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04/06/2005

【音楽】fra-foa 2001.5.19 クラブクアトロ

2001年5月19日(土) クラブクアトロ


fra-foa(フラホア)というバンドについて、彼らのファーストアルバム『宙の淵』について、ずっと前から書こうと思っていた。

事実途中まで書いたのだが、途中で風邪を引いたり、仕事が忙しくなったり、いろいろと邪魔が入って、ずっと未完のままになっている(単純にうまく書けないのでストップしているという説もあり)。順番の上ではそちらを先に書くべきなのだが、先日渋谷のクラブクアトロでライヴを見てしまったので、先にライヴ評の方を書くことにする。

                  *

クアトロの下まで来てまずビックリ。ライヴに来ている連中の客層が少々予想と違っていたからだ。客の平均年齢が僕の半分程度というのは十分に予想できたことだが、まさかあんなにも男の比率が高いとは… 観客の男女比は大体8:2くらいじゃなかろうか? この手の(どの手だ?)若手ミュージシャンのライヴは、大抵若い女の子が主流なので(たまたま僕の見るものがそうなのかもしれないが)これにはちょいと驚かされた。しかも通常のライヴに比べて、一人で来ている人間の比率が異常に多い。これはヴォーカル三上ちさ子のアイドル人気によるものだろうか?


19時10分頃から始まったライヴは、とにかく「スリリング」の一言に尽きた。


何がそんなにスリリングだったか? 

決まってる。もちろん三上ちさ子のヴォーカルだ。

何しろ一曲目の「真昼の秘密」から、いきなり音程外しまくり(^^;)。
最初はフェイクかと思ったが、単純に声が出なかっただけらしい。それはもう、聴いているこちらの方が思わず手に汗握るほどだった。声域の狭さや音程の悪さをあえて強調したようなCDのプロデュースは、ある意味「そのまんま」だったのね(^^;)。

ただしバンドの演奏は予想以上に上手い。多彩なリズムや音色を器用に紡ぎ出すという感じではなく、音楽性の幅は今のところそう広くないのだが、中心となるグランジ系のサウンドに関しては、まったく危なげない。ニルヴァーナ譲りの荒々しいウォール・オブ・サウンドを作り出すギター。ひたすら重く、それでいてグルーヴ感を湛えたリズムセクション。ベースがかなり幅広い音域をカバーして、ギターと共に音の壁を作り出しているため、3ピースの楽器編成なのに、まったく音が薄くならない。この辺りのベースの活躍ぶりは、ちょいとR.E.Mのライヴを彷彿とさせた(さすがにあそこまで上手くはないが)。ロック・バンドとしてのfra-foaを支えているものは、この3人の男どもであることがよくわかった。これだけ確かな腕をもっているのに、ジャケットや宣伝写真にちさ子以外写ってないとは…


しかし…fra-foaをロック・バンドたらしめているのは3人の男たちだとしても、fra-foaをfra-foaたらしめているのは、間違いなく三上ちさ子その人である。ほぼ全曲の作詞/作曲を一人で手がけているという点ももちろんだが、fra-foaの音楽に決定的な個性を与えているのは、彼女のヴォーカルに他ならないからだ。


先に書いたように、ちさ子のヴォーカルは手に汗握るほど危なっかしい。声域は狭いし、声量はないし、音程も危うい(音感が悪いのではなく、自分のイメージ通りの声、特に高音を出そうとすると、声量の無さに足を引っ張られて声が失速してしまうような感じ)。
ところが彼女の歌には、そのような技術的拙さを超越した、聴く者を惹きつけて止まない吸引力がある。それは音楽を超えた、何か神秘的なまでの力だ。彼女のヴォーカルが抱える音楽的な(=技術的な)拙さと、音楽を超えた何か神秘的な力…その落差から生まれるスリルとひたむきさが、ライヴではより一層浮き彫りになっていく。

彼女のヴォーカルが持つ不思議な力…その秘密の一端をかいま見たのは、幼い日に死んだ兄への思いを綴った、現時点におけるfra-foa最高の名曲「青白い月」が歌われた時だった。早くも音(ね)を上げてきた喉を鼓舞するように、あの細い体を震わせ、声をふりしぼるちさ子。それはもはや「歌」などというものではない。「祈り」とでも表現する以外ないものだ。切なげにかすれる高音、不安定に揺れ動くメロディー…音楽的に見ればマイナスでしかないそれらの要素が、彼女の「表現」としてプラス方向に昇華されてゆく様子は、さながらオセロゲームで、大量の黒い駒が一瞬にして白い駒に変わっていくようなスリルに満ちている。彼女のヴォーカルがスリリングなのは、単に音楽的に不安定だからではない。その不安定さが、丸ごと「表現」として聴く者の心に食い込んでくる、奇跡のような瞬間を実現してしまうからだ。

そんなちさ子の姿は、ある意味神々しいまでに「ロック」そのものだ。ロックという音楽には幾つもの特色があるが、「個人の感情のストレートな表出」を重視する点と、その表現方法として「音の歪み」(ノイズ)を活用する点は、最大の特色に数えて間違いないだろう。この点はジャズ(特にフリー・ジャズ)も同様なのだが、ロックの場合、電気楽器と共に育ってきたため、その歪みは電気増幅によってより巨大で過激なものとなっている。つまりロックという音楽は、クラシック的な基準から言えば、単なるノイズや不協和音でしかない歪みを積極的に活用することで、整然とした音の配列だけでは表現しきれない、もしくは表現するために極端に高度な技術が必要とされる音楽的ヴィジョンを、より簡単に、ストレートに表現できるわけだ。

だからロックの表現者は、クラシック的な基準に基づいた音楽性ももちろんだが、そのような基準からすれば排除されてしまうノイズに対してどのようなスタンスを取るかが問われることになる。そしてノイズを自分だけの表現として血肉化しようとする。もちろんノイズをあまり活用せず、なおかつ優れた音楽を作り出しているロック系のミュージシャンもいることはいる。だがジミ・ヘンドリックスやツェッペリンの時代から、レディオヘッド、ベック、ビョークの今日まで、真に先鋭的な表現と高い音楽性でシーンをリードしてきたのは、ノイズを表現の核に取り込み、「オリジナルなノイズによるオリジナルな表現」を作り出してきたミュージシャンたちだったはずだ。
言うまでもないことだが、才能やヴィジョンに欠けた人間がノイズを弄んだところでそれは音楽以前の代物、ただの雑音に過ぎない。ノイズには平均律のように明確な楽理は存在しない。その不定型な代物を音楽表現へと昇華させるには、「自分が表現したい音」の明確なイメージ、それを実現するための才能が必要とされる。その才能とは、クラシックのように、ある規範をより正確に再現する技術ではなく、音の中に自らの規範を作り出す才能、簡単に言えば「より個性的な表現をする能力」だ。だからこそ優れたロックミュージックは、どこまでも表現者の肉声そのものとなっていくし、時にはその肉声としてのリアリティが、楽理的なマイナスをすべて無効にするほどの大きな価値となりうるのだ。

ちさ子のヴォーカルは、一人のミュージシャンが自分の不自由な肉体、すなわち音楽的なマイナスと必死に格闘し、そこから発せられる「歪み」を、表現の上で強引にプラスへと転化してゆく過程を生々しく見せつけてくれる。これはちさ子自身の中に明確な音楽的ヴィジョンがあり、そこへ辿り着こうとする強靱な精神力を持っているからこそ出来る技だ。
しばしばCoccoとの類似性を指摘されるちさ子だが(それはそれで当然のことだが)、このライヴを見て僕が彼女の向こう側に見たものは、むしろジャニス・ジョプリンの亡霊だった。ジャニスも普通の意味で決して上手いボーカリストではなかった。だがあの独特の掠れ声による絶唱は、数オクターブの声域がご自慢の人間ジュークボックスみたいな連中の歌より、遙かに深く、重く、聴く者の心に突き刺さる。表面的スタイルはそれほど似てないものの、ヴォーカリストとしてのちさ子は、明らかにジャニスと同じ星の下にいる。


あの日のライヴに戻ろう。何と言っても最初の衝撃は、3曲目でいきなりちさ子が歌詞の書かれたカンニングペーパーを見ながら歌い出したことだ(笑)。何と3日前にできたばかりの曲だという。しかしいくら3日前に出来た曲でも、自分の描いた歌詞くらい覚えられないのか?(笑)
それはともかく…さらなる衝撃は、この曲が今までのfra-foaナンバーとはだいぶ趣が異なり、なおかつ異常なまでにかっこよかったことだ。
いきなり16ビート、ヤードバーズの「トレイン・ケプト・ア・ローリン」をさらにシャープに、ファンキーにしたようなナンバー。これには鳥肌立ちまくり。それにしても日本人が苦手とするこの手のリズムのナンバー(しかも3日前に出来たばかり)を危なげなく演奏してしまうのだから、本当にこのバンドの男どもは侮れない。聴いている最中から、一刻も早くこの曲をCDで手に入れたくて、矢も盾もたまらなくなってくる。

この曲を皮切りに、その後もガンガン新曲をやった。全部で6〜7曲はやったから、3分の1以上が新曲だったことになる。しかもそれらが全ていいのだから、驚く他ない。

実のところこのライヴを見るまで一つの疑念を抱いていた。ファーストアルバムは確かに素晴らしかったが、この直情一徹路線ではセカンドアルバムでいきなり失速することも十分ありうる。ひょっとするとこの輝きは一発限りで終わるのでは…というものだ。
だがそれはまったく無用な心配だった。fra-foaというバンドは僕が思っていたよりも遙かに大きな器を備えていようだ。先日出たニュー・シングル「小さな光」(名曲!)を聴いても、このバンドがファースト・アルバムに溢れていた純粋さをまったく失わぬまま、さらなる音楽的成長を遂げていることがよくわかる。セカンド・アルバムが楽しみで仕方ない。

その後のクライマックスといえば、やはり中盤に演奏された名曲「青白い月」だ。叫びと囁き、哀しみと慈しみ、激情と諦念がドラマチックに交錯しながら、天へと上りつめていくかのようなこの歌には、fra-foaと三上ちさ子の全てが込められている。
それに続く「君は笑う、そして静に眠る。」では、もはや完全にちさ子の声が出なくなり、バンドの演奏だけになってしまう部分もあったが、そんな瞬間さえ、ちさ子の凄絶な気迫が会場を覆い尽くしている。
ただし「青白い月」に次ぐ名曲「澄み渡る空、その向こうに僕が見たもの。」は延々高音が続くせいで、最初からただ単にヘロヘロ(笑)。残念ながらスタジオ盤のような高揚感は得られなかった。この歌はライヴの前半、まだ喉が疲れていない内にやるべきだろう。

アンコールは2曲。1曲目はまたも3日前に出来た新曲で、こちらもカンニングペーパー使用(笑)。しかしこの歌も素晴らしい。そして最後は何とブルース・ナンバー。おそらくカバーだと思うが、誰の歌だろう? B.B.キングのようでもあり、エルモア・ジェイムズのようでもあり… タイトルは「LOVE WET FEELING」とか何とか言っていたが、あいにくオリジナルはまだ確認できていない。ともかくfra-foaとブルースという一見ミスマッチな取り合わせに、まったく違和感がないのには驚かされた。ファースト・アルバムの音楽性は「Coccoのボーカル+ニルヴァーナのグランジ・サウンド」という形容でおおむね言い尽くされるのだが、このライヴを見るかぎり、実は黒人音楽にも大きなルーツを持っているらしい。おそらくセカンドアルバムではその辺の音楽性がもっと強く出てくることだろう。
それにしてもブルースを歌うちさ子は、さながら花村萬月の小説に出てくるブルース歌手のようだ。


アルバム1枚しか出していないのだから70分程度で終わるだろうという予想は、新曲の大量演奏によって心地よく裏切られ、アンコール込みでおよそ1時間40分ほどのステージとなった。ほとんどの部分で予想を上回ることばかりだ。バンドの高い演奏力、そしてちさ子の唯一無二の存在感と、凄絶なヴォーカル…。

これではっきりわかった。


fra-foaはまぎれもない「本物」だ。


一刻も早くセカンド・アルバムが聴きたい。

そしてライヴ、次は9月23日SHIBUYA-AXだ。

彼らとの再会が楽しみで仕方ない。
   
   
(2001年6月初出/2005年4月改訂)

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