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04/09/2005

【映画】『人生は、時々晴れ』小さな救済

今までにかなり多くの映画を見てきたつもりだが、これほど心に痛い、身につまされる映画を見たのは、ひょっとすると初めてかもしれない。暗闇でいきなり不意打ちを食らったような衝撃だ。

1996年に『秘密と嘘』という傑作を放ったものの、その後の『キャリア・ガールズ』はまったくの期待外れ。続く『Topsy-Turvy』は日本未公開。もはや名前さえ忘れかけていたマイク・リーから、突然こんな作品が届けられることになろうとは… 
だがこの作品を見たのが10年前だったら、きっとこれほど心を動かされることはなかったと思う(10年先についてはよくわからない)。まるで狙い撃ちしたかのように、この映画は今この時期に見るべき作品として、僕の前に現れたのだ。


ロンドンの貧しいタクシー運転手の家族を中心に、同じアパートに住む3つの家族の悲喜劇を描いた作品。貧しい庶民の閉塞した日常描写は、マイク・リーと言うよりも、ケン・ローチの映画を見ているような印象だ。
だが最後まで見れば、これが紛れもないマイク・リー作品であることがわかる。そこには『秘密と嘘』に通じる「優しさ」があり、ストレートな感情の発露と、その結果としてのコミュニケーションの確立、そして諦念から生み出される「救い」がある。少なくとも表面的には酷薄な現実だけを提示して終わるケン・ローチ作品とは、その点が決定的に違う。

主人公のフィルも、その家族も、他の登場人物も、皆生きることに不器用で、何かにつけて貧乏くじを引いているような人たちばかり。最近流行りの言葉で言えば、人生の「負け組」に属する人たちだ。もちろん彼らとて好きで負け組に入ったわけではない。だが一発逆転のチャンスなどどこにもなく、ただ日々の生活に追われていく内に、心も貧しく枯れたものになっていく…

フィルは何とか生活するのがやっとのタクシー運転手。ろくでもない客を乗せ、黒人の経営者にこき使われている毎日で、自分でも知らない内に心が空っぽになっている。妻のペニーはレジのパートタイマー。生活の疲れが嫌と言うほど顔に滲み出ている。娘のレイチェルは老人ホームの清掃係。父親に似たたいへんなデブで、そのコンプレックスもあってか、いつも無口で心を固く閉ざしている。恋人もおらず、週末は家のベッドで本を読んで過ごしている。息子のローリーも同じくたいへんなデブで、近所の若者から馬鹿にされてばかり。今は働いてもおらず、家族との関係もギスギスしている。
なるほど、貧しいとは言え一家四人何とか食っているようだし、その悩みや苦しみは致命的とは言えない。だがその「極端に不幸ではないが、間違っても幸福ではない」飼い殺しのような状態が、梅雨時の湿気のように彼らの体にベッタリとまとわりつき、生命の輝きを奪い取っている。

主人公のフィルもさることながら、ほとんど台詞無しで救いようのない鬱屈を表現しきったレイチェル役のアリソン・ガーランドが凄い。映画のオープニングで彼女が画面に現れただけで、言いしれぬほどの鬱屈が漂ってくる。
清掃員の同僚で、これまた思いきり生きることがヘタそうな初老男(自分が老人ホームに入っても良さそうな歳なのに、それも叶わず清掃の仕事をしている)からアプローチをかけられるエピソードの痛さは絶品だ。「確かに自分はデブだし、性格も暗くて男にもてない。だからと言って、自分の相手は、こんな偏屈な、もう未来などない老人しかいないのか。しかもこの人は、自分が本当に好きなわけではなく、ただ手頃な女として自分の体を狙っているだけではないか。確かに自分は大した女ではないけれど、これではあまりにも自分が惨めではないか…」そんな台詞が、彼女の無言の表情から奔流のごとく溢れだしてくる。

そのエピソードに限った話ではない。この映画は、むしろ台詞がない場面ほど饒舌であり、「無言の台詞」を耳ではなく心に直接語りかけてくる。フィルが海に向かうシーンにしても、あとでその時の気持ちを説明する台詞が出てくるが、そんなものはなくても十分過ぎるほど彼の気持ちは伝わってくる。

延々と続くリアルな閉塞状況。今は何とか生活できているが、このままでは先々どうなるかわからないという不安… ある日、その不安が現実のものとなる。フィルの一家に降りかかった思わぬ災厄。だがそれをきっかけに、彼らはこの閉塞状況を正面から見つめ、人生をもう一度やり直す道を模索し始める…

一歩距離を置いて眺めた時、実はこの映画の物語構造が、非常に古典的なものであることに気づく。絵に描いたような起承転結の構成。予定調和とすら言えるクライマックスの救済… そういう点だけ見れば、凡庸とも言える作品である。
にも関わらず、この映画は、凡庸どころか、見る者の心を鷲掴みにする力を持った、希に見る傑作となっている。これは、フォーマットがどんなにありふれたものであっても、演出や演技を磨き上げ、ドラマの密度を高めていくことで、素晴らしい映画を作ることが可能であることを証明するものだ。それは映画作りのテクニックという以上に、マイク・リーや俳優陣が「人生」というものをとことん深く見つめ、自分自身の問題として考え抜いた結果、生まれてきたものだと思う。なるほど、この起承転結の構成そのものは誰にでも考えられるものだ。だがその構成の中身を、これほどまでに人生の真実に溢れた物語、演技、台詞で満たすことは誰にでも出来るものではない。

この映画を見る者は誰でも、物語の最後に何らかの救済が訪れることを予感している。あまりにも身につまされる辛い現実。それでも映画を見続けるのは、最後にきっと何らかの救済が示されると信じているからだ。それは古典的なヒーローものを見る感覚によく似ている。並はずれた力はあるが、それをみだりに使ってはいけないと自覚しているヒーローが、悪漢の横暴にじっと耐え、「これ以上黙っていれば、他の人々も傷つけることになる」とわかった時、ついにその力を爆発させ、悪漢を倒していく…そのクライマックスに対する期待と同じだ。ヒーローがただ我慢を続け、何もせぬまま映画が終わってしまったのでは、観客のフラストレーションが爆発することになる。最後にヒーローが大活躍をしてくれるからこそ、観客もそれまでじっと我慢に我慢を重ね、その度合いが大きいほど、最後の解放感も大きくなるのだ。
この映画を見ている観客の気持ちも、それと同じだ。「これだけ嫌な現実ばかりを見せられたんだ。最後にはきっと何らかの救いがあるに違いない。それがなかったら、一体何のための映画なんだ。何のためにこんな辛い時間を堪え忍んでいるんだ」…そうやって、最後に訪れるであろう救いを待ち焦がれているはずだ。

だが次第に不安になってくる。この映画が、あまりにも現実的だからだ。ハリウッド映画に代表されるような、映画らしい映画(現実離れした作り話)なら、どんな救いでも描くことが出来るだろう。「現実はそんなにうまくいかないよ」と鼻白むにせよ、「嘘だとわかっちゃいるけど、何となく元気を与えられたような気がするな」と嬉しくなるにせよ、それなりの救いを提示して、とりあえず「映画」として完結させることは可能だ。それがごく普通の映画なら。
しかしここまでリアルに現実の痛みを描いてしまった作品が、安易な救済を提示することは許されない。だからこそ見る者は不安になる。「この映画は、本当に納得のいく救済を描く事ができるのだろうか? もしそれが出来なかった場合、自分はこれだけ見たくもない現実を突きつけられた上で、精神的な荒野に置き去りにされるのだろうか?」そんな恐怖さえ感じ始める。そもそもこの物語に何らかの救済を提示することは、「映画の中における、ドラマとしての救済」ではなく「現実に対する効力を持った救済」を提示することに他ならない。そんなことが本当に可能なのか?

そして訪れるクライマックス。

驚いたことにこの映画は、観客の渇望を満たし、なおかつ作品のリアルさを一切損なうことのない救済を、きちんと提示してのけたのだ。

その救済がどんなものであるかは、自分の目と耳で確かめて欲しい。あれをどう受け止めるかは、人によって違うだろう。少なくとも僕には、これ以外ありえないだろうという、神業のような回答としか思えなかった。


言うまでもないことだが、その救済は、目の前の問題をきれいに解決するような非現実的なものではない。それどころか、物理的な問題は最後に至っても何一つ解決されていない。そこで示されるものは、不幸を解決する手段ではなく、不幸が避けられないものであるにも関わらず、人生を生き続ける意味は何なのかという回答だ。
それを知ることで、人は不幸を解決できなくても、不幸に耐えて生きていける。そして自らを精神の檻に閉じこめて、不幸を倍増させる事だけでも食い止められる。


最初にケン・ローチの名前を出したので、ちょっと比較してみると…ケン・ローチという人は、心の底では「大きな救済」が存在すると信じ、その救済がもたらされぬ現実に怒りをつのらせている人だと思う。あまり詳しくは知らないが、バリバリの左翼だという話も、彼の映画を見ていればごく自然に納得できる。もちろん彼は政治活動家である前に優れた映画作家であり、政治的メッセージが人間描写を圧迫するようなことはない。しかしどの映画を見ても、そこには左翼的な思想に根ざす「大きな救済」への期待と失望が見え隠れしているのも確かだ。
一方、マイク・リーという人は、端から「大きな救済」など信じていないように見える。彼の目に映っているのは、平凡な人間たちが抱える日常的な不幸、そして人間同士の絆が生み出す「小さな救済」だけだ。あるいは「大きな救済」というものも存在するのかもしれない。だが現実に自分の身の回りで起きている不幸は、もっと小さなものであり、それは政治の改革などによって解決できるものではない。たとえ社会体制が変わったとしても、自分が見つめているような日常的な不幸は後から後から生まれてくるだろう。だからこそ私は、英雄的な歴史とも政治的なメッセージとも無縁の「小さな救済」を描き続けるのだ…彼は、そんな風に考えているのではなかろうか。

ケン・ローチはあるべき救いがないことに怒りをつのらせる。心の底で「大きな救済」を求め続ける彼は、だから映画のラストを悲劇的なものにせざるをえない。
一方「大きな救済」など眼中にないマイク・リーは、人間同士の中から浮かび上がる「小さな救済」だけを見つめ続ける。それを見つけ出し、そっと提示することが彼の作品のテーマなのだ。だからこそ彼の映画は、ケン・ローチの映画にはない明確な「救い」がある。いや、その「救い」を提示するためにこそ、彼は映画を撮っているのだ。


今年のベストワンは『めぐりあう時間たち』以外にありえないと思っていたのだが、この『人生は、時々晴れ』ALL OR NOTHINGは、それとベストを争うことになるだろう。

映画的なマジックに満ち溢れた『めぐりあう時間たち』、現実そのもののようなリアリスティックな描写が続く『人生は、時々晴れ』。手法としてはまったく正反対の2本が、非常によく似たテーマを持ち、同じような感動を与えてくれる…映画の表現方法について、人生の複雑さと単純さについて、思いを馳せずにはいられない。


(2003年7月初出)

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