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06/07/2005

【歌舞伎】『三人吉三廓初買』 2001.12.25 国立劇場

先日初体験の文楽に殺られ、しかも同演目の歌舞伎版が恐ろしくつまらなかったせいで、自分の中で相対的に地位が落ちていた歌舞伎だが、その不満を一挙に打ち破る素晴らしい芝居に出会うことが出来た。


『三人吉三廓初買』五幕十一場
 (2001年12月15日/国立劇場)

 作 河竹黙阿弥
 監修 河竹登志夫
 
 和尚吉三/木屋文三=松本幸四郎
 お坊吉三=中村梅玉
 お嬢吉三=市川染五郎
 土左衛門伝吉=片岡芦燕
 一重=中村松江
 
 
そもそも僕が歌舞伎に興味を持ったのは、小林恭二の小説『カブキの日』を読んだのがきっかけだった。『三人吉三』はその『カブキの日』の中にも登場する。描かれるのは歌舞伎屈指の名場面とされる大川端庚申塚の場だ。
だが小林恭二の『三人吉三』に対する思いはそれだけでは終わらない。『悪への招待状』(集英社新書)という本を一冊使って、『三人吉三』という芝居、それを書いた河竹黙阿弥、その黙阿弥が生きた幕末という時代を、鋭くしかも面白く解説してしまったのだ。もちろん僕は事前に『悪への招待状』を熟読。かなり複雑な筋を持つ作品だが(と言っても複雑なのは主に人間関係で、物語そのものはそうむやみに難しいわけではない)、おかげでイヤホンガイドなどに頼ることもなく理解できた。イヤホンガイド自体はとても良いシステムだと思うが、僕自身は使わない主義。事前にパンフの筋書きを熟読して芝居を見ることにしている。

大まかなストーリーを書くと、同じ「吉三」という名を持つ三人の悪党=和尚吉三/お坊吉三/お嬢吉三が、因縁深い百両の金と庚申丸という短刀に引き寄せられるようにして知り合い、義兄弟の契りを結ぶ。だが百両の金と庚申丸は、三人の吉三とそれぞれの家族に隠された意外な因果を引きずり出し、悪行の報いと言うにはあまりに凄惨な悲劇を生み出していく、というもの。

三人の吉三は、悪党とは言っても根っからの冷血漢ではない。むしろ普通以上に情け深く、自分の悪行を非難している親兄弟との確執に苦しんでいる。そして彼ら自身も自らの罪を深く自覚し、やがて己が地獄に堕ちる運命にあることを予感している。

彼らと彼らの家族にどのような悲劇が起こるのか、ここでかいつまんで説明するのは難しい。とても現実にはありそうにない入り組んだ人間関係と、あちこちに撒かれていた悲劇の種が、中盤から一斉に開花するかのような派手なストーリー展開は、とても簡単に要約できるものではないからだ。興味のある方は、やはり実際に芝居をご覧になるか、前述の『悪への招待状』を読んでいただきたい。

だがその悲劇の中心に位置するものが、おとせと十三郎の近親相姦であることは間違いなかろう。

自分たちが双子の兄妹であることを知らず、遊女とその客という関係で肉体関係を持ち、やがて結婚の約束を交わす2人。その2人が自分の子供であることを知った時の伝吉の衝撃、過去の悪行に対する諦念…

皮肉な運命によって、伝吉はお坊吉三に斬り殺されてしまう。その結果おとせと十三郎の悲劇の幕引きは、伝吉の息子であり、二人の兄である和尚吉三が引き受けることになる。義兄弟たるお坊とお嬢のため、そして死よりも辛い真実をいずれ知ることになるであろう二人のため、和尚は実の妹と弟を手に掛ける。
この四幕目「巣鴨在吉祥院 本堂の場/裏手墓地の場/元の本堂の場」はこの芝居の最高のクライマックスだ。あまりにも複雑で残酷な運命が引き起こした悲劇を次々と突きつけられ、驚愕する和尚。生半可な論理やモラルでは解決不能な問題に対し、和尚が下す非情な決断…そして一度決断を下した和尚は、これから自分が真の修羅となる運命を静かに引き受ける。実の妹と弟を殺すための出刃包丁をじっと見つめる和尚の姿は、巨大な暗黒の存在を肌に感じながら、それでも自分が自分であるために、自らの意志で修羅道に赴く者の荘厳な哀しみと美しさを湛えている。
裏手墓地の場で行われる凄惨な殺し。だがここで何よりも恐ろしいのは、最期に水を求めるおとせと十三郎が、四つんばいになって、まるで犬のように水を飲む姿であろう(二人の悲劇を生みだした直接的な因果は、伝吉が庚申丸を盗む時に斬り殺した孕み犬の祟りなのだ)。因果の闇をあからさまな形で眼前に突きつけられた和尚は、まず驚愕し、そして号泣する。だが彼の決心は変わらない。この二人を残酷な因果から解き放つには、自分が修羅となり、二人の命を奪う以外にないからだ。止めを刺そうとする和尚。その足にすがりつくおとせと十三郎。包丁を真上に振り上げたまま号泣する和尚…

元の本堂の場に戻ると、追いつめられ、せめて最期は和尚の役に立とうと今まさに自らの命を絶とうとしているお坊とお嬢。それを止める和尚。和尚はおとせと十三郎の首を身代わり首に立て、お坊とお嬢を逃がす算段だったのだ。自分の妹さえも手に掛ける和尚の無慈悲な行いに愕然とする二人。和尚は殺された二人が実の兄妹であることを明かし、残酷な事実を知る前に死なせてやることが慈悲なのだと説明する。そして二人を犬死にに終わらせないためにも、どうか逃げてくれとお坊とお嬢に諭す。そう二人を「犬死に」に終わらせないために。この台詞、まさかただの駄洒落でもあるまい。犬の呪いで畜生道に堕ち、犬のように地べたを這いずりながら死んでいった弟と妹…その二人にせめて「人」としての死を意味づけてやってくれと、血を吐くような思いで和尚は訴えているのだ。

和尚の思いを受け入れ、落ち延びてゆく二人。だがその計略は役人にばれ(結局おとせと十三郎の犠牲は無駄に終わったわけだ)、和尚は捕らえられてしまう。そしてお坊とお嬢は命を賭けて和尚を救い出しに向かう…アメリカン・ニュー・シネマを彷彿とさせる大詰「本郷火の見櫓の場」だ。

この芝居が実は「八百屋お七」の物語を下敷きにしていることは『悪の招待状』で知っていたが、仮にそのような予備知識がなかったとしても、降りしきる雪の中、映画『BU・SU』で見慣れたあの服装で櫓に上り太鼓を打ち鳴らすお嬢の姿を見れば、それが八百屋お七以外の何者でもないことは一瞬にして理解できる。それまでは和尚、お坊に比べて圧倒的に影の薄かったお嬢だが、その背後に八百屋お七の影を背負った時、今まさに散りゆく大輪の花として、この大詰を鮮やかに彩ってゆく。


小林恭二の著作が『悪への招待状』と題されていることからもわかるように、この芝居は「悪」というキーワードで語られることが多いようだ。これは河竹黙阿弥が「白浪物」(=盗賊物)の大家として知られていることとも無関係ではなかろう。
だが僕は「悪」という概念は、この物語において必ずしも最重要のテーマではないように思う。少なくとも現代人の目から見れば。

一つには、三人の吉三は悪党と言いながらも、あまり具体的な悪事が描かれていない。強盗の場面があるお坊とお嬢はまだしも、和尚や伝吉の悪事は台詞で説明されるだけで、具体的な悪事が舞台で演じられることはない。僕の目には、彼らは悪党である以上に、過酷な運命に苦しみながら自らの死に場所を探す、実存的なキャラクターとして映る。

そしてもう一つ。この悲劇を起こした原因が伝吉の悪事にある。だが孕み犬を斬ったことが原因で、生まれた子に犬のような斑があり、妻はその子を抱いて入水自殺。その前に生まれていた双子の兄妹はやがて近親相姦に陥り、実の兄の手によって殺される。そして伝吉自身も、これまた深い因果を持つ百両が元で、和尚の義兄弟、すなわち義理の息子に当たるお坊に斬り殺される…これはいくら孕み犬の呪いといっても度が過ぎてはいまいか。だがそこで「馬鹿馬鹿しい」と思ってしまう人間は、根本的に物語芸術に向いていない人だろう。ここで肝心なのは、たかがそのようなことが原因で次々と悲劇が起きるという、世界の「不条理」にあるのだ。

確かに世の中の悲劇には何かしらの原因がある。だがその因果のレヴェルが必ずしも一致しているわけではない。
例えばある人物が仕事上の問題で他人の恨みを買い、その結果一家皆殺しにあう事件があったとしよう。決してありえない事件ではないはずだ。だが普通の社会人が、仕事上の問題で他人の恨みを買うこと自体は、決して珍しいことではない。それによって何事も起きない方が普通だし、何かあったとしても、ぶん殴られたり嫌がらせをされたりする程度で済むはずだ。
ところがある不運な人物だけは、それでは済まない悲劇に直面する。その時被害者は何を思うだろう? 自分の撒いた原因の当然の帰結として、その悲劇を受け入れるだろうか? そうではあるまい。むしろ「なぜ自分だけが?」という苦しみに苛まれるはずだ。
「行為」(原因)と「報い」(結果)の相関関係が誰にとっても明白ならば、この世はずっと楽なものになる。だがそうではない。同じ行為を行っても、報いは人によって大きく違う。その不条理故に、人は生の苦しみを味わう。その不条理と苦しみを描くのが芸術というものではないのか。

この芝居の登場人物たちは、自らの身に襲い来る悲劇に対し、不要な泣き言は言わない。自らの悪行がいかなる改心によっても消えはしないことを知っているからだ。そして自らの犯した罪に対し、明らかに度を過ぎた報いが返ってきても、それを甘受する。逆説的な言い方になるが、彼らは極めて「倫理的な悪党」なのだ。その倫理性故に、彼らは全ての報いを受け入れる。
その根本にあるものは運命論的な考え方だろう。この世のあり方も、そこで起こる悲喜劇も、目に見えぬ巨大な力によって引き起こされており、人間個人は自らに与えられた運命に従うしかないという考えだ。この点については、小林恭二もはっきりと「この作品は運命悲劇である」と定義している。
そのような運命論から導き出されるものは「諦念」だ。誰よりも深い諦念を胸の内に抱えていればこそ、彼らは泣き言も言わず、それぞれの悲劇を受け入れるのだ。

だがこの芝居はそれだけでは終わらない。

そのような諦念に最も強く支配されていたのは、ことの発端を作った伝吉であろう。三人の吉三も、それと同じ諦念を抱えている。だが彼らは、とりわけ和尚吉三は、自分たちを支配する巨大な運命の存在を認めた上で、なおかつ「自分が自分としてある」ための道を模索する。いずれ地獄に堕ちる身ならば、せめて最後は納得のいく死に方をしたいとでも言わんばかりに、自らの死に場所を自らの手で決めようとする。巨大な運命の力、不条理と暗黒に満ちたその力に決して勝てないことは、彼らも承知の上。だが彼らは、自らの運命を呪うでもなく、ただ黙って従うでもなく、「誰かのために死ぬ」「何事かを成し遂げて後に死ぬ」ことで、その運命の過酷さ、不条理さに、せめて一矢報いようとするのだ。それ故に、庚申丸と百両の行方を見届けた後に和尚が言う「もはや思いおく事なし」という台詞が、あれほど巨大な感動を呼ぶのだ。


何度か実際の芝居を見、いろいろな書物を読むに従って、最近歌舞伎が持つある種の限界が見えてきたところだ。詳しく述べる余裕はないが、それはハリウッド映画の持つ限界と極めてよく似ている…と言えば大体わかるのではなかろうか。
だがハリウッド映画の中にも、ハリウッド映画としての必要条件を満たしつつ、その枠を超えた先進性や深い感動をもたらしてくれる傑作が時々登場する。この『三人吉三廓初買』は、歌舞伎界において、そのようなポジションにある作品なのではなかろうか。庶民のための芸能という枠を超え、人間存在の根本にまで迫ったこの悲劇は、シェイクスピアの『リア王』にも比肩する傑作だと言えよう。まあシェイクスピアの芝居も、当時は庶民のための芸能だったわけだが。


最後に役者について少々。これはもう一にも二にも和尚役の松本幸四郎である。幸四郎は現代劇は上手いが、歌舞伎はそれほどでもない…と聞いていたのだが、少なくともこの作品に関する限り「名演」としか形容しようのない見事さだった。シェイクスピアやギリシャ悲劇といった西欧古典劇の影が強く感じられるが、それがむしろこの作品の和尚吉三役には合っていたと思う。
お坊役の中村梅玉も元武士の凛々しさを出しているが、もう少しギラギラした悪党の魅力を出した方が良かったかも。
問題は市川染五郎と片岡芦燕だ。染五郎のお嬢はどうにも存在感が不足。大詰の立ち回りはまだしも、有名な大川端庚申塚の場はあまりに弱い。「月も朧に白魚の、篝もかすむ春の空…」に始まる有名な台詞など、まだまだおっかなびっくりという感じで「あれ? 実際はこんなものなの?」と思わず拍子抜けしたほど。新聞のインタビューで、まだまだ暗中模索していると述べていたのも当然だろう。伝吉役の片岡芦燕は、元大悪党の貫禄が明らかに不足している。
こうしてみると幸四郎以外の配役は、まあまあか今ひとつということになるのだが、そのようなマイナス点は、幸四郎の四幕目以降の圧倒的名演によってねじ伏せられてしまう。結果、作品全体の主役はあくまでも和尚という印象になるが、これは物語やテーマから言っても必然的にそうなるのではなかろうか。その意味では、脇役の弱さを主役が一人で救ってしまった芝居と言えるだろう。


(2001年12月初出/2005年6月改訂)

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