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04/05/2005

【映画】『スリー・キングス』の本質

傑作『スリー・キングス』に対して幾つかの批判もあるようだ。

その中で特に典型的なものは、「イラク兵が虐待されるのを見て、急に米兵が正義感に駆られるのが唐突」「前半と後半で雰囲気が違いすぎる」「アメリカの正義感を振りかざしているようで鼻につく」といった意見だ。

僕がどうも引っかかるのが、この「アメリカの正義」というやつだ。何とプログラムでも加藤久徳なる映画ライターがその言葉を持ち出し、「イラク人からアメリカ政府に対する批判を受けて、徐々に疑問を抱いていくものの、アメリカの正義を彼らは信じている」だの「反戦・厭戦映画のトラウマ的兵士をさんざん見せられてきたのだ。『スリー・キングス』の明るい兵士には、見ていてホッとさせられた」だの、「こいつは一体映画のどこを見ているんだ!!」としか言いようのないトンチンカンなレヴューを書いている(こんな奴にレヴューを書かせた奴はどこのどいつだ!)。

このような意見が僕にはどうも理解できない。この映画は、僕にとってむしろ「アメリカの正義を信じてイラクにやってきた兵士たちが、皮肉にも戦後になって本当の戦争に直面することで、アメリカの政策や湾岸戦争の欺瞞を知ることになる」物語だからだ(後述するが、そこからさらに先がある)。


まず4人の男たちがイラク反体制派の味方となるきっかけは、自分たちの制止にも関わらず、目の前で一人の婦人が撃ち殺されたことによる。それに対して止むに止まれず政府軍の行為に待ったをかけ、結果的に撃ち合いになってしまう展開は、僕にはそれほど無理のないことに思えた。

まず第一に、目の前で無抵抗の女性が撃ち殺され、幼い子供がそれに取りすがって泣くのを見たときに沸き起こるのは、はたして「正義感」というような高尚なものだろうか? それはもっとシンプルな「てめえ、許せねえ!」という人間としての感情であり、「正義感」というよりも「義侠心」、いやむしろ「怒り」という言葉に近いものであろう。僕の目には、彼らの感じた怒りと、それを基にした行動は、ごく自然なものとして映った。
第二に、あれが混乱した戦時中だったらリアリティは失われたかもしれないが、本作の舞台は戦後だ。あの時のアメリカ兵たちには、当然「自分たちは戦勝国である」という奢りと自信があったはずだ。だからこそ、あれだけ大胆なことが出来たのだ。つまり彼らにとっては(少なくともアーチーにとっては)、村人を助けるという行為は、それほど大きな決心を要するものではなかったということだ(ところが戦車が出てきて青くなる(笑)。
第三に、彼らのほとんどは「実戦」、すなわち目の前での殺人に慣れていない。アーチーは設定としては職業軍人になっているが、台詞から判断するかぎり、どうも実戦経験はほとんどないようだ。それだけに目の前でいきなり女性が射殺されたことや、その亡骸に取りすがって泣く子供の姿に心を揺さぶられたことは、想像に難くない。

ここで村人を助けるのに強く反対するのがトロイだというところもミソ。彼は冒頭で面白半分のようにイラク兵を撃ったものの、痙攣する死体を間近で見て、思わず顔が引きつってしまう。彼がこの件に関わりを持ちたくないと思った理由の一つは、「殺人」という行為の生々しさをつい最近知って、これ以上血生臭いことに関わるのは御免だと思ったからだろう(他に後述するようなドラマ性を持たせるためもある)。


さて、ここで別の問題について。本作に対するもう一つの典型的な批判として、「4人が黄金目当てに出かけた割には、あまり欲得で動かないし、駆け引きらしいこともしないのが物足りない」というものがある(問題の加藤氏もそう書いている)。
実のところ僕も最初に見たときにはそう思った。ところが2回3回と見ていく内に、そんなことはまったくどうでもいい問題だとわかってきたのだ。そしてここが『スリー・キングス』という作品の評価を決定づける重要なポイントになってくる。


そもそも彼らは何のために黄金を盗もうとしたのか?

それは一言で言えば「自らを何者かにするきっかけとして」だ。

リーダーであるアーチーは、職業軍人として湾岸戦争に従軍したものの、戦闘らしい戦闘もないまま終わってしまい、将来的にも出世の見込みがないため嫌気がさして、軍を辞めようとしているところだ(これは上官との会話でわかる)。離婚したとも言っている。要するに社会的にも個人的にも、決して恵まれたとは言いがたい生活を送っているわけだ。
彼が声を掛けた、あとの3人も似たり寄ったり。短いフラッシュで、3人とも社会的には日の当たらない身であることが示されている(トロイには妻子がいるが、この事実がもう一つの大きな流れになっていく)。彼らはそんな「何者でもない自分」に嫌気がさし、その境遇を変えるため黄金を手に入れようとする。つまり犯罪映画によくあるような「強欲」という動機や、プロの犯罪者としての矜持など、最初からこの4人は持っていないのだ。これが重要なポイント。この点を勘違いすると、「犯罪映画としてはなりたたない」だの「反体制派を助けることになる展開が唐突」だのという見当違いな話になってくる。


彼らは前述のような成り行きで反体制派を助けるが、その後彼らと反体制派が行動を共にすることになる過程が非常に面白い。
アーチーたちはトロイを救出しなくてはならないので、アミールら反体制派の協力を得なければならない。彼らの命を助けたつもりのアーチーは、最初は少々相手を見下した姿勢で協力を求めるが、アミールは理路整然とそれに反論する。確かに村では助けられたが、ガスにやられた後は自分たちが彼らを助け金塊も運んだこと、そもそも自分たちがあのような目にあったのはアメリカの身勝手な政策によるものであること(この場合も、彼らが生半可な手助けをしなかったら、少なくともアミールの妻は死なずに済んだかもしれない)、所詮アーチーたちはただの泥棒でしかないこと…そのような正論に対し、アーチーはまったく反論ができない。
さらにアミールは、自分たちにも報酬として金塊をもらい、アメリカ軍の力によって自分たちをイランへ脱出させるという交換条件を出し、ついにアーチーもそれを承諾する。
このシーンに込められた意味は、「虐げられたイラク人と、それを救うアメリカ人」という、まさしく「アメリカの正義」という構図が崩れ、対等の人間同士が「戦友」として信頼を預けあったということだ。


さて、一方囚われの身となったトロイは、イラク兵から拷問を受けるが、ここにおいて彼は、アーチー以上にしたたかに、アメリカ政府とアメリカ人である自分の身勝手さを思い知らされることになる。これについて書いていたら、すべてのやり取りを描写しなくてはならないので、細かい説明は割愛。その中でも特に印象的なのは、次の2つだ。

(1)イラク兵の息子が死ぬところを、無音で冷徹に見据えたショット
(2)兵士「なぜ私に娘のことを話す?」/トロイ「同じ父親だから…」
  /兵士「私はもう違うがね」という会話

(2)については、見ていて僕もトロイとまったく同じ台詞を反射的に思い浮かべただけに、それに対するカウンターパンチには心が凍りついた。しかも兵士の息子を殺したのは、他ならぬアメリカ軍なのだ。

トロイには一ヶ月になる娘がいる。だが実のところ、彼はその時点では「生物学的に親になった」というに過ぎない。彼が本当の意味で親としての喜びや悲しみ体得するのは、まさしくあのイラク兵との対話を通してなのだ。だからこそアーチーが助けにやってきて、立場が逆転しても、トロイは自分にひどい拷問を加えた彼を殺すことが出来なかった。それは自分たちアメリカ人が、すでに「死ぬより辛い(=子供を失う)」思いを彼に与えたことへの謝罪であり、同時に「父親の心」を自分に教えてくれたことへの礼だったはずだ。「無闇に人を殺してはいかん」という、単なるヒューマニズムによる行為ではないのだ。

かつてトロイは、目の前でアミールの妻が殺され、娘がそれに取りすがって泣いていても、彼らを助けることに反対した。しかし再びアミールと会ったとき、トロイは思わず彼を抱きしめ、「娘さんのために何か出来ることはないか?」と問いかける。

あの拷問を経て、トロイの心境がどのように変化したか…それを見抜くことさえ出来ていれば、ここで思わず目頭が熱くなるはずだ。そして彼を拷問した兵士と、その行為を許したトロイの人間性も、改めて浮き彫りになってくるはずだ。


そろそろ核心部分に入ろう。


すでにある程度述べてきたとおり、この作品は全編が「様々な偏見や思いこみ、優越感の打破」というドラマに貫かれている。


「不幸なイラク人と、それを救うアメリカ人」、すなわちアメリカ人の方がイラク人よりも優位に立っているというアーチーたちの自然な思いこみは、アミールの正論によって簡単に打破される。

「自分は父親である」というトロイの思いこみは、拷問によって打ち砕かれ、そこで初めて彼は「父親の心」を知ることになる。

そもそも湾岸戦争自体が大きな欺瞞に満ちていたことは、トロイを拷問する兵士の言葉を筆頭に、幾つもの描写や台詞で描かれていく。

イラクが侵攻し、多国籍軍が助けたクウェートが、単なる被害者ではなく、実は石油の海に浮かんだ成金国家で、他のアラブ諸国の嫌われ者だったという事実は、クウェートから没収された金銀財宝、そして何よりも砂漠にミスマッチな高級車の群れで、皮肉に活写されている。

そしてアメリカ自体がイラクに負けず劣らず暴力的な国家であることは、この戦争においてアメリカが、直接であれ間接であれイラクの一般市民を大勢殺した事実によって示されている。ここにおいて完全に「アメリカの正義」は打ち砕かれているはずだ。
またこの手の描写で何と言っても最高だったのは、地下のアジトでイラク兵が見ていたテレビ番組が、よりにもよってロドニー・キング事件のニュース映像だったということ(笑)。あまりにも出来過ぎな演出なので思わず事件の発生日を調べてしまったが、恐ろしいことに時間的にはまったく無理のない設定なのだ!

「黒人は肩が弱い」とバカにされたチーフの投げたボール爆弾が、最後にみんなを救うことになる。これは、拷問するイラク兵が言う「黒人に対するお前たちの差別意識が、マイケル・ジャクソンの顔をあんなにしたんだ」という台詞とも呼応している。またイラク人への無意識の蔑視(最初のイラク人の描かれ方を見よ!)が、次第に友情と敬意と理解に変化していく物語も含め、有色人種に対する偏見の打破は、この作品の大きな流れの一つになっている。

アメリカの一般的な白人から見ればほとんど邪教にも等しいイスラム教、だがコンラッドは自らその聖堂に葬られることを望み、彼の死体は村人たちと共にイランへと渡っていく。

マスコミ報道が現実とかなりかけ離れたものであることも、当然描かれている(ただしこれは若干食い足りない)。


さらにこの作品は、そうやって登場人物(ほぼイコールで映画を見ている観客自身)の偏見や優越感を一つ一つ叩きつぶしながら、そこから生まれる「対等な人間同士の友情」を描いている。ここが映画として最も感動的な点だ。

アーチーとアミールは、あくまでも対等のパートナーとしてトロイの救出に当たる。その計画段階でも、2人はまったく互角の立場で作戦を練っている。他の米兵3人が、あくまでもアーチーの指示通りに行動しているだけに、戦勝国と戦敗国の2人が互いの知性と勇気に敬意を払いながら、共に行動している姿には思わずジンと来る。彼らは紛れもない「戦友」なのだ。

車と武器の協力を仰ぐために別の反乱軍と交渉するアーチーとアミール。ここでのやり取りが実に楽しい。「車は提供できない。米軍と違って我々にはほとんど装備がないんだ」と言うリーダーに対し、「違う人種同士だが我々は協力しあっている。一緒にフセインを倒そう。GEORGE BUSH WANTS YOU!」と叫んで盛り上げるアーチー。一緒に盛り上がるリーダー…しかしそこで一言「でも車は提供できないな」(笑)。「わかった。金を払うよ」と渋々承諾するアーチー。
前半は「反乱を焚き付けておいて後は知らんぷりのアメリカ」そのものだが、それが今回は軽くいなされてしまうという痛快さ。そして金という対価を払うことで、またも対等のパートナーとしてイラク人と手を組むアーチー…
戦いの後、アーチーが「君たちも国境へ行かないのか?」と問うと、リーダーは「いや、ここに残ってサダムと戦う」と答える。別れの握手を交わす2人。アーチーが劇中で握手を交わしたのは、アミールとこのリーダーの2人だけだ。それは彼らを真の「戦友」と認めたからに他ならない。ましてや観客は、その後もフセインがピンピンしている事実を知っている。あのリーダーは、その後おそらく殺されたであろうという思いと、アーチーの彼に対する敬意が重なって、ここでも思わず胸が熱くなる。


もう一度話を戻そう。


彼らが黄金を手に入れようとしたのは、自分の人生を変え、「何者か」になろうとしたからだ。

「人生で大切なものは何だ?」というアーチーの問いに対し、3人は「尊敬」「愛情」「神の意志」と答え、アーチーは「違う。必要性だ」と答える。逆に言えば、それらの欠落部分を補うことが、彼らの目的だったわけだ。

そして皮肉にも、彼らは「黄金」によってではなく、「黄金強奪に伴う冒険」によって、それらの必要性を満たし、「何者か」になってしまう。

つまり彼らは、黄金によって得られるかもしれないと期待したもの、いや、それだけでは得られないものまで、あの国境に辿り着くまの冒険で手に入れてしまったのだ。
それは「友情」であり、「真実(偏見/思い込みの打破)」であり、「父親としての自分」であり、「男気」(笑)であり、それら大切なものを生かすために、あえて黄金を捨てるという行為によって得られる「人間としての誇り」だ。

彼らは自分たちの人生にとって大切なものを、黄金によって得ようとした。
しかしその大切なものをすでに得てしまった彼らにとって、黄金は(もちろん無用のものではないが)もはや行動の最大の動機とはなり得ない。
「必要性」はすでに満たされたからだ。
その最後の仕上げとして、彼らはイラクの「戦友」たちを助けるために、黄金を捨てる決心をした。だからこそ、手錠をされた手で戦友たちに別れの挨拶をする3人の姿は、あんなにも熱く、誇り高く輝いていたのだ。


さて、ここで改めて疑問。

以上のような映画のどこをどう見れば「アメリカの正義感を振りかざすのが鼻につく」だの「彼らはアメリカの正義を信じている」だの「前半と後半で雰囲気が違うのが気にいらん」だの「人物に感情移入が出来ない」と言った批判が出てくるのだろう??  僕は不思議でならない。

…なんちゃって(^_^;)、実は僕も以上のような本質、ドラマの核を論理的に理解できたのは2回目の鑑賞によってだ。そして3回目で、その論理と映像表現がようやく頭の中で一致したような次第。だから初見の後に書いた「『スリー・キングス』熱い傑作」では、僕も平然と「風刺劇としての鋭さに比べ、兵士たちの成長ドラマとして見ればかなり弱い。描写はあまりにも凝りすぎて混乱している部分もある」などと書いている。

まああくまでも比較レベルで言えば、風刺劇としての鋭さが人間ドラマとしての力を凌いでいることは確かだが、以上のようなポイントを理解して見ていくと、最初はただゴチャゴチャしているだけに思えた幾つかの描写や演出も、面白いように全体の構成にはまっており、無駄な描写などほとんどないことがわかってくる。最初は、素っ気ないし盛り上がりに欠けると思えた人間ドラマが、非常に熱い血潮がたぎるものであることもわかるはずだ。


もし否定派/疑問派の方で、以上の文章を読んで何かしら思うところがあれば、ぜひとも再見をお薦めする。おそらく前には気づかなかったドラマの本質が、面白いように見えてくるのではなかろうか。


ともかく『スリー・キングス』は、斬新で、皮肉で、知的で、痛快で、ユーモラスで、男気に溢れた、感動的な傑作だ。


僕はこの映画を断固擁護する。


(2000年4月初出/2001年1月改訂)


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