by: 風 | 06/09/2005 23:47

よく事情もしらないで
ドラ息子などとは書かないほうがいいですよ。

父親の作った借金を今も返しているのは
その「ドラ息子」ですから。

>「日本の映画界なんてのはこんなものです」

あなたが書かれていることも理屈としては正論ですよ。
ただ、これが一番はじめにでてきたのもわかるなあ私は。
この人の親父さんは
「日本の映画会社なんて全部つぶしてしまえ」
ですからね。

Posted by: 風 | 06/09/2005 23:54

風さん、はじめまして。

正直返信に困るコメントではありますが…

>どちらかというと、この映画前半の方が後半よりも遥かに映画的完成度は高いと思う。

それは具体的にどのような理由からでしょうか?


>他人の不幸を踏み台にして幸せになるようなことは恥ずかしい。

佐八は別に他人の不幸を踏み台にしてなどいないと思うのですが…


>よく事情もしらないで
>ドラ息子などとは書かないほうがいいですよ。
>
>父親の作った借金を今も返しているのは
>その「ドラ息子」ですから。

その「事情」とはどのようなものでしょうか? 「ドラ息子」という揶揄は、あの日の愚かな言動に対してなされたものですから、父親の借金を返しているからドラ息子でないというのは、理屈として成り立たないと思います。
その件については、この問題に多少関わりのある方とのやり取りとして書かれた別発言の一部を抜粋しておきます。

                                             *

同感です。本文の方でも書いた通り、ある意味では事故そのもの以上に
僕が怒りを覚えたのは、あの人の発言だったのです。

劇場の支配人さんの曖昧な態度が観客の怒りを買っていましたが、あれに
ついては同情の余地があります。支配人自身も思いがけない事故でパニック
になっていただろうし、上映を中断した時点では、具体的に「こういう措置
を取ります」とは述べようがない。そういう状況下であれだけ観客に責められ
たら、しどろもどろになるのは仕方ありません。自分があの人の立場だっ
たらと考えれば、それは容易に理解できることです。少なくともあの人は
「当事者」として精一杯のことはやっていたと思います。

一方黒澤久雄氏の態度で何よりも我慢ならないのは、自分自身も日本の映画人
でありながら、まるで第三者のごとく「日本の映画界なんてこんなものです」
と観客に言いきってしまえる無神経さ/無責任さです。少なくともあの事故に
関しては自分に責任がない故、この時とばかり、安全な立場から日頃の不満を
観客に向かって愚痴ったのでしょう。見当違いにもほどがあります。

なるほど、あの時彼は主催者側の一人ではなく、一観客として来ていただけだ
という事情もあるでしょう。しかしそもそもあの状況で、一観客が「黒澤です」
と言って舞台に立ち、意見を述べること自体がおかしなことです。黒澤プロ
の代表者という立場を考えれば、それが一観客としての発言以上の意味を
持つことを、彼はまったく理解していなかったのでしょうか? 彼があそこで
なすべきことは、「自分が責任をもって原因の追及をすること」「もう一度この
映画をきちんとした形で見てもらえる機会を作る(その交渉をする)こと」を観客
に対して約束することだけだったはずです。それをいきなり見当違いな日本映画
批判を始めてどうするってんだ…

彼自身が日本の映画人である以上、「こういう点が日本映画界のダメなところ
だ」という台詞は、あくまでも同じ映画人に向けて発せられるべき言葉です。
その被害にあった観客に向けて発せられるべき言葉じゃない。「では、その
日本映画界で、お前は今まで何をやって来たんだ? なぜお前だけは第三者で
いられるんだ? もし第三者でないとすれば、なぜお前は今この状況下でそこ
に立ってそんな言葉を吐いているんだ?」と問われたとき、彼はどう答える
つもりなのでしょう?その程度の自覚もない人間がプロデューサーをやって
いる…「日本映画なんてのはこんなものです」というのは、そんな現実に対し
て向けられるべき言葉だと思います。

                                            *

一言で言えば日本映画批判自体は構わないが、それは【あの場で言うべき言葉ではない】ということです。発言にはすべてTPOというものがあるわけで、その点をわきまえず観客の不快感を煽るだけの人間は批判されても仕方ないという事です。それは本文に書いたとおり、まだ怪我人が呻いている交通事故の現場でいきなり日本の交通社会批判を始めるようなものです。

風んさのご発言全体的に言える事なのですが、このBlogに対する批判自体はまったく問題ありません(ただしプロフィールに書いてあるとおり、何年も前の発言が主ですので、あまり細かな点を突かれても覚えていないことはありますので悪しからず)。しかし批判をされるなら、もう少し具体的・論理的な批判をしていただけると有り難いところです。「前半の方が芸術的完成度は高いと思う」と言われても、それがいかなる理由によるものかわからないのでは、「それは何故ですか?」と問う以外にないわけで、発展的な会話は成立しません。

多分風さんは拙発言に不快感を覚えられたのだ思いますが、私は『赤ひげ』のどこに問題があるか、なぜ久雄氏の発言にあれほど怒りを覚えたか、それなりに努力してわかりやすく書いたつもりです。それに対する批判としては、あまりに曖昧模糊とした言葉ばかりで、しかもそれとない嫌みに満たされている…正直言って、あまり良い気持ちはしないコメントでありました。

Posted by: ぼのぼの | 06/10/2005 00:51

ぼのぼのさんは非常な合理主義者なのでしょう。それゆえ何事も論理的でないと納得がいかれないのでしょうね。

>「ドラ息子」という揶揄は、あの日の愚かな言動に対してなされたものですから、父親の借金を返しているからドラ息子でないというのは、理屈として成り立たないと思います。

反論の仕方も非常に論理的です。
ちょっと屁理屈ぎみではありますが。(笑)
では、私も論理的に反論しましょう。

ドラ息子というのは道楽息子という意味です。
(一般的には、親の財産で遊んで暮らしているような人に対して使われる言葉です)
この場合に、あなたの言われる「愚かな言動」に対する批判として使うのに果たして適切な表現だったでしょうか?
「馬鹿息子」なら私も論理的には納得しますよ。
おそらく、ぼのぼのさんは「馬鹿息子」の言動に腹が立ったのでそれほど深い意味は考えず
「ドラ息子」と言う言葉を使われたのでしょう。

人間というのはそんなに合理的、論理的に考え行動できるものではありません。
それは、ぼのぼのさんがつい「ドラ息子」という言葉が出てしまったことでも明らかでしょう。

Posted by: 風 | 06/10/2005 20:36

>ぼのぼのさんは非常な合理主義者なのでしょう。それゆえ何事も論理的でないと納得がいかれないのでしょうね。

人生は論理だけでは通用しません。しかしこのような場で何の論理性も持たずに他人を非難する行為が余計なトラブルを招く事など火を見るよりも明らか。日常的な当たり障りのない話ならともかく、他人に対する批判的言動を行うのであれば、誰もが納得いくような論理をもって臨むのは当然の事でしょう。風さんが何者でお幾つなのかは存じませんが、未だにその程度の社会常識すら持ち合わせていないことに溜息が漏れるばかりです。


さて「ドラ息子」ですが…

どら息子

小学館
「品行の悪い息子。放蕩息子」
広辞苑
「なまけ者で放蕩をするむすこ。道楽息子」
新明解
「よくない遊びに身を持ちくずし、親を困らせる息子」

この定義を見れば「親の財産で遊んで暮らしているような人」というものが、かなり応用的な使い方であることは明らかです。書く前にチェックしたのはパソコンに入っている小学館の国語辞典でしたが、「品行の悪い息子」なら問題なく今回のケースに当てはまります。したがって使っただけです。

「馬鹿息子」ならOKとのことですが、「馬鹿」という言葉に過剰に反応する人が世の中にはたくさんいます。本文中では一か所使っていますが、これは7年前に書いた文章ですから、そう無闇に書き換えたくはない。あまりにひどい内容の場合は、自粛して書き換えていますが、これだけ延々と彼の愚行を明記した上で一回書いてあるくらいならまあ問題ないだろうということで変更しませんでした。しかし2005年5月時点の注釈で再度「馬鹿息子」と呼ぶのは、少々ためらわれた。そこでよく似た意味で、よりインパクトの弱い「どら息子」を使用したというわけです。

一応その程度のことは考えてものは書いてるんですけどね。


それにしても、黒澤監督はそんなに莫大な借金を残し、それを久雄氏が必死になって返しているという状況なのですか? まあ借金くらいはあっても不思議はないでしょう。だが同時に映画作品という名の巨大な財産も残している。そのリバイバル上映、ビデオやDVD、リメイク権の譲渡などから得られる金額もかなりのにものになるはず。それらを全て返済に充てても、まだ追っつかない状況なのでしょうか? 「事情も知らずに…」と仰るのであれば、ぜひその辺りの詳しい事情を聞かせていただきたいものです。

Posted by: ぼのぼの | 06/11/2005 13:37

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