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04/15/2005

【映画】『ふたりのベロニカ』実は技巧派キェシロフスキ

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ついに始まったキェシロフスキ・コレクション。初日の今日は、特別上映作品として8日と9日の2日間だけ上映される『ふたりのベロニカ』と『I'm so-so』の2本を見た。
10時前にBunkamuraに着いたらすでに映画の券を求める人が長蛇の列をなしている。6階に上がっても、また裏の階段に並ばされ、チケットを買うまでに時間のかかることかかること。しかもこれほどの大混雑にも関わらず、上映はル・シネマ1(150席)ではなくル・シネマ2(126席)なのだ。前日にそう決め込んでビデオプロジェクターなどを入れてしまったため、フィルムだけ掛け替えて劇場を1にするということが出来ないらしい。いつもは定員以上入れないところを、特別にある程度の立ち見客を入れるようにしていたが、今日明日の2回しかやらない『ふたりのベロニカ』や『I'm so-so』は、朝から並んだのに見られない人間が相当数出た事だろう。 
前の方に並んでいたお兄さんが、このあまりの混雑とスタッフの手際の悪さに「こっちは飛行機で来てるんだよ! 『中国のお針子』なんか止めちまえよ! 俺はもう絶対にBunkamuraなんか信用しないからな!」と激怒していた。『中国のお針子』もかなり客は入っているようだから、上映をやめる必要は全くない。だがこの作品は普通のロードショーで、一日に何回も上映されるし上映はまだこれからも続くのだから、小さい劇場に回ったとしても被害は少ないだろう。しかし今日明日1回ずつしか上映されない『ふたりのベロニカ』と『I'm so-so』は、今日を逃せば見られないという人が多いはず。それを朝から並んで見られなかった人はたまるまい。ル・シネマのスタッフは、明らかにキェシロフスキ・コレクションにこれだけ人が集まると思っていなかったようだが、たった2回しか上映されない『ふたりのベロニカ』と『I'm so-so』が上映される初日にかなりの客が押し掛ける事など火を見るよりも明らか。それをわかっていなかったとしたら、劇場スタッフとしての才覚を疑われても仕方あるまい。
ついでに言えば、僕がチケット2枚(3400円)買うのに5500円出したら、お釣りが「1100円」返ってきた。すぐに「2100円の間違いでしょう」と抗議したが、編成を決めるトップの方からチケットを売る下の方まで、よくもまあこれだけ無能な人間が集まったものだ。
(書き方がいささか厳しすぎると思う人もいるかもしれないが、ル・シネマの客さばきの悪さやトンチンカンな対応は、何も【今回に限った事ではない】という事情をご理解いただきたい)


                *


整理番号は61番だったが、皆後ろから座っていくせいか、おおむねベストポジションに近い席を確保できた。上映前に来日できなかったイレーヌ・ジャコブへのインタビュービデオが12分ほど流れる。久し振りに見るジャコブは、さすがに老けたものの、表情はイキイキとしていて普通に可愛らしい女性になっていた。しかし『ふたりのベロニカ』の奇跡としか言いようのない魅力は望むべくもない。
キェシロフスキに関する話の内容は、ごく当たり前の事ばかりで、特筆に値するものは何もない。最後にこの映画を見た2年半前に、イレーヌ・ジャコブは「巫女」あるいは「月」のような存在であり、それ以上のものではないと書いたことがあるが、このビデオを見て、あらためてそう思わずにはいられなかった。『ふたりのベロニカ』や『トリコロール/赤の愛』におけるジャコブの魅力は、あくまでもキェシロフスキが描こうとしたミューズ像を完璧に体現した結果なのだ。彼女はキェシロフスキの発した光を、一点の曇りもなくスクリーンに反射する優秀な「鏡」に過ぎない。光を発したのはあくまでもキェシロフスキであり、鏡そのものが光を発することはない。『ふたりのベロニカ』であれほどの奇跡をスクリーンに表出した彼女が、キェシロフスキについてかくも凡庸な言葉しか発しえず、他の映画での彼女がベロニカの10分の1にも満たない魅力しか出せない事実からも、それは明らかだ。イレーヌ・ジャコブ本人は、あくまでも普通に可愛い女性であり、ごく平凡な女優でしかない。キェシロフスキから発せられた光を正確に受け止め、スクリーンに反射したあの瞬間だけ、彼女はいかなる名女優も敵わない魅力を映画史に残すことが出来たのだ。キェシロフスキ亡き今、その奇跡が再現される事は二度とあるまい。

さて、いよいよ『ふたりのベロニカ』本編だ。


                *

この作品は今権利関係の問題で基本的に上映が出来ないらしい。それをポーランド・ナショナル・フィルム・アーカイヴから借りだしての特別上映。
もちろん日本語字幕は付いているが、以前見たプリントとは明らかに違うもので、初めて無修正版(ボカシなし)を見る事が出来た。ただしフィルムの状態はかなり悪い。画面の雨降りは我慢できるが、ベロニカのソプラノが高まると、音声のノイズまでそれに合わせて高まるのはさすがにいただけない。権利関係の問題というのが具体的にどういうことかは知らないが、早くそれが解決されて、ニュープリントによる上映とDVD化が行われることを望むぱかりだ。

この映画を見るのは、多分5回目くらいだと思う。だがたった5回しか見ていないとは思えぬほど、この作品は自分という人間にとって切っても切り離せぬ存在となっている。僕はかつてそれを「この映画は自分にとって、失われた魂のかけらなのだ」と表現した。その思いは今もまったく変わらない。
だから僕はこの映画に対して通常の批評や感想を述べる事など出来ない。『ふたりのベロニカ』は、僕にとって、その存在をただ「感じる」映画なのだ。フランスのベロニカがポーランドのベロニカをただ感じたように。

…と、これで終わっては、2年半前に書いた文章と全く同じになってしまうので(笑)、蛇足を承知で幾つかの雑感を書き加えてみよう。

久し振りに見てまず感じたのは、「この映画、ここまで濃密な映像の連続だったのか」という驚きだ。例えばあのガラス玉を通した風景など、最初から予定されていたものなのだろうか。あのような映像を思い描くそのイマジネーションにまず驚かされるが、相当な工夫をしないかぎり撮しようのないトリッキーな映像やカメラワークが、他にもあちこちに現れる。キェシロフスキについて語ろうとすると、どんな監督にもましてスピリチュアルな言葉が溢れてくるが、『デカローグ』や『トリコロール』シリーズを思い浮かべてみても、実は非常に精緻で技巧的な映画作りがなされている。ただその技巧が、キェシロフスキ映画以外にはあまり応用の利かない極端に個性的なものであるため、そういった観点から語られる事が少ないのだろう。キェシロフスキの映画技法については、今後もっと詳しい研究がなされるべきだと思う。
あのキューブリックが『デカローグ』を「この20年間で最も好きな映画」と絶賛していたのには、その作風(とりわけ人間というものに対する視点)の違いから少々違和感を覚えたものだが、映画界きっての技巧派として知られるキューブリックにとっても、キェシロフスキの個性的な映画技法は大きな尊敬の対象だったのかもしれない(まあ『デカローグ』は『ふたりのベロニカ』ほど技巧に溢れているわけではないが)。
また作風の違いという点についても、2人が共に故人となった今振り返れば、実は少なからぬ共通点を持っていた事に気づく。例えば『デカローグ』の第1話など、キューブリックが大予算と誇張されたストーリーを駆使して描き続けたテーマを、特撮一つない1時間の短篇によって軽々と描いてしまったものと見る事も可能だ。世界と人生に対するペシミスティックな視点や、冷え冷えとした映像の肌触りなど、実によく似ている。
そしてこの2人が共に描き続けた物語は、「ちっぽけな人間の生が、(時間・文明・暴力・偶然・死など)個人のコントロールを超えた巨大な力によって翻弄されていく姿」に他ならない。ただ、人間に対してどこまでも皮肉で冷たい視点を崩さず、登場人物との間に距離を置こうとするキューブリックに対し、キェシロフスキは「私にあなたを救う事などできない」という諦念に支配されながらも、その眼差しには人間に対する愛情、孤独に苦しむ人々に対する共感がにじみ出ている。この部分が2人の映画の印象を大きく異なったものにしている。
そのような違い故に、この2人の巨匠が比較して語られることは今までほとんどなかった。だが人間に対する視点こそ正反対だが、この冷酷な世界に対する認識や描いてきたテーマは、意外なほどよく似ている。今後、この2人をコインの裏表とみなす視点がもっと出てきてもいいように思う。

また今回あらためて思ったのは、キェシロフスキ映画における「窓」や「ガラス」の重要性。これについては、少しずつ考えていこう。

しかし何度見ても謎の多い映画だ。ほとんど全編謎だらけである。今回特に気になったのは、フランスのベロニカの父親だ。ストーリー展開にはほとんど何の影響も与えないあの父親が、なぜ何度も登場するのか? なぜラストで彼の行動がベロニカ以上の比重で描写されるのか? これは初めて見た時からの疑問であり、何度見ても解けない謎だ。
ただ今回ぼんやりと気がついたのは、フランスのベロニカとポーランドのベロニカを取り巻く人間関係には、かなりの相関性があるということ。ただし比重に大きな違いがあり、ポーランドのベロニカの父親は、一応登場するもののほとんど印象に残らない。むしろフランスのベロニカの父親は、ポーランドのベロニカの叔母さんと対になっているように見える(例えば恋の告白をするところなど)。この相関関係をひもといていけば、この謎だらけの物語の構造が、少しは明らかになるかもしれない。

それにしても他のスタッフやキャストは、この物語構造を理解した上で撮影に臨んでいたのだろうか? 特に俳優達は、自分の役柄の意味を理解した上で演技したのだろうか? どうもイレーヌ・ジャコブの話を聞いていると、そうではないような気がするのだが…。だから僕は今、共同脚本家としてずっとキェシロフスキと仕事をしてきたクシシュトフ・ピェシェヴィッチに話を聞いてみたくて仕方がない。キェシロフスキ亡き後、この物語の謎にある程度まとまった回答を出せそうな人間は彼しかいないからだ。

しかしそれによって謎が解けたところで、この作品が僕の心に占める位置はほとんど変わらないだろう。僕は今そこにある『ふたりのベロニカ』を、ただありのままに愛する。キェシロフスキという、会ったこともない異国の他人が作ったこの不思議な映画は、間違いなく僕の魂のかけらなのだから。


(2003年3月初出)

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