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04/10/2005

【音楽】fra-foa 2002.2.2 赤坂BLITZ

2002年2月2日(土) 赤坂BLITZ


ロックは、僕にとってほとんど終わった音楽である。

少なくとも海外ロックに関しては、確実にそうだ。

最近のロックが、もはやかつてのような生命力や革新性を保てなくなり、ポップ・ミュージックの王座から滑り落ちた存在であるのは衆目の一致するところだろう。それは僕個人の実感とも一致する。

僕が昨年多少なりとも愛聴した海外ロックアルバムは、たったの2枚。スティングのライヴ盤『...オール・ディス・タイム』とR.E.Mの『リヴィール』だけだ。他にも何枚かはアルバムを買ったし、レディオヘッドの『アムニージアック』やビョークの『ヴェスパタイン』なども、優れた作品と認めるのにやぶさかではないが、愛聴する気にはなれなかった。
それらはどこか最も肝心な部分で僕の心とすれ違っていた。
レディオヘッドはライヴも見に行った。とても誠実な内容だったし、実験性と大衆性をバランス良く兼ね備えたバンドであることもよくわかった。それはビョークも同様だ。
だが徹底的に作り込まれ、グルーヴ感まで解体された彼らの音楽は、今の僕には、よく出来た工芸品のような音としてしか響いてこない。昔僕が本当にロックにのめり込んでいた頃のような興奮、切れば血の吹き出るようなリアリティを、そこに感じることはできない。
それはロックというジャンルそのものの衰退(客観的要因)、僕自身の生活や音楽的嗜好の変質(主観的要因)の両方が原因だろう。その心離れはもはや取り返しの付かないところまで来ていると言っていい。スティングとR.E.Mのアルバムにしても、かなり聴きはしたが、昔愛聴したアルバムのように、その音楽が自分の感性や思考を変革し、人生そのものを規定してしまうような状況にはほど遠い。それはあくまでも「趣味」のレベルでよく聴いたということでしかない。

では昔よく聴いていたロックはどうなのか? これは今聴いても実にいい。クイーン、レッド・ツェッペリン、ジミ・ヘンドリックス、ジョン・レノン、フリー、キング・クリムゾン、ピンク・フロイド、ドアーズ、ビーチ・ボーイズ…どれもこれも20年30年前の音楽だが、その生命力は今もまったく衰えていない。むしろ時間が立つことで、風格に磨きがかかったようなものさえある。それは映画『テルミン』や『バニラ・スカイ』のクライマックスにおいて、ビーチ・ボーイズの「グッド・バイブレーションズ」がどれほど高らかに鳴り響き、見る者の心を高揚させたかを思い出しただけでもわかるだろう。

だがそのような音楽を、今の僕が日常的に愛聴しているかと言えば、答はノーだ。

なるほど、それらの音楽は今も素晴らしい生命力を保ってはいるが、大部分はもはや僕という人間の中で消化吸収されてしまったものだ。もちろん音符の1つ1つまで熟知しているわけではないし、まだ聴くたびにいろんな発見もある(皮肉なことに、ロック以外の音楽を聴けば聴くほど再発見も多くなる)。だが新鮮さや、未知のものに出会う興奮という点で、もはや多くを期待できないのは致し方ない。第一ほとんどの音を頭の中で再現できるのだから、今更あえてアルバムを引っ張り出して聴く必要もないではないか。

カート・ボネガットの小説『スローターハウス5』の中に、このような台詞があったと思う。

「人生に必要なことは、すべて『カラマーゾフの兄弟』に書かれている。でももうそれだけじゃ足りないんだ」

そう、僕がロックという音楽に求めるもののほとんど全ては、60年代70年代の作品の中にある。

だが今こうして21世紀に生きている僕は、常に過去の音楽と向き合っているだけでは満足できないのだ。


そんなわけでこの数年、僕という人間の中でロックに対する興味は急速に衰えてきた。衰えそのものは80年代後半から始まっていたが、ここ4〜5年の衰退ぶりは、自分でも信じられないほど急速なものだった。

今や僕の中でロックは瀕死の重病人と化している。

しかもその病気が治る見込みはない。


ところが、もはや終わったと思われたロックというフィールドの中で、自分にとってのロック全盛期とほとんど変わらぬ存在感を放ち、これまでに書いてきたことを一挙に覆すようなアーティストが、二組だけいるのだ。


それがCoccoとfra-foa(フラホア)である。


Coccoに関しては、まだ書けない。僕らの前から去っていった彼女のことを思うと、今もえぐられるように胸が痛むから。


fra-foaの話をしよう。先日見たライヴの話を。
 
               *

fra-foaのファースト・アルバム『宙の淵』は、僕にとって2001年最高の愛聴盤となった。最初から気に入ってはいたが、まさかここまでのヘヴィーローテーションになるとは自分でも予測していなかった。手にしてからほぼ1年がたつが、未だに聴き飽きない。このままいくと、2001年どころか歴代で最もよく聴いた日本のロックアルバムになりそうだ。通算で2千枚程度は買ったすべてのレコード/CDの中でも、かなり上の方に来るだろう。

三上ちさ子の歌が持つ切迫したリアリティ、とりわけその歌詞の力によって、fra-foaの魅力を説明することはさほど難しくない。だが僕がここまで強く惹かれ理由は、どうしてもそれだけでは説明しきれないものがある。

僕はなぜこれほどまでにfra-foaの歌に惹かれるのか? 自分の中でもはや終わったはずの「ロック」に、なぜこれほどまでに魅了されてしまうのか?

その大きな理由が、今回のライヴでわかったような気がした。


場所は赤坂BLITZ。客の平均年齢は相変わらず若い。多分僕の半分くらい。客の入りもかなりものもので、まずは順調にファンを獲得しているようだ。女性客も少しずつ増えている。

開演は18時の定刻を10分少々過ぎた頃。まずは三上ちさ子の雰囲気がいつもとかなり違うのにビックリ。ボーイッシュなショートヘアは肩に掛かるほど伸び、服装はシンプルな白のブラウスとパンツ。しかしそんな地味な服装で消え入りそうに現れた彼女が、次第に存在感を増し、別人としか思えぬほど神々しい輝きを身にまとっていく様は、まるで魔法でも見ているかのようだった。

1曲目は「夜とあさのすきまに」。ファーストでは最初の3曲が1つの組曲のようになっており、その「結」にあたる部分の曲だ。それがいきなり出てくることで、待ったなしの気迫が会場を包む。

2曲目はもはやお馴染みの「daisy-chainsaw」。前回までは「flow」と名付けられていたナンバーだ。12月に発売された最新シングル「煌め逝くもの」の2曲目にも収録されていたが、それがあまり良くなくて「あれ? こんなにせこい曲だっけ?」と思ったが、やはり違う。CDはプロデュースが悪すぎ。ライヴはCDの100倍かっこいい。この曲は5月のライヴで、出来た当日の初披露から聴いているので、まるで小さな子供が次第に成長していくのを見るような思いだ。

3曲目は「煌め逝くもの」。Coccoのプロデューサー根岸孝旨とのコラボレーション作品だが、全然Cocco的ではない不思議な曲。CDよりもさらに輪郭が明瞭になった感じで、これがまた素晴らしい。以前とはかなりイメージの違うこの歌が、紛れもない名曲であることを再確認する。明るく軽快なリズムと疾走するメロディーの上に「暮れかけた夏の公園通りであなたとすれ違った/見知らぬ誰かと微笑んでた/あなたはもう違う時間のなか 別の道を歩き出してた/その幸せ願える強さが欲しい」という切ない歌詞がラップのようなスピードで綴られていく様は、圧倒的にユニークで感動的だ。ちさ子のヴォルテージもすでにレッドゾーンに入っている。彼女の「今」の思いが一番溢れているのは、やはりこの歌なのだろう。

4曲目は「プラスチックルームと雨の庭」。一見それほど目立たないが、聴けば聴くほど自分の中で重みが増してくる歌。あえて不遜な言い方をさせてもらえれば「この歌詞って、本当に自分以外の誰かが書いたものなの?」と言いたくなるほど、僕の心にぴたりフィットする。荒々しい演奏とヴォーカルが、その言葉に生々しい血肉を与えている。

この辺りですでにちさ子の声が出なくなることしばしば。昨年9月のライヴではもっと安定していたのだが、またもや見ている方が手に汗握るあの不安定さが甦ってきたようだ(笑)。しかし決して調子が悪いせいで声が出ないのではなく、ちさ子の中で表現に対するヴォルテージが異常なほど高まっており、肉体がそれに追いついていかないという状況が手に取るようにわかる。だから声は出ていなくても、その声が枯れ果てた向こう側に彼女の強烈な歌が透けて聞こえる。

5曲目は「リリイ」。その後も2曲ほどの新曲が続く。新曲は軽めのリズムと優しいメロディーを持ったものが多く、ファーストののたうち回るような重いグランジロックは影を潜めている。

そして中盤に「青白い月」が炸裂する。この曲をやられるともうダメだ。僕の頭は真っ白になる。ちさ子は本当にこの歌を歌うために生まれてきたのではなかろうか。今日は特に一つ一つの言葉を慈しむように歌い上げていた。

その後も何曲かの新曲(まだCD化されてない新曲は6〜7曲程度だったと思う)と『宙の淵』からの曲を織り交ぜながら突っ走る。ラスト1曲前は「宙の淵」。「僕の体は 宇宙にあるものから出来ているから/僕が消えても また別のものになるよ/生まれ来るだけで罪になると/嘆く君はとてもかわいいから/僕はずっと君のそばにいるよ」というあの歌詞が、これほどのリアリティを持って歌い上げられたことはない。その後に「月と砂漠」を思いきりヘヴィーに決めて本編終了。

だが最大の感動はその後に待っていた。

アンコール1曲目は、何とギターだけをバックに歌われる「青白い月」の英語ヴァージョン。と言ってもその英詞は日本語のオリジナルとはまったくの別物。メロディーもブラック・ミュージックに近いアレンジがところどころに施され、「青白い月」の単なる英語ヴァージョンとはまったく違う、ほとんど新曲に近い作品となっている。

これが驚異的に素晴らしかったのだ。

オリジナルヴァージョンが地上から天を見上げる祈りの歌だったとすれば、これはまさに天上の響き。ちさ子のヴォーカルは、信じがたいほど伸びやかにこの聖歌を歌い上げる。それまでのヘロヘロに疲れた状態が嘘のようだ(いつも不思議に思うのだが、どうやら彼女の喉はすぐへたる割に、ちょっと休むとすぐに復活するらしい)。カーティス・メイフィールドの名曲「ピープル・ゲット・レディ」を彷彿とさせる、至高の美。目の前で演奏されている音楽が聴いたそばから虚空に消えていくことを、これほど残念に思ったことは希だ。

それに続くラストナンバーは「小さなひかり。」。言わずもがなの名曲であり、ライヴの最後を締めくくるのにこれ以上のものはない歌だが、今回ばかりはその前の「青白い月」英語ヴァージョンが素晴らしすぎて、こちらはごく普通に聞こえてしまった。


終了は19時50分頃だったから、1時間40分弱のライヴ。昨年9月のSHIBUYA-AXのライヴに比べると、ちさ子の声が出なくなる場面も多く、安定感は欠いていたものの、音楽を生み出そうというエネルギーの強さは、これまでの中でも最高だったと思う。
 
               *

今回のライヴの最初のMCでちさ子はポツンとこんなことを言った。

「今日生まれ、今日終わるfra-foaです」

その時は「ひょっとして解散?」という緊張した空気が会場をよぎったが(fra-foaのファンで、ちさ子が遠からず燃え尽きてしまうのではという不安を感じぬ者は一人もいないだろう)、実際にはそんなことはなく、3月からいよいよニューアルバムのレコーディングに入るそうだ。ライヴが進むに連れて、僕は突然ちさ子の言葉に含まれた重要な意味、僕がこんなにもfra-foaの歌に惹かれる理由に、ふと気がついた。


fra-foaの歌は、いつ聴いても、たった今生まれたばかりのような新鮮さで聞こえるのだ。


それはライヴはもちろん、CDにおいても同じだ。ある歌がこの世に生み出される瞬間の感動、いわばジャズの優れたアドリヴに通じる輝きが、fra-foaのCDには刻み込まれている。だから何度聴いても、fra-foaの歌は既知の曲として消費されることがない。

ジャズ評論家の後藤雅洋が「名曲は聞き飽きるが、名演は聞き飽きない」という言葉を何かの本で書いてたと思う。それはいささか極論にしても、音楽が生み出される瞬間(この場合はジャズのアドリヴ)が持つ生々しさ/生命力が、曲や演奏技術の良さでは説明しきれぬ強い魅力を持っていることは間違いないだろうう。
方法論はかなり違うものの、優れたジャズ・ミュージシャンと同様、三上ちさ子は、自らの歌に「今生み出されたばかりの音楽だけが持つ魅力」を吹き込む特別な力を持っているのだ。テクニックの化け物のようなジャズ・ミュージシャンたちと、テクニック的には極めて拙いちさ子を一緒にするのはある意味滑稽かもしれない。だがテクニックはしょせん手段であって目的ではない。そのような表層的な違いに惑わされず、表現のベクトルそのものを見据えれば、猛り狂い、のたうち回るジョン・コルトレーンのサックスと、自らの喉の限界に苦しみながら、必死に声を振り絞るちさ子のヴォーカルは、意外に近しい存在であることに気づくはずだ。

いささか極端な例かもしれないが、例えばローリング・ストーンズ。5年ほど前のブードゥー・ラウンジ・ツアー来日時の記事で「映像と音楽をシンクロさせる関係から、演奏時間は秒単位で決まっている」という話を読んだことがある。なるほど、それによって見事なショー、見事なエンタテインメントは生み出されるだろう。
だが秒単位で演奏時間が決められているようなライヴに、ミュージシャンと観客の相互作用から生み出される高揚感、ミュージシャンの魂の声が観客の心を震わせ、その感動がミュージシャンへとフィードバックされ、会場全体がまったく異質の空間へと変貌していく、あのライヴならではの感動など、求められるはずがない。

それは決してストーンズだけの問題ではない。音楽的に洗練され、産業として発展していく内に、ほとんどのロックは「自分たちの歌」としてのリアリティを失ってしまったのだ。そして後に残ったものは、完璧にプロデュースされた「商品」として優れた音ばかり。ミュージシャンの生の声を生かし、なおかつ人々の心を高揚させるだけのエネルギーを持った音は、今や数えるほどしか存在しない。
そのような「成熟に伴うリアリティの衰退」はいかなるジャンルにもあるものだ。またそのような成熟を経て、初めて生み出された名作が少なからずあることも否定はしない。しかしストレートな感情表現、コミュニケーションの渇望、聴く者を高揚させる生々しいエネルギーの発露といった要素は、ロックという音楽のの原点であり、アイデンティティではなかったのか? そのような要素が失われていくことは、他のどんな芸術ジャンルと比べても、ロックにとっては致命的ではないのか?

だがその流れを食い止めることはできないだろう。いずれ90年代前半のグランジに続く揺り戻しはあるかもしれないが、それも一時的なものに違いない。
ロックはもはや死にゆく音楽なのだ。ジャズやクラシックと同じく、一定のフィールドは確保するものの、世界を揺り動かすような力は二度と持ち得ぬ「趣味の音楽」として生きながらえるのがせいぜいだろう。


しかし死にゆくジャンルであっても、その中に歴史を無視するかのような形で突出した才能が現れる例は珍しくない。そのジャンルが本来持っていた力を、まるで先祖返りのように身につけたアーティスト…それがCoccoであり、fra-foaなのだ。

話はそれるが、この二組以外にも、日本のロック/ポップスで注目すべきアーティストは多い。今や日本のポップ・ミュージックは、イギリスやアメリカのそれよりも遙かに面白いと思う。これはある場所で誕生し、隆盛を極め、そして衰退した文化が、周辺地域で時間的に遅れて開花するという、歴史的によくある現象の一つだと思う。またその内の少なからぬ人々が、日本という国においてもマージナルな存在であることはさらに興味深い(例えばCocco、UAという現代の日本が誇るディーバ二人は共に沖縄の出身、今話題の元ちとせは奄美大島の出身だ。そう言えば宇多田ヒカルも日本とアメリカのマージナルマンそのものだし)。


ロックは間もなく終わりを迎えるだろう。

だが三上ちさ子の歌は終わらない。

彼女の歌は、今日も明日も、たった今生まれたばかりとしか思えぬ生の輝きを持って、そこにあるのだから。


(2002年2月初出)


【注】2005年4月
3年ほど前のこの文章では「自分にとってのロックは終わった」と力説しているが、実は最近非常によくロックを聴いている。
原因はiPod。40GのiPodに数百枚のCDを収録し日常的に持ち歩くようになったことと、クラシックやアコースティックジャズはiPodでの観賞に向いていないことから、結果的にロックを聴く頻度が俄然多くなったのだ。ただし主に聴いているのは、最新のロックではなく、これまでに自分が聴いてきた古いロックの最良のもの。その意味ではやはりロックは過去の音楽になっているわけだが、そこに汲めども尽きぬ豊かな泉が秘められていることに驚かされる。
様々な意味で、iPodは自分の音楽生活を根本的に変えてしまう革命的なメディアとなったのだが、それについてはまたいつか別の文章で。

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