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05/26/2005

【演劇】『エレファント・バニッシュ』2003.6.1

『エレファント・バニッシュ』
2003年6月1日(日) 14:00〜 世田谷パブリックシアター


村上春樹の短編小説をコンプリシテのサイモン・マクバーニー(僕は良く知らないのだが、とにかくたいへんな人らしい)が演出した話題の舞台。村上人気なのかマクバーニー人気なのか、はたまた堺雅人人気なのかよくわからないが、日曜である本日は若い
観客を中心に超満員。立ち見席を求めて大勢の人が並んでいた。場所は世田谷パブリックシアター。こちらの大きい劇場は初めて入ったが、後ろや端の方でもかなり見やすい構造になっていて、演劇やパフォーマンス用の劇場としてはかなり良い。場内の凝ったデザインも気に入った。ただしこれだけ素晴らしい器を用意しながら、なんで椅子だけは例によってあんな固い椅子なんだ。わずか1時間40分ほどの芝居なのに、尻が痛くなった。3時間を超えるような長物ではかなり辛いだろう。


さて内容は、村上春樹の短篇「象の消滅」「パン屋再襲撃」「眠り」の3篇を舞台化したもの。最初に「象の消滅」の前半が入り、それから「パン屋再襲撃」「眠り」のエピソードが入って、最後は「象の消滅」後半のエピソードで締めくくられる構成になっている。

まず圧倒させられるのは「演出」だ。何が凄いと言って、舞台美術の活用の仕方が半端ではない。そんなに大きなセットは組まれていないのだが、冷蔵庫やベッド、障子、すりガラスといった小道具が幾つもの役割を果たし、テレビモニターや舞台後方に映し出される映像が、本来空間的な移動が出来ない演劇の物理的限界を取り払ってしまう。
さらに凄いのは、舞台を上下方向までフルに使ってしまう空間センス。役者はワイヤーに吊られて、垂直になったベッドに水平に立つわ(意味わかる?)、宙に浮かぶわ、グルグル回転するわ、空間はおろか重力の制約からも舞台を解放してしまうアイディアには驚嘆するばかりだ。
そして先日見た『AMERIKA』もビックリの4人1役! その4人が同時に舞台に立ち、1人が主人公の心の声となり、あとの3人が主人公の日常をそれぞれに表現しているのだ。かなり前の方に座っていない限り、役者の細かい顔立ちまでは判別出来ないという演劇の欠点を逆手に取った、まさにコロンブスの卵的アイディアだ(ちなみに僕が座っていたのは前から7列目の中央ブロック。この席でも、ほとんど誰が誰やら区別はつかない)。

演劇の枠組みをぶち壊すアイディアの連続。しかもそこに奇をてらったあざとさは無く、物語に即して、ごく自然に、スマートに、斬新なアイディアが次々と溢れ出てくる。この舞台だけ見ても、このサイモン・マクバーニーという演出家の凄さはよくわかる。


そんな驚きに満ち溢れた『エレファント・バニッシュ』。ではこのまま手放しに絶賛して終わりかというと、そうでもないから弱ってしまうのだ。


この舞台を見る前に予習のため村上春樹の原作を3篇とも読み直したのだが、これが裏目に出てしまった。何が裏目に出たかというと、この舞台のストーリーと台詞、見事なほど「原作そのまんま」なのだ。

正確に言えば、導入部と終盤には、主人公がキッチンについて語る舞台オリジナルのシーン/台詞がある。原作を読んだ者としては、あの3つの小説がどんな風に脚色されているか固唾を飲んで見守っているわけで、その期待を高める導入部だ。ところが導入部を経て、いざ「象の消滅」パートが始まると、そこで語られる台詞はほとんど原作そのままになってしまう。

「パン屋再襲撃」に至っては、何から何まで原作通りと言ってもいいほどだ。最初の襲撃シーン(回想)をはじめ、原作よりはコミカルな味付けがなされているが、それ以外に付け加えられたものは何もない。

さらに頭を抱えてしまうのが「眠り」のパートだ。存在することすら忘れていたこの短篇を読み返した時、その恐ろしさに驚嘆したものだ。初めて読んだ頃は、まだこの作品の奥深さを理解していなかったのだろう。日常の隣にポッカリと口を開けた底知れぬ暗黒を描く、見事な不条理ホラーだ。
この舞台版は「象の消滅」同様限りなく原作に忠実。短篇にしては少々長いので、若干カットされた部分がある程度だ。ところが、いざこの物語が舞台上で役者によって演じられると、原作にあった恐ろしさはきれいに雲散霧消してしまう。なぜだ?なぜこんなに怖くないんだ?と頭を抱える他ない。主人公が「死とは暗黒の中で永遠に覚醒し続けている事ではないか」と思い至るところや、ラストで何者とも知れぬ黒い影に車を揺さぶられるところなど、小説版「眠り」にあった、暗黒に吸い込まれていくような恐怖を、この舞台に見いだす事は出来なかった。
これは他のパートにも言える事なのだが、やはり村上春樹の書く文章は、基本的に舞台に向いていないのだと思う(マクバーニー氏は英訳で読んでいるから、この辺のニュアンスはわからないのだろう)。小説として読めばすんなり心に入ってくる文章も、舞台で役者によって喋られると違和感ばかりがつのるばかり。そもそもそれらの文章の大部分は「台詞」ではなく、主人公の心境を一人称で語る文章なのだ。それを大勢の役者と観客が囲む中、大きな声で役者が話すのだ。違和感を感じないはずがない。

そして最後は「象の消滅」後半。相手役の宮本裕子という女優がなかなか色っぽくて良かったのを除けば、ここでも特筆すべき事はない。


そして根本的な不満は、この3本の作品がただ並列に並んでいるだけで、相互の関係が何も存在しない事だ。これはいくら何でもあんまりではなかろうか。
この3篇が並ぶ事で一つの世界観を打ち出しているという意見もあろうが、本当にそうだろうか? 「象の消滅」と「眠り」はまだしも親和性があるが、「パン屋再襲撃」は明らかに浮いているだろう。代わりに「TVピープル」を入れるならまだ話はわかるし、「TVピープル」と「眠り」は、脚色すれば一つの物語にまとめる事さえ可能なはずだ。しかし「象の消滅」「パン屋再襲撃」「眠り」という3本を並べる事で一定の世界観が描き出されているとは到底思えない。


さて、ここで一つ大きな疑問が出てくる。こんなにも原作そのまんまで脚色らしい脚色をしていない脚本を書いたのは一体誰だ?と思ってプログラムを見ると、どこを探しても「脚本」という文字が存在しないのだ。
これはどういうことだ? つまり役者もスタッフも村上春樹の原作本をそのまま脚本代わりに使用し、あとはマクバーニーの演出によって、舞台ならではの様々な効果を盛り込んでいったという事か? 脚本のクレジットが存在しない以上、そういう事なのだろう。だとすれば台詞や物語が原作そのまんまというのは、ある意味当たり前か。ここには「演出」は存在しても「脚色」という作業は存在していないのだから。


この舞台は見る価値があるかどうかと問われれば、「見る価値はある」と思う。舞台演出の見事なアイディアだけで入場料分の価値はあるからだ。実験的であると同時にエンタテインメントとしても成立している。
だがここに「物語」としての感動(ここでは主に恐怖や不条理なのだが)を見いだすことは期待しない方がいい。少なくともこの舞台が、村上春樹の小説の本質的な部分をつかみ取っているとは思わない方がいい。原作をお持ちの方には、あえて読み返さずに劇場に行く事をお薦めする。細かな内容を忘れていれば、それでも少しは新鮮な感動が得られるかもしれないからだ。


(2003年6月初出)

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