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05/18/2005

【本】『夜回り先生』『夜回り先生と夜眠れない子どもたち』水谷修

yomawari


水谷修、通称夜回り先生。テレビでドラマやドキュメンタリーが放送されたり、漫画になったりして、かなり有名な人らしいが、つい2か月ほど前まで名前すら知らなかった。

興味を持ったきっかけは、ネット上の知人がこの人について書いていたためだ。彼女自身、リストカットやオーバードーズ、不登校などを経験してきた人だけに、水谷先生の生き方に触れて大きな感動と影響を受けているようだった。

それでちょっと著作を読んでみようと思ったのだが、最初は抵抗があった。夜の街に出かけては、ドラッグの常用など様々な問題を抱えた子どもたちに手をさしのべ、時には暴力団とも渡り合う教師なんて、あまりにも出来すぎた話だ。金八先生じゃあるまいし。ある種の新興宗教みたいな胡散臭さを感じずにはいられなかった(くれぐれも言っておくが「宗教=胡散臭い」ではない)。
しかも本を手に取ってみると、作りがまるでアイドル本なのである(笑)。ぴたりと決まったナイスミドルな先生のポートレイト満載。「病んだ子どもたち」の、いかにもなイメージ写真。最初の方に大きな文字でキャッチコピー風の決め台詞が収められ、あとになるとかなり大きな活字で本文が続く構成…本当に昔のアイドル本そのままである。

昔だったら、その作りだけで拒絶反応を起こしただろう。だがある程度歳をとってくると、物事の裏も見えてくる。
もしこの人が名誉や賞賛を強く求めているのなら、決してこういう本の作り方はしないだろうと思ったのだ。もっと活字中心で、自分の経験や哲学を滔々と述べる、いわば大人向けの本を書いたはずだ。シリアスな内容から言っても、その作り方の方が普通だろう。
それをこんなアイドル本のような作りにしたのは、この人の視点が子どもたちに向けられているからではないかと気づいたのだ。学校をドロップアウトして夜の街にたむろするような子どもたちが、活字がぎっしり詰まった本を買って熟読してくれる可能性は少ない。それよりはこんな「読む」というより「見る」という方がふさわしい構成にして、立ち読みで全部読む事さえ可能にした方が、より多くの子どもたちにメッセージが届くに違いない。このアイドル本的な作りは、そんな「名を捨てて実を取る」手段ではないのか? そこまで考えているとすれば、この人は本気だと思ったのだ。
そう言えば実際に買う前、下北沢の本屋で『夜回り先生』がかなり立ち読みされて古びた状態で一冊転がっているのを見た。本屋にとっては迷惑極まりない話だが、今にして思えば、そんなことからも先生の目論見が成功している事がわかる。

              *

最初に読んだのはたまたま『夜回り先生と夜眠れない子どもたち』の方だったが、これは失敗だった。やはり書かれた順番通り『夜回り先生』から読まないと、誤解を招く点がある。『夜回り先生』には、『夜回り先生と夜眠れない子どもたち』で感じた幾つもの疑問に対する答が、ちゃんと書かれていた。

この2冊を読んで、何よりも驚ろかされたのは、水谷先生が心に抱えている闇の大きさだった。
なぜ彼は、傷ついた子どもたちの人生にここまで深く関わろうとするのだろう? もちろん教育者としての責任感や博愛的な精神もあるに違いない。名誉心や個人的なプライドだって、少しくらいはあるかもしれない。ここまでやってしまった以上、今更引くに引けないという気持ちだって、ないわけではないだろう。
しかしどう考えても、そのような理由だけでこの人の行動を説明するのは不可能だ。普通の責任感や名誉心から、学校の教え子でもない子どもの身代わりとして、自分の指を暴力団に差し出せる人はいない。

では何が先生を、そのような行動に駆り立てているのだろう? 

それはこの人自身が、心の中に子どもたちと同等以上の深い傷を抱えこんでしまっているためだと思う。

最初はおそらく普通の責任感や弱者に対する共感から出発したものだろう。エリートコースに乗った生徒ではなく、家庭の事情などでボロボロになっている子どもたちに彼が関わろうとした最初の動機は、時々綴られる孤独な少年時代の経験からある程度理解できる。彼は自らの孤独を癒すために、虐げられ子どもたちに近づいていったのだ。そこまでは必ずしも珍しい話ではない。

だが『夜回り先生』に収録されている「闘いの出発点」のエピソードを契機に、先生の行動は、普通の教師の枠を超えた、殉教者のような領域に足を踏み入れていく。

「闘いの出発点」は、極貧の家庭に生まれ育ち、それが理由でいじめにあったことからシンナーに逃避した少年のエピソードだ。先生は彼がシンナーと手を切るための手助けをするが、結果的にはうまくいかず、しかも私憤に駆られて彼に冷たい態度を取ってしまう。「先生、今日はつめてえよ」…その一言を残して、少年は数時間後ダンプカーに飛び込んで死んだ。

「私が殺した最初の子ども」。先生ははっきりそう書いている。

この一件から先生は、自分に出来る事と出来ない事を見極め、自分の限界を超える部分は専門家である医師などの力を借りるようになる。そして子どもたちの救済を続けていく。


水谷先生との出会いによって救われた子どもは何百人、何千人にも及ぶだろう。

だがそれでも全ての子どもを救えるわけではない。

先生が介入した結果、死に追いやってしまった子ども、破壊してしまった家庭も決して少なくない。


著書には、成功のエピソードも失敗のエピソードも収められているが、失敗のエピソードの方が、明らかに強い感情が込められている。

おそらく彼は、そうやって一つ過ちを犯すたびに、償いとして、子どもたちの救済行動へさらにのめり込んでいったのだろう。


「人間のやる事だから全てがうまくいくはずはない。救う事に失敗した子どもより、成功した子どもの方が遙かに多いのだからいいじゃないか。何もしなかったら、失敗もないが、成功もないんだよ」そう言う人もいるだろう。

だが先生は、自分が結果的に死に追いやった子どもたちのことが、どうしても忘れられないのだ。子ども一人一人の命は換えが効くものではない。だから百の成功によって一の失敗が消えて無くなることもない。

その痛みを少しでも癒そうとして、あるいは罪の意識に急き立てられるようにして、水谷先生は子どもたちの救済に奔走する。その中でまた違う子どもを死に追いやり、それを償うため、さらに多くの子どもたちを救おうとする…まるでシジフォスの神話だ。自分で気づいているかどうかは知らないが、おそらくこの人は、そんな心の痛みに駆られながら今の生活を続けている。


「まじめな子ほど、まじめにドラッグを使い、まじめに壊れていく。心に傷を持った子ほど、その傷を埋めるために必死でドラッグを使う。そして死んでいく」


水谷先生、それはあなた自身の姿でもあるんですよ。


そんな先生の行動を知って、すぐに思い浮かべた話がある。藤原新也の著書『東京漂流』に書かれていたエピソードだ。

以下は今から9年前にクシシュトフ・キェシロフスキについて書いた文章において、要約/引用したものだ。同じ文章ばかり引っ張り出してくるのもまことに芸がない話だが、やはりこれほど水谷先生の生き方とリンクする話はないと思うので再掲する。

           *

藤原はインドを旅していたときに、ある光景を目撃する。親に
先立たれ、自らもコレラで死にかかっている子供を、看護婦が
抱きしめ、口移しによる人工呼吸をしていたのだ。そんなことを
したら、彼女にも病気が移ってしまう。それは理性を失った、
馬鹿げた行為であると藤原の目には映る。

その光景が忘れられない藤原は、二ヶ月後に彼女のいる病院を
訪れ、院長と面会する。看護婦の安否を尋ねる藤原。それに
対して院長は「彼女の生死を問うことには何の意味もありま
せん」と答える。
もし彼女が死んでいたら、彼女の行った行為は馬鹿げたもので
あると考える藤原に、院長はこう答える。
「私たちに死を救うことは出来ません。出来るのは『死の状態を
 救う』ことだけです。彼女は自らの行為によって、その子供の
 死の状態から、孤独や恐怖、苦しみや不安を取り去り、その
 死に意味を与えようとしたのです。それは大きなものの流れに
 逆らう行為ではなく、死にゆく人を、その流れの中心の方へと
 押しやる手助けなのです」

藤原はさらに問う。
「ではそれによって彼女が死ぬことになったら、今度は誰が
 彼女の死に意味を与えるのですか?」
院長は答える。
「それはあの子供です。彼女は子供を救うことで、自らも救われ
 ようとしたのです。そのことを彼女自身が理解しているなら、
 たとえその行為によって彼女に死が訪れたとしても、その死は
 孤独ではないし、不幸でもありません。私たちは目の前に救いを
 求める人々がいることで、生きる意味を与えられているのです。
 もし彼女が命を落としたとして、その死の状態を救い、意味を
 与えるものがあるとすれば、それはあの子供です。あの子供は
 自らの死によって、看護婦の生と死の両方を救ったのです。この
 ような病院で、死を目前にした人々を前にして働いていると、
 自然に『救う』とか『助ける』といった言葉を使わなくなって
 きます。それはここで働くことによって、実は自分自身が救わ
 れているという事実に少しずつ気が付くようになるからです」

最後にもう一度彼女の安否を尋ねる藤原に、院長はこう答える。
「彼女の生死を問うことは無意味であると話し合ったばかりでは
 ありませんか?」

            *

水谷先生は多くの子どもを救ってきたし、これからも救っていくだろう。

だがその行為によって、先生自身が救われているのかどうか、僕にはわからない。

先生が救った子どもたちだけでなく、救えなかった子どもたちによって、先生の生と死に意味が与えられることを祈らずにはいられない。


            *

(追記)

最初にここまでの文章を完成させ、別の場所にアップロードしてから知ったのだが、先生は5年以上前から胸腺リンパ腫を宣告されているそうだ。最初の宣告からすれば、すでに亡くなっていても不思議はないらしい。しかも「身動きが取れなくなるから」という理由で、一切の治療を拒否しているそうだ。

確かにこの先生は、藤原新也が出会ったインドの看護婦と同じ場所に立っているのだろう。


http://www.sanctuarybooks.jp/mizutani/

http://www.mainichi-msn.co.jp/kurashi/kokoro/yomawari/


(2005年5月初出)

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