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03/01/2005

【映画】『ベティ・ブルー インテグラル』 僕はまだ人生を生き始めてはいないけど

もしジャン・ジャック・ベネックスの作品群を一言で表現するとしたら、「時と共に消えてゆくはかない美のために人生を賭けた人々のドラマ」と言っていいのではないだろうか。


その観点から『ベティ・ブルー』を見てみよう。

 

この作品における「時と共に消えてゆく美」とは、ベティの持つあまりにも過剰な「生命の輝き」だ。彼女の溢れんばかりの生命力が、遠からずその輝きを失っていくか、あるいは彼女自身を滅ぼしてしまうことは、誰が見ても明らかだろう。この映画の中でベティは「過去のない女」として描かれている。ベティは紛れもなく「今この瞬間だけを生きている」女なのだ。
そしてベティ自身もそれに気づいている。自らの過剰な生命力が、自分を輝かせると同時に、遠からず自分を滅ぼすであろう事を。
そこで彼女は、自らの存在の証しをこの世に残すためにふたつの方法を取る。ひとつは「愛する男を作家にすること」。もうひとつは「愛する男の子供を産むこと」だ。

前者について言えば、「本」というのは、記録として未来に残るものの象徴だ。だから他の職業ではダメなわけだ。およそ本など読みそうにもないベティが、ゾーグを作家にすることにあれほど情熱を燃やしたのは、その本の中に自らの存在証明を残そうとしたからだ。ゾーグの本が出版されることで、彼女は自分が持つ「瞬間の美」を、そこに永遠に封じ込められると思ったのだろう。しかしこれは出版社に総スカンを食って挫折することになる。

次に彼女はゾーグの子を身ごもろうとするが、これも失敗に終わる。田舎でピアノを売る生活は、穏やかではあっても、ベティの望むものではなかったはずだ。自らの存在(=今この瞬間の輝き)を残すことに次々と挫折したベティは、結局自らの過剰な生命力に押しつぶされるようにして、自己崩壊の道を歩んでいく。


一方のゾーグ。僕がこの作品を愛する大きな理由は、このゾーグという人物に強い共感を覚えるからだ。僕にとって『ベティ・ブルー』とは、ベティの物語ではなく、ゾーグの物語なのだ。僕のゾーグに対する共感、その由来は彼のたった一つの台詞の中に集約されている。

     「僕は30歳になってようやく人生を生き始めた」

ゾーグもまた、詳しい過去についてはほとんど描かれていない。しかしあの膨大な未発表の著作や前述の台詞などから、彼のそれまでの人生が非常に空虚なものであったことは容易に推察できる。大体あの若さで海辺のコテージの管理人になるというのは、彼がすでに人生を放棄していた、あるいは社会との対話を拒否していたからとしか思えない。彼にとって自己表現の場は、あの「誰にも見せることのないノート」の中にしかなかったのだ。
そんな彼が、偶然にもベティという女に出会った。過剰なまでの生命力を持つ彼女に出会うことで、ゾーグの人生は大きく変わっていく。それまでの彼にとって、人生は「長い灰色の道」だった。しかしベティの持つ「一瞬の輝き」に心を奪われ、感化されることで、彼は一度は諦めたはずの人生を再び生き始める。
ゾーグのベティへの愛情は、彼女の「一瞬の輝き」を絶やすまいとする形で表現される。だからどんなわがままでも聞いてやる。家具を全部破壊されても怒らない(笑)。ベティがその生命力を燃え上がらせれば燃え上がらせるほど、ゾーグの乾ききった心は、本来の人間らしさを取り戻していくからだ。


一方のベティは、ゾーグという男を通じて、自らの生の証を残そうとする。ベティはその生命力(=時と共に消えてゆく美)を「与える」ことで、自らを生かそうとし、ゾーグはそれを「受け入れ」彼女を「守る」事で、自らを生かそうとする…これが二人の関係だ。


だが残念なことに、ベティの希望は次々と打ち砕かれ、自己崩壊の道をたどっていく。彼女を救えないことで、ゾーグの希望も打ち砕かれていく。彼はベティを喜ばすためなら何でもやる。銀行強盗までやっちゃう(笑)。だが決して彼女を救うことはできない。このあたりのゾーグの無力感には強く胸を打たれる。

そして決定的な破局が訪れたとき、皮肉にも出版社から採用の電話がかかってくる。だがその時にはすべてが遅すぎた。ベティはすでに生きる屍と化している。燃え尽きてしまったベティを見るに忍びないゾーグは、彼女を死なせてやる。そして家に戻ったゾーグは再び文章を書き始める。

男には子供を産むことが出来ない。男に出来ることは、「文字」という媒体を通じて、女の「一瞬の美」をこの世に残していくことだけだ。文章を書くゾーグのもとに、ベティの魂が宿った猫が訪れる。「書いてたの?」と聞くベティ。「(君のことを)考えていたんだ」と答えるゾーグ。


こうしてベティの命はゾーグの本の中に受け継がれ、その本を書くことでゾーグは自らの人生を生き続ける…


時と共に消えてゆく美を慈しみ、それを何とか守ろうとする人間とは、実はベネックスその人なのかもしれない。ラストで文章を書き続けるゾーグの姿は、実は映画を撮り続けるベネックス自身の姿なのかもしれない。

『ベティ・ブルー』はそんなベネックスの葛藤が、最も鮮烈な形で表現された作品だ。

そしてこのラストでひとつ吹っ切れたのだろうか。次作である『ロザリンとライオン』は「美」と「若さ」に対する驚くほどの肯定性に満ち、ベネックス作品の中でも随一の美しさを誇る作品となっている。

「うつろいゆく美をとどめる事はできない。ならばそれを映画に撮ることで、その美しさをわずかでもこの世に残そう。自分に出来ることはそれだけであり、それ以外には何もない」


ベネックスはそんな風に思いながら、映画を撮り続けているのではないだろうか。

(1996年11月初出/2001年1月改訂)

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Comments

TBありがとうございます。

> 時と共に消えてゆく美を慈しみ、それを何とか守ろうとする人間

そうだったんですね。
納得がいきました!

> 田舎でピアノを売る生活は、穏やかではあっても、ベティの望むものではなかったはずだ。

僕もそう思ったんですよ。
でも、荒野と一軒家を誕生日にプレゼントされて、ベティは
「こんなのイラナイ」
というかと思ったら、けっこう喜んでましたよね。
ということは、
(1) ベティはけっこう田舎暮らしが好き。
(2) 田舎なんて嫌いだけど、ゾーグからのプレゼントなんだから喜んであげた。
の2つの解釈ができると思うんです。
別に(1)なら問題ないんですが、ホントは(2)だったという場合、田舎のピアノ店を継いだということも含め、ベティを追い込んだ原因の一端はゾーグにもあるんじゃないかと・・・。

でも、ゾーグがベティを田舎へ田舎へと連れていこうとしたのは、ベティの隔離政策のためだと思ってるんですけどね(笑)。

Posted by: albrecht | 03/13/2005 19:34

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