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03/01/2005

【映画】『幻の湖』 笑い事ではない

maboroshi04


自由が丘武蔵野館での上映。初日の土曜は馬鹿騒ぎになるのが目に見えていたので、観客の少ない日曜の夜に見に行った…つもりだったのだが、日曜の夜も大盛況で(笑)、状況は大きく変わらなかったようだ。僕にとっては1982年のロードショー以来の再見だが、ここ数年、この作品の周辺にまとわりつくおかしな評価に対する違和感は、正しいものだったことがわかった。

まずこの作品がストーリーの整合性もへったくれもないトンデモ映画であることは疑う余地がない。


だがこれってそんなに馬鹿笑いするような映画なのか?


僕の最近の違和感はその一点にあった。何しろロードショーのとき、そんなに笑ってる観客などいなかったのだ(さすがに「勝った!」のシーンでは大きな失笑が漏れたが)。その点を確認するために見たのだが、ほとんどの観客が、ある約束事に則って笑っているようにしか見えなかった。つまり実際の描写が笑いに値するかどうかなど、彼らにとってはどうでもいいのである。
一例を上げれば、ローザが最初にその正体の片鱗を示すシーン。あれでみんな大笑いしていたが、ごく普通に見れば、あれはまったく意味不明なるがゆえに、頭を抱えるか目が点になるか、どちらかのシーンではないのか? あそこで笑ってるのは、要するに映画秘宝であのシーンがさも面白可笑しく描写されていたからではないのか? 君たち、本当に映画を見て、その内容に則して笑ってるのか?

もちろん笑えるシーンがないわけではない。ほとんどは失笑や苦笑の類だが、確かに笑える(笑うしかない)シーンはいっぱいある。
そういうところで笑うのはもちろん構わない。だがどう考えてもおかしくないシーンで笑ってる奴が山のようにいるのは、一体どういうことだ? どこか映画の見方が歪んでないか?
「映画を見て笑うこと」と「映画を笑うこと」、「笑うために映画を見に行くこと」と「映画を笑うために見に行くこと」の間には、字面だけ見ると一見些細な、その実大きな違いがある。そして後者の根底にあるものは、何かを貶めバカにして楽しもうという、非常にさもしい根性だ。
もちろん観客が、あらゆる映画に対して敬意を表する必要はないし、襟を正して見る必要もない。映画をあくまでも「素材」に、イベントとして盛り上がるのも良いだろう。しかしいくら何でもものには限度というものがある。現在『幻の湖』にまとわりついている風潮は、適正な程度を遙かに超えた「異常」としか言いようのない状態に思えて仕方がない。
 

もっともこんなことを書くと「お前だって昔『恐怖奇形人間』でオフ会開いて、バカ映画として盛り上がっただろう!」という批判が聞こえてきそうだが、これについては…まず「あの頃は私も若かった(^_^;)」という言い訳が一つある。それに「可笑しくもないシーンで笑っちゃいないぞ」というのもある。
そして何よりも「橋本忍と石井輝男では事情がまったく違う」という点が重要なのだ。この2人の違いを見ていくことで、僕の「『幻の湖』=バカ映画」に対する違和感は、より鮮明なものになっていく。

一言で言えば、石井輝男という人は「人間、笑われてなんぼのものじゃい!」という精神で映画を作り続けている人だと思う。そうでなければ、どうして誰が見ても一目瞭然ゴム人形の赤ん坊を抱えた吉田輝雄が真顔で「この子の命は私が守る!」などと言ったり(『元禄女系図』)、ニヒルな殺し屋がパーティ会場でいきなり懐から大福を出して食べ始めたり(『直撃!地獄拳』)、本物の阿部定の証言に、明らかに後から撮り足したとわかる映像で吉田輝雄に「ふんふん」などと頷かせたり(『猟奇女犯罪史』)、その他諸々のバカな演出をやるものか!
石井輝男のやっているバカは、確信犯としてのバカなのである。決して「バカ映画」としての受けを狙っているわけではないが、「予算や時間の制約で思うように撮れなかったら、何をやったっていいんだよ。笑われても何でも、とにかく撮っちゃったものの勝ち。要はどんな形であれ、描きたいものを描くことが一番大切なの。しかもお客さんが笑って喜んでくれるんだから、何も問題ないでしょう。ノー・プロブレム!」という姿勢を数十年にわたって貫き、ああいうバカをやっているのだ。

そんな人だからこそ、誰も手を付けることが出来なかったオウムや宮崎事件を、あの『地獄』のような形で描くことが出来たのだ。石井輝男以外の誰に『地獄』のような映画が撮れるというのだ? あれなど外面だけ見れば究極のバカ映画だろう。しかし確信犯としてのバカをやり続けた石井輝男が撮ることで、そういうトンデモな外面にも関わらず、悪趣味な笑いを通してシリアスなメッセージが伝わってくるのだ。「人間、笑われてなんぼのもの」…その開き直りをあの歳まで貫き通し、他の誰にも撮れない映画を撮り続けていることこそ、石井輝男の偉大さなのである。

では以上のような話は、橋本忍にも当てはまるのだろうか? まさか! あの人が「人間、笑われてなんぼのもの」の精神で映画を撮っている(脚本を書いている)とは、とても思えない。それは他の作品における生真面目な姿勢を見れば明らかだ。

別の角度から表現すれば…石井映画に色濃く漂うチープさやキッチュな感覚、そこから醸し出される笑いは、石井輝男という作家にとってかなり本質的なものだと思う。だから石井映画は、バカ映画として笑いながら見ても、ある意味全然構わないのである。本質を見誤っているわけではないからだ。
そして『奇形人間』をバカ映画として見た人が、さらなるバカを求めて『忘八武士道』や『徳川いれずみ師 責め地獄』を見ても、きっと同様の楽しみ方が出来るだろう。と同時に、どの作品にも共通する石井輝男独特の美学や、人間に対する醒めた批評眼、そして悪趣味な娯楽性を感じ取ることが出来るはずだ(そうなったらもはやあなたは石井ワールドの虜(笑)。つまり「バカ映画としての『恐怖奇形人間』」は、石井映画の本質からさしてかけ離れたものではないし、石井ワールドへの入り口として決して間違ったものではないのだ。

ひるがえって橋本忍はどうか?「バカ映画としての『幻の湖』」は『七人の侍』や『生きる』や『羅生門』や『切腹』や『上意討ち』や『真昼の暗黒』や『砂の器』や『私は貝になりたい』への入り口として適切なものなのか? 「『幻の湖』のバカよもう一度」と期待してこれらの映画を見た観客は、そこに同質のバカさを見いだし、笑い転げることが出来るだろうかか? その答はあまりにも明白ではないか!

そして…橋本忍の過去の業績、日本映画史上確実に五指に入るであろうこの偉大な脚本家の実力を理解している人なら、『幻の湖』という作品の存在が、喜劇どころか、壮大な悲劇に他ならないことがわかるはずだ。いくら脚本家として何人も寄せ付けぬキャリアがあったとはいえ、誰が読んでも「こりゃないだろう」という本を映画化し、しかも監督までやらせてしまった…その「当然の結果」としてこんな作品が生まれてしまった。しかもこの生涯の大失敗によって、実質的に黄金のキャリアを絶たれてしまった…その事実を知っていれば、この作品には笑い以前に、もっと苦い思いがつのってくるはずだ。

この作品がダメなのは、単に全体がトンデモ話であるからではない。脚本のテクニック一つ一つが、まるで素人の書いたものとしか思えないようなひどさなのだ。無意味な台詞の反復、そこかしこに見られる無駄な描写、安直なモノローグの多用、提示されたまま何の解決も見ない謎…具体的におかしな点を指摘し始めたら、いくら時間があっても足りない。「人間ってダメになるときは、ここまでダメになれるものなのか」…僕はこの映画を再見して暗鬱とした気分になった。人生の残酷さを感じた。

世の中には思いきり力のこもった失敗作というものがある。しかしそれらの多くは、一つ一つのシークェンスは素晴らしいのに、それをまとめ上げる全体の構成が歪んでいて、論理性や物語性が破綻していたり、結論の部分で収拾がつかなくなったりというパターンがほとんどだ。『天国の門』しかり『地獄の黙示録』しかり(僕はこの2作大好きです、念のため)。ボクシングで言えば、凄まじいパンチは出すしフットワークもいいのに、どういうわけか肝心なところで相手の耳を噛んでみたり(笑)、『ファイト・クラブ』のエドワード・ノートンのごとく、その強烈なパンチで自分自身を殴ったりするボクサーみたいなものだろうか。
しかし僕には、『幻の湖』の橋本は、どう見てもパンチドランカー状態のボクサーにしか見えない。何しろ脚本の基本的なテクニックが完全に崩壊している(まともなパンチが出せない)状態なのだから…

なぜこんなことになったのか僕にはわからない。あくまでも推測で言わせてもらえば…やはり何らかの理由で精神に異常をきたしていたのだと思う。物理的な意味で、脳に何かの障害があったのだと思う。そうでなければ、あそこまで脚本の基本的なテクニックをご破算にしてしまう理由がわからない。時空を交錯させながら話を進め、最後のクライマックスへと登りつめていく手法は、橋本の十八番。病気でもないかぎり、それがあんな風になるとは…僕にはとても信じられない。

そう思うが故に、僕はあの映画を「笑うために見に行く」連中がよけい不快なのだ。元気な人が「弘法も筆の誤り」でやった珍プレーを笑うなら、まあ冗談として済まされる。しかしこの作品の場合、パンチドランカーなりアルツハイマーなりでヨイヨイになった障害者の無様な姿を、みんなでよってたかってあざ笑っているようにしか見えないからだ。


とにかく…


『幻の湖』は、橋本忍という天才の、一番おかしな部分/ダメな部分だけが暴走した、冗漫極まりない「ただの失敗作」だ。優れた作家が、客観性を完全に失った結果生み出された「ただの駄作」だ。もちろん笑うしかないシーンはたくさんある。大体笑いでもしなくては、あんな長くて退屈な映画を見ちゃいられん。だから笑うこと自体は一向に構わない。だが最初からこの作品をバカ映画として「笑うために見に行く」のはどんなものだろう。それってどこか間違ってないか?

まあ、どんな映画の見方をしても、それは個人の自由だ。だが「橋本忍」という偉大な才能を語るのに、まず第一に「『幻の湖』を作った人」と言ってはばからぬ連中に、僕は強い殺意を覚えずにはいられない。冗談としても悪趣味に過ぎる。それはあくまでも本来の橋本を語った上で、「でもこんなのもあるんだよね」と隠し芸のごとく(?)出すべき余談であり、最初にそれを持ち出して語るべき作品ではないはずだ。それでは、チャップリンを「『伯爵夫人』とか言う気の抜けたコメディを作った人」として語り、黒澤明を「リチャード・ギアが日本語を喋る原爆映画を作った人」と言い、キューブリックを「マネキン工場でギャングか何かが喧嘩をするB級映画を撮った人」と表現するより、さらに悪い。

そういう人間にも二種類いると思う。一つは橋本の業績をきちんと知った上で(他の映画を見た上で)、あえて面白がっている連中。本来なら「死ぬまでやってろ」で済ませたいところだが…そういう言説を、日本映画と橋本忍の過去の業績を知らぬ連中にまで振りまくことで、どれほど巨大な誤解を与えていることか…その罪について考えたことはあるのだろうか?
もう一つは、橋本の作品をろくに見たことがなく(それこそ黒澤映画すらまともに見たことがなく)、上記の連中に「橋本忍=『幻の湖』の人」と洗脳されて、イベントとして見ている連中…こいつらに関しては…(以下、過激な言葉が続いたので自粛(^_^;)


何度も言うように、どんな映画の見方をしようが、それは個人の自由だ。『幻の湖』をバカ映画としてお祭り騒ぎで見ても、橋本忍を「『幻の湖』の人」と呼んでも、それを止める権利は僕にはまったくない。だが同じ観客として同じ劇場で映画を見ている以上、次のような発言も禁止されるべきではないだろう。


「お前ら、どいつもこいつも鬱陶しいんだよ!!」


もう放っておいてやれ、『幻の湖』のことは…


(2000年4月初出/2001年1月改訂)


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