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06/25/2005

【映画】キェシロフスキ小論〜人は愛によって救われることはない

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大好きな監督、クシシュトフ・キェシロフスキについて書いてみよう。


いきなり核心に入るが、『デカローグ』『愛に関する短いフィルム』『殺人に関する短いフィルム』『ふたりのベロニカ』『トリコロール』三部作というキェシロフスキ映画に共通するテーマ。それは「人は愛によって救われることはない」という静かな諦念だと思う。


以下、思いつくままに書いていこう。


まず『愛に関する短いフィルム』。あの作品のラストを、ハッピー・エンドと解釈すべきかどうかについて。

なるほど、あの夢のようなラスト・シーンにおいて、観客は大きな救いを得ることが出来る。孤独の果てにようやく見いだしたかすかな希望。その希望の灯は、かすかなるがゆえに美しく、そこに至る道のりが暗いだけに、見る者の心を限りなく高揚させてくれる。監督自身もあのラストを「極めて楽観的なラスト」と呼んでいたようだ。

だが僕の感じ方はちょっと違う。
現実を直視したとき、あのふたりが今後幸せに結ばれるとは、どうしても思えないからだ。
あのラストの後に待つもの、それは今までと変わらぬ孤独な日常なのではないでだろうか。

キェシロフスキは『愛に関する短いフィルム』(及びその他の諸作)において、この世界を「孤独な人間の集合体」としてとらえている。
幻想でしかない愛を求め、深く傷つくトメク。
おそらくは同じような経験を通過し、もはや愛そのものを拒否してしまったマグダ。
一人で生きることに耐えられず、何の血縁関係もないトメクと共に暮らすお婆さん。
誰もがそれぞれの孤独の中に生き、そこから抜け出す可能性を見いだせぬまま毎日を過ごしている。
あのファンタスティックなラストは、「映画」だけに許された一片の救いだ。だがあのような救いは、現実には決して彼らの上に訪れることはないだろう。

この映画の特徴の一つは、視点が常に「愛するもの」の側にのみあり、「愛されるもの」の視点からは描かれていないことだ。
デカローグ版でも映画版でも、視点が逆転したのは、マグダがトメクに「ごめんなさい」とメッセージを送ったときからである。つまりトメクが愛することを放棄し、逆にマグダがトメクを愛し始めた瞬間から、映画の視点は、それまでとは一転してマグダの側に移っていく。おそらくキェシロフスキがこの映画で描こうとしたものは、「愛しあうこと」ではなく、「愛する者の思い」だけだったのだろう。

キェシロフスキにとって確かなものは、「愛しあう者同士の一体感」などではなく、「愛することの苦しみ」と、それによって一層広がっていく「孤独の痛み」だけだったのではないか。
その根底に流れているものは、やはり「人は愛によって救われることはない」という静かな諦念だったのではないか。


では一切の希望は失われているのだろうか? 


僕はそうは思わない。
「人は愛によって救われることはない」ことを百も承知しつつ、孤独に苦しむ人々に救いの手を差し伸べようとするキェシロフスキ。彼のそんな優しさと、人間に対する愛情こそ、僕がキェシロフスキ映画を愛してやまぬ理由なのだ。


結局、僕が彼の映画から得ることの出来るメッセージはただ一つしかない。それは次のようなものだ。

   「私にはあなたの孤独を救うことは出来ません。
    その苦しみを肩代わりすることも出来ません。
    でも私はあなたの苦しみに心を痛めています。
    私に出来ることは、ただあなたの側にいて、
    その辛さを慰めてあげることだけです」

もっと突き詰めれば、こう言い換えることもできる。

   「孤独なのは、あなた一人だけじゃありませんよ」

彼の映画は、ただその一言を伝えるためだけに存在するのだろう。


もう少し別の角度から、キェシロフスキ映画の中に示された希望に
ついて書いてみよう。

 
キェシロフスキの映画には、執拗に出てくる小道具がいくつかある。それは「電話」「窓ガラス」「テレビ」「写真」「望遠鏡」などだ。

これらの小道具と、その使われ方を見ていれば、これらが登場人物たちの孤独のシンボルであることはすぐにわかる。しかしその一方で、「私たちはこれらの媒体を通してのみ、心を通わせることが出来るのだ」という肯定的な意味付けをすることも可能だ。それを「希望」と取るか「絶望」と取るかは、人様々だろうが、僕は極めて屈折した「希望」として受けとめている。


事実、キェシロフスキ映画における「希望」は、常にこれらの小道具を通してのみ示されている。


無意味な衝動殺人に走る『殺人に関する短いフィルム』の青年。しかし彼が肌身離さず持ち歩いているのは、幼くして亡くなった妹の古ぼけた写真だ。「もし妹が生きていれば、自分もこんな生き方はしなかったのに」とつぶやく青年。彼にとっては、その写真だけが孤独な生活における唯一の心の拠り所だったのだ。
もちろんその写真が彼を救うことは出来ない。それでも彼が単なる殺人者ではなく、一人の人間として死んでいけたのは、あの写真があったからに他ならない。

『愛に関する短いフィルム』は、あのラストを思い浮かべるだけで十分だろう。この場合の希望は「望遠鏡」を通して示された。いや、望遠鏡を通して「のみ」示されたと言うべきか。

そして『ふたりのベロニカ』。「あなたは私のもうひとつの人生」という『デカローグ』のキャッチ・コピーは、むしろこの作品にこそふさわしい。フランスのベロニカが、自らの「もうひとつの人生」であった、ポーランドのベロニカの存在に気づくのは、かつて自分が撮った「写真」を通してだった。

『トリコロール/青の愛』。「愛はすべてを救う」的な歌詞を持つ歌(交響曲)が流れるせいか、このラストをある種のハッピー・エンドとしてとらえている人もいるようだが、僕はまったくそう思わない。
ラストで次々と映し出されていく登場人物たちは、たった一人を除いて、皆とても厳しい表情をしている。このラストは決して「愛によってジュリーの心の傷が少しずつ癒えていく」ことを暗示しているのではなく、「ジュリーが自らの孤独を引き受ける覚悟をした」、その寂しい決意を表しているものだ(まあその決意をすることによって、彼女は生きてゆく意志を取り戻すわけだから、結局は同じ事かもしれないが)。
例外の一人とは、言うまでもなくジュリーの夫の愛人だ。病院で診察を受けている彼女だけは、実に幸せそうな顔をしている。それは彼女が赤ん坊を身ごもっているからだ。ベロニカがついに会うことの出来なかった「もう一つの人生」を、彼女は自らの体内に抱え込んでいる。少なくともその間だけは、彼女は孤独から逃れられている。だがその「もうひとつの人生」という希望ですら、映画の中では超音波検査機の「モニター」に映し出された画像によって示されている。

『トリコロール/白の愛』。ラストでようやく二人は心を通わせることが出来るが、この交流もまた「双眼鏡」を通してのみ描かれる。ジュリー・デルピーの前には鉄格子と窓ガラス。二人はふたつのガラスによって隔てられ、そのガラスを挟んでのみ交流することができる。

『トリコロール/赤の愛』。あのラストにおいても、希望は「テレビの画面」を通してのみ語られる。多数の死者が出た船の転覆事故で、どういうわけか三部作の登場人物ばかりが救助されている様子が映し出される。
なぜ彼らだけが助かったのか? その一つの答は「テレビの画面を通しているから」だ。
だからあのラストは『愛に関する短いフィルム』のラスト同様、一種の幻想として見ることも可能だ。実際には彼らは死んでいるのかもしれない。しかし「テレビの画面」を通したとき、彼らだけは助かり、しかもそれぞれに愛を獲得している。それは『愛に関する短いフィルム』で、マグダが望遠鏡を通して実際にはあり得ない「幸福なる愛」のヴィジョンを見たのと同様、あの老判事にとっての愛のヴィジョンだったのかもしれない。


そのようにしてキェシロフスキは、常に「写真」や「望遠鏡」などの小道具を通してのみ、我々にかすかな光を見せてくれる。

 
そして僕はここに、キェシロフスキの「映画に対する愛情と信頼」を見ている。
つまりキェシロフスキ映画における「写真」や「望遠鏡」とは、今僕たちが見ている「映画」そのもののメタファーなのではないかと思うからだ。いや、「少なくとも僕にとってはそうなのだ」と断言してしよう。


キェシロフスキのインタビューなどを読んでいると、「映画を作るというのは実にバカバカしい仕事である」といった発言が非常に目立つ。なぜ彼はそれほどまでに自らの仕事を卑下するのだろう?

おそらくキェシロフスキにとって、映画とは「逃避」を意味するものだったのではないだろうか。キェシロフスキはもともとドキュメンタリーの作家だ。しかも共産主義政権下の。共産主義政権下に生きたドキュメンタリー作家が、その創造作業の過程でどんな葛藤を強いられたかは、想像に難くない。
僕が見ることのできた彼のドキュメンタリー作品は『煉瓦工』『種々の年齢の七人の女』『ある党員の履歴書』の3本だ。残念ながら僕にこれらの作品をきちんと論評する能力はない。言い訳するわけではないが、『ある党員の履歴書』をきちんと理解できる日本人など、両手両足で数えられる程度ではないだろうか。『種々の年齢の七人の女』に至っては、ポーランド語の台詞にフランス語字幕付き、日本語字幕はなし! これで何かを言葉にしろと言われても…。
それでもなお『煉瓦工』『ある党員の履歴書』(この作品は正確にはドキュメンタリーとドラマの中間的作品)といった作品からは、政治や共産党をドキュメンタリーによって描くことの限界と失望のようなものをかすかに感じとることが出来た。

最初の劇映画『アマチュア』は未見だが、次の『偶然』は見ている。この作品にはまだいくらか政治的な臭いが残っているが、『デカローグ』以降の作品には、政治や社会批判のような要素はほとんど見られない。『殺人に関する短いフィルム』のように「死刑」という社会的題材を扱っても、彼はそれを個人の魂の問題として描いていく。

つまりキェシロフスキは、ドキュメンタリーから劇映画へと転向する際に、「映画で社会を変えることはできない」という断念をしたのではないだろうか。
その認識に基づいて、彼は自分の映画から社会的な要素を排し、個人の愛や孤独だけを描くようになっていったのだろう。
僕はその転向の中に「人間の幸福は、政治によってではなく、愛によってのみ実現する」といった肯定的な意味を見いだすことは出来ない。
僕がそこに見い出すのは「映画が描けるのは、せいぜい個人の感情に関することくらいだ。社会を変革したり、生きていく上の苦しみを実際に解決することなど出来はしない」とう諦念だけだ。

こうして彼は、社会の現実に直面し、しかもそれに対する敗北を余儀なくされるドキュメンタリーを放棄した。そして一見リアリズムのようでありながら、実際にはファンタジーと言っても差し支えないような作品ばかりを延々と撮り続けていった。

「現実に対する表現の敗北」など、どこの国でもある問題だ。だが共産主義という唯物思想の下で育ったキェシロフスキにとって、「自分は現実を変革する力を何一つ持っていない」という疎外感は、我々が想像する以上に強いものだったはずだ。そのような認識が、彼の映画に色濃く流れる絶望感や敗北感の源泉となり、自らの職業を必要以上に卑下する理由にもなっているのだろう。


しかし、人は絶望感や敗北感だけで映画を撮り続けられるものだろうか? 


先ほどから述べてきたキェシロフスキの諦念。
少し見方を変えると、その中にはギリギリの希望、ギリギリの決意が秘められているように思える。


僕がキェシロフスキ映画の中に見いだしているメッセージを、もう一度書こう。

   「私にはあなたの孤独を救うことは出来ません。
    その苦しみを肩代わりすることも出来ません。
    でも私はあなたの悲しみに心を痛めています。
    私に出来ることは、ただあなたの側にいて、
    その辛さを慰めてあげることだけです」

このメッセージは、一方で「映画によって社会を変えることなど出来ない」という敗北感に対するアンチテーゼとしても機能しているはずだ。

それは以下のようなことだ。

「私は映画を職業としています。
 でも映画は社会を変革することなど出来ません。
 目の前にある人間の苦しみを救うことも出来ません。
 それでも私はあなたの悲しみに心が痛みます。
 私は映画の中で、せめてあなたと一緒に涙を流します。
 あなたが病気で苦しんでいるのなら、もうすぐ死を迎えようと
 しているのなら、せめてあなたの側に寄り添います。
 映画に出来ることなど、せいぜいその程度です。
 それを職業としている私も、たかだかその程度の存在です。
 でも私は自分に出来る範囲でベストを尽くします。
 苦しみの淵に立っているあなたが、一瞬でも笑顔を取り戻して
 くれること…それが私の希望であり、私自身の救いにもなるのです」


しょせん映画は逃避でしかない。

そんな現実に対する敗北感と、それでも抑えきれない他者の悲しみに対する思い。

その危ういバランスの上に立ちながら、どうしてもこれだけは譲れないという地点に成立したギリギリの表現…

キェシロフスキにとって、「望遠鏡」や「テレビ」といったメディアを通じて示される希望とは、そのようなものだったのではないだろうか。

           *

最後に、藤原新也の『東京漂流』という本に書かれていたエピソードを一つ紹介しよう。

藤原はインドを旅していたときに、ある光景を目撃する。親に先立たれ、自らもコレラで死にかかっている子供を、看護婦が抱きしめ、口移しによる人工呼吸をしていたのだ。そんなことをしたら、彼女にも病気が移ってしまう。それは理性を失った、馬鹿げた行為であると藤原の目には映る。

その光景が忘れられない藤原は、二ヶ月後に彼女のいる病院を訪れ、院長と面会する。看護婦の安否を尋ねる藤原。それに対して院長は「彼女の生死を問うことには何の意味もありません」と答える。「もし彼女が死んでいたら、彼女の行った行為は馬鹿げたものである」と考える藤原に、院長はこう答える。
「私たちに死を救うことは出来ません。出来るのは『死の状態を救う』ことだけです。彼女は自らの行為によって、その子供の死の状態から、孤独や恐怖、苦しみや不安を取り去り、その死に意味を与えようとしたのです。それは大きなものの流れに逆らう行為ではなく、死にゆく人を、その流れの中心の方へと押しやる手助けなのです」

藤原はさらに問う。
「ではそれによって彼女が死ぬことになったら、今度は誰が彼女の死に意味を与えるのですか?」
院長は答える。
「それはあの子供です。彼女は子供を救うことで、自らも救われようとしたのです。そのことを彼女自身が理解しているなら、たとえその行為によって彼女に死が訪れたとしても、その死は孤独ではないし、不幸でもありません。私たちは目の前に救いを求める人々がいることで、生きる意味を与えられているのです。もし彼女が命を落としたとして、その死の状態を救い、意味を与えるものがあるとすれば、それはあの子供です。あの子供は自らの死によって、看護婦の生と死の両方を救ったのです。このような病院で、死を目前にした人々を前にして働いていると、自然に『救う』とか『助ける』といった言葉を使わなくなってきます。それはここで働くことによって、実は自分自身が救われているという事実に少しずつ気が付くようになるからです」

最後にもう一度彼女の安否を尋ねる藤原に、院長はこう答える。
「彼女の生死を問うことは無意味であると話し合ったばかりではありませんか?」


この話を聞いてどう考えるかは、人様々だろう。


だが、もしキェシロフスキがこの話を聞いたら、「いい話だね」と言ってニッコリ微笑んでくれるような、そんな気がしてならない。


(1996年11月初出/2001年1月改訂)

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