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04/17/2005

【映画】『殺人に関する短いフィルム』But Only Love Can Break Your Heart

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この春に上映されたキェシロフスキ作品の感想は全部書こうと思っていたのだが、見るだけで精一杯、何か書いてる余裕などまるでなかった。結局キェシロフスキ・コレクションは全作品制覇。計13タイトル。『愛に関する短いフィルム』と『アマチュア』を2回見たので述べにすると15本。さらにキェシロフスキ脚本の『ヘヴン』を3回も見たので、それを入れるとキェシロフスキが18本! これでは書く時間もないだろう。

しかしそれだけ見たのに何も書かずに終わるのももったいない。遅ればせながら何本か書けるだけ書いてみよう。


まずは『殺人に関する短いフィルム』から。


キェシロフスキとの初めての出会いはこの作品だった。多分1995年だったと思う。その後1〜2回は見ているはずだが、いずれにせよかなりのブランクがあったし、他のキェシロフスキ作品やデカローグ版の記憶も間に入り、この映画版の印象は少々薄くなっていた。

たが映画版『殺人に関する短いフィルム』との久し振りの再会は、僕にとって、初見の時を超える恐ろしいほどの衝撃となった。今回のキェシロフスキコレクションで再見した作品中、以前に比べて最も評価が上がったのがこの作品だ。

この映画版は85分。デカローグ版より27分ほど長い。ほぼ1.5倍の長さだが、作品の濃密さは軽く3倍以上に跳ね上がっているように思う。『愛に関する短いフィルム』のように、ストーリーそのものが大きく変わっているわけではない。多少構成は違うものの、同じ物語のショートヴァージョン/ロングヴァージョンと言っていいだろう。しかしその27分があることで、映画版の人間描写はデカローグ版をはるかに凌ぐ深みを帯びている。

物語は、一人の孤独な青年が、その孤独さを紛らわすかのように残酷な殺人を行い、やがて死刑になるというもの。理想に燃えて弁護士になったばかりの青年の話が、そこにからむ。主な登場人物は殺人を行う青年ヤツェクと、彼に殺されるタクシー運転手、そしてヤツェクの弁護士ピョートルの3人だ。

ヤツェクがタクシー運転手を殺す具体的な理由は描かれていない。だが映画の世界に素直に身を委ねれば、その根底にあるものがヤツェクの孤独感、疎外感である事は明らかだろう。
興味深いのは、殺すヤツェクと殺される運転手が、同じ穴の狢とも言えるほどよく似ている事だ。なるほどこの運転手は実に身勝手で性格の悪い、一見「殺されてもざまあみろとしか思えないような人物」に描かれている。だがよく見ていけば、この人物が決して生まれながらに性根の腐った人間ではないことを示す描写がある。冒頭で彼は犬だったか猫だったかについて「人間と違って裏切らないからいい」というような事を言う。そして客をさんざん待たせた後で置いてきぼりにするという、まさに意地悪のための意地悪としか思えぬ行為をやった直後に、自分のサンドイッチを野良犬に与えたりしている。彼の心にも優しさや温かさはあるのだ。だがその思いが人間に対して素直に発露される事はない。おそらく彼は、人間を信頼し、そして手ひどく裏切られた経験があるのだろう。その痛みが原因で、自らの心を閉ざし、人を愛さぬ事でこれ以上自分が傷つくことを避けるようになったのだ。
一方ヤツェクが故郷を離れ、都会で孤独な凶行に走る遠因となったのは、愛する妹の死だ。妹を轢き殺したのは、彼と一緒に酒を飲み、酔っぱらってトラクターを運転した自分の友人。自責の念が彼の心を重く閉ざしていた事は疑うべくもない。だから彼は、喫茶店の外にいる女の子に対しては優しい笑顔を見せる(ありし日の妹の姿をそこに見い出していたのだろう)。そしてその喫茶店で犯行に使うロープを用意する。「そんな優しさを持ちながら、なぜあんな残酷な犯行を」と言うのは間違いだ。彼は優しさ故に深く傷つき、心を病み、孤独に苦しんだ末、凶行に及ぶのだ。

彼ら二人が他人を傷つけるのは、人を愛し、その結果として心に深い傷を負ったからだ。愛は人の心を癒す一方で、人の心を破壊することもある。その残酷な矛盾を解消する術はない。

それは他のキェシロフスキ作品にも一貫して流れるテーマだ。とりわけ『殺人に関する短いフィルム』『愛に関する短いフィルム』の2本は、同じデカローグからの派生作品という共通項を超えて、コインの裏表のように残酷な愛の矛盾を描き出している。


それにしても中盤の殺人シーンの生々しさはどうだろう。殺人シーンの映画史上最長記録という説もあるそうだが、このシーンが印象的なのは、単に長いからでない。人が死んでいく事、生命を持った一つの肉体がただの破損した肉物体になっていく生々しさを、容赦なく描写しているためだ。例えば頭を殴られた運転手の入れ歯がポタッと泥に落ちる描写。あるいは布をかぶせた顔から血が滲みだし、そこに何度も重い石を打ちつけていく時の音…骨が砕け、皮膚と肉が裂け、激しい痛みが走り、やがて生命の灯が消えていく…それをここまで執拗に、リアルに描き出した映画は他にない。漂白された概念ではない、剥き出しの暴力と殺人が、見る者を圧倒する。

逮捕されたヤツェクの弁護にあたるのは、法の執行による正義の実現に理想を抱くピョートルだ。だが彼の青臭い理想主義は、裁判の敗北とヤツェクの死刑判決によって早々と挫折する。裁判の経過はすべて省略され、死刑判決とその後のピョートルの苦悩だけが描かれるが、切り詰められた描写の中に、法制度の抱える矛盾が鋭く指摘されている。
ヤツェクを救えなかったピョートルは裁判長に「もっとべテランの弁護士だったら結果は違っていたでしょうか?」と問いかける。「誰がやっても同じだったよ」とピョートルを励ます裁判長。だがそれが必ずしも真実ではないことを、ピョートルも観客も知っている。
あの運転手がヤツェクに殺されたのは半ば偶然に過ぎない。もし別の客を乗せていれば、彼は死なずに済んだだろう。同様に、弁護士に成り立ての新人ではなく、もっとやり手の弁護士がついていれば、ヤツェクも死刑にはならなかったかもしれない。人の生と死は、そのような偶然や不条理によって支配されている。だがそんな不確定な要素によって一人の人間が生きるか死ぬかという大事が決まってしまうなら、法に基づく裁きも根本的な部分でロシアンルーレットと大差ない事になってしまう。

法によって定められたことであれ、ピョートルは孤独な犯罪者ヤツェクに対する死の裁きを受け入れる事が出来ない。彼の心を苦しめ続ける重い十字架は、ヤツェクが犯行道具を準備し、窓の外の少女に笑いかけていたのと同じ喫茶店に、同じ時間、自分も居合わせたという事実だ。弁護士になったばかりの自分は、そこで希望に胸を膨らませ、恋人と将来の夢を語っていた。だがほんの少し離れたテーブルでは、ヤツェクが運転手の首を絞めるロープを用意していた…こんな皮肉な話があるだろうか。
自分には何かもう少し出来る事があったのではないかと苦悶するピョートル。もちろん出来る事などありはしない。その時点では赤の他人に過ぎないヤツェクの苦しみを、どうして彼が救えるというのか。だが「重い刑罰では人を変えられないし犯罪も抑止出来ない」と考えているピョートルにとって、ヤツェクを救えなかった事は、一個人としても法律家としても完全なる敗北でしかない。判決が出て拘置所に戻っていくヤツェクに、ピョートルは思わず叫ぶ。「ヤツェク!」。彼にはそれ以外に出来る事など何もない。
だがその叫びは、あらゆる者から見放されたと思っていたヤツェクには、なにがしかの愛を持って自らの存在を認めてくれた唯一の声として響く。だから彼は死刑執行の前にピョートルとの面会を申し出る。そこで語られる亡き妹の思い出。「もし妹が生きていれば、こんな事にはならなかったのに…」と嘆くヤツェク。孤独と罪の意識が彼の心を蝕み、同じように孤独によって性格がねじ曲がってしまった運転手を殺す羽目になった。もし犯行前の彼に「ヤツェク!」と叫んでくれる人がいたなら、この殺人は起きなかったかもしれない。だが多くの場合、人はもう手遅れになった時点で、自分が何をすべきだったか、何を求めていたのかに気づくのだ。

ヤツェクが拘置所から引き出され、首を吊るされるまでのシーンは、中盤の殺人シーン同様、吐き気がするほどの生々しさと緊張感に溢れている。ただし法による「殺人」そのものは、あっという間に、ほとんど機械的と言っていいほど迅速に行われる。首にロープがかけられ、足下の板が開く。一瞬痙攣したように見えるヤツェクの体は、あの運転手と違って、すぐに静かになる。踏み板の下に事前に備えられていた容器に、ポタリポタリと垂れる体液(糞便)… すべてが対照的でありながら、ヤツェク殺しと運転手殺しはほとんど同じような要素によって構成されている。
「汝殺すなかれ」という言葉は、少なくとも人間社会においては普遍的な定めであろう。だがその定めを遵守するために、孤独な人物をもう一人殺さなくてはならないという根本的な矛盾… 僕は基本的に死刑肯定論者なのだが、この法に基づくリアルな殺人シーンを前にすると、「仕方ない」「必要悪だ」という言葉だけでは消化しきれない死の重みに、言葉を失う。

ラスト、ピョートルは車の中で泣き続ける。それは何に対する涙なのだろう? 法律家としての敗北、法制度に対する絶望…いろいろな要素が含まれていたことだろう。だがその内の少なからぬ部分は、孤独な犯罪者ヤツェクの死に対する悲しみ、彼を救えなかった心の痛みだったはずだ。それは妹を失った後のヤツェクの心の痛みに良く似たものだったに違いない。


すでに死んでしまったヤツェクが、ピョートルの涙を知る事はない。

全ては手遅れだ。

それでも私は、孤独なあなたのために涙を流さずにはいられない。

あなたを救う術を持たない自分を嘆かずにはいられない。


その思いこそ、キェシロフスキ映画の最大のテーマであり、僕がキェシロフスキ映画に惹かれてやまない理由なのだ。


2つの殺人シーンの強烈なインパクトと、法律という社会的な要素を含む事で、キェシロフスキ映画としては異色作に見られがちな『殺人に関する短いフィルム』。

だがその中心にあるものは、あまりにもキェシロフスキ的な、愛と孤独の物語なのだ。


(2003年5月初出)

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