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06/16/2005

【映画】『サイダーハウス・ルール』短評

とうとう3回も見てしまった。

強く感動したから? 違う。まったくその逆だ。

どうしてもこの作品が心に触れてこない。
だがこの作品は、僕が愛してやまぬ『マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ』『ギルバート・グレイプ』のラッセ・ハルストレムの作品だ。描かれている世界自体も前2作とそれほど変わるわけではない。
なのになぜこんなにも心が動かされないんだ? なぜ? なぜだ?…と己に問いかけながら3回も見てしまった。

だが何度見ても、ついに涙が僕の頬を伝うことはなかった。

感動したことならともかく、感動できなかったことに理由を求めるのもバカげている。だがバカは百も承知であえて理屈をつけてみる。

この作品が『マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ』と大きく違う点は、「テーマとそれを描くための構成が非常にはっきりしていること」だと思う。それは裏を返せば「テーマが露骨すぎる」ということだ。

「人生は簡単に白と黒で決めることなど出来ない。この世界で生き、人の役に立とうとすれば、必然的に人は灰色の部分を引き受けることになるのだ」という、あまりに正論すぎて誰にも否定できないメイン・テーマ。父たるラーチ院長からそのように諭されながらも、若さ故に純粋さを捨て切れぬホーマーが、旅に出て現実の矛盾と直面することで、ようやく己のあるべき姿を再発見する成長物語、その結果として浮かび上がってくる父と子の絆…実にかっちりした、わかりやすい構成だ。

だがこの構成は、逆にあまりにもわかりやすすぎはしまいか? ストーリーが論理的に運びすぎて、登場人物は皆テーマを語るための小道具のように見えてしまう。もちろんテーマが明確なのはいいことだが、それはあくまでも登場人物の生のリアリティを通して語られるべきものだ。作者側にとっては「最初にテーマありき」でも、観客側には「最初に人間ありき」と感じさせなければ、映画として魅力に乏しいものになる(あくまでも「この手の映画では」ということだが)。
その点で特に気になるのは、登場人物の行動が非常に論理的で、コミュニケーションにおいても、最終的にはお互いの意図をきちんと理解してしまうことだ。そのあまりの明晰さが、生のリアリティを損ねているように思えてならない。簡単に言えば、みんなものわかりが良すぎるということ。本来のテーマに反して、本作を見ていると、人生や対人関係が非常にすっきりとわかりやすいものに思えてくるのだ。


例えば『マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ』。

もはや死が近い母親とイングマルの会話。

これが最後の会話になるかもしれないという状況にも関わらず、まだ母は息子とどうコミュニケーションを図っていいのかわからない。彼女の口から出る言葉は、「素敵なジャンパーね…ビニール製?」という、他愛ないものだけだ。一方イングマルの方も、別れ際に思い出したように「クリスマス・プレゼントは何がいい?」と聞く。それに対して「あなたが考えて」といささか投げやりに答える母親…

今目の前にある辛い現実を否定したい…そのためにクリスマス・プレゼントという夢に、イングマルはしがみつく。プレゼントという約束がそこに存在するかぎり、母親は決して死んだりしないという彼のはかない思いこみ。そして結局最後まで「物」を通じてしかコミュニケーションを取ることができなかった母子の関係。それを踏まえた上で何度か繰り返される「母さんがもっと元気な内にたくさん話をしておけば良かった」というイングマルの後悔…

どんなに相手のことを思っていても、いざ顔を合わせると心がすれ違ってしまう、そのリアリティ、その哀しみ… 心臓の奥底をヤスリで削り取られるような、その痛切さ… 


そのような「生の痛み」に溢れた描写を、僕はついにこの作品の中に見いだすことが出来なかったのだ。

(2000年8月初出/2001年1月改訂)

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