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03/01/2005

【映画】『チャーリーズ・エンジェル』 真っ白な灰

そう、「真っ白な灰」なのである。

『あしいたのジョー』の主人公、矢吹ジョーがリングですべてを完全燃焼させ、真っ白な灰になったのと同じほどの純粋さ…僕が『チャーリーズ・エンジェル』という映画に惹かれて止まないのは、多分その点なのだと思う。

この映画にあるもの、この映画が追求しているものは「楽しさ」だけだ。映画を見ている間の、信じがたいほどの「楽しさ」だけ。他には何にもない。見事なまでに何にもない。


別の言葉で言えば、この映画を貫いているものは徹底した「消費の快楽」、一切の「生産性」から解放された「消費の快楽」だ。


娯楽映画と呼ばれる作品群も、そのほとんどは何らかの生産性を含んでいるものだ。何らかのメッセージ、多少は役に立つ知識、知的刺激を与える教養的要素、日常生活に潤いを与える情感…大抵の作品はそういうものを持っている。おそらくそれは、映画と映画の作り手が現実社会の中で自らのポジションを獲得するためにも、必要なことなのだろう。現代社会において「生産性」が絶対的な価値として君臨している以上、それは無理なからぬことだ。

もちろんいかなる生産要素も持たない映画がないわけではない。いわゆるクズ映画などはその一例だ。だがそういった映画の大部分は、ただ単に「生産性がない」というだけで、「面白くない」。あれを面白いと思うのは、「生産性なき存在」、その反社会性に対して快哉を叫んでいるだけで、逆の意味で生産性に縛られた行為だ。それは一時凌ぎの倒錯した鬱憤晴らしに過ぎない。
例えて言うなら、クズ映画はそこらにいるただのチンピラの喧嘩だ。非日常的行為を見るという意味では、ある種の快感はあると思うが、それを見て胸を突き動かされるほどの感動は起きないだろう。

矢吹ジョーの戦いも、対戦相手をことごとく破壊し、ついには自らの肉体まで破壊してしまう(それを知りながら戦う)わけだから、社会的な生産性からはかけ離れている。その点だけに着目すれば、ジョーのボクシングもチンピラの喧嘩も何ら変わるところはない。
だが決定的に違うのは、そこに「消費の快楽」が感じられるか否かだ。生産性からの解放は、単なる必要条件に過ぎない。肝心なのは、その先に真の快楽があるかどうかだ。

ジョーの最後の対戦相手ホセ・メンドーサは、肉体の限界を超えながらなおも戦いを挑んでくるジョーに戦慄を感じ、こう呟く。
「ジョー矢吹は廃人になったり死んだりすることが怖ろしくないのか?彼には悲しむ人間が一人もいないのか? 私は違うぞ。私は怖ろしい。故国には愛する家族が私の帰りを待っているのだ。ジョー矢吹は…あの男は、私とはまるで別のタイプの人間だ。まったく違うタイプの…」

そう、矢吹ジョーは、ホセのみならず、この社会に生きる圧倒的多数の人間とはまったく違うタイプの人間だ。彼の行動の中には、一般社会で認められるような生産性は、まったく存在しない。現代の価値観を端から相手にしていないという意味で、これほど反社会的な人間も珍しい。それにも関わらず、『あしたのジョー』という漫画は、なぜ長年にわたって多くの人々を魅了し続けてきたのか?

それはジョーの戦いが、極めて過激な「消費の快楽」に満ちていたからだ。その完全燃焼の様子が、あまりにも純粋で「美しかった」からだ。

「生産性」という価値観は、この社会の成立に絶対必要なものだ。そのことを疑う人間はほとんどいまい。だがその価値観が生み出す重圧によって、誰もが少なからぬ苦しみや不安を抱いて、毎日を生きているのも否定できない事実だ。それを「必要悪」だと頭で理解したからといって苦痛そのものが消えてなくなるわけではない。
そんな「生産性」に縛られた毎日を過ごす人間にとって、対極にある「消費の快楽」に人生を賭けたジョーの生き方は、あまりにも衝撃的かつ魅惑的だったのだ。

だが一つ間違えば、このキャラクターは誰からも嫌悪されるような存在、または鼻でせせら笑われるような存在になっていたことだろう。そうならなかったのは、高森朝雄+ちばてつやという作家が、まさに物語の秘術を尽くして、それを「面白い漫画」に仕上げたからだ。通俗的な反社会性(=生産性への逆説的な従属)に堕することなく、「消費」の美学を徹底的に追求することで、我々が心の底では求めながらも、日常的な生存を最優先することで放棄している、目も眩むような「快楽」を描きだしてしまったからだ。


表面上は『あしたのジョー』とは似ても似つかない『チャーリーズ・エンジェル』…だかそこにある「消費の快楽」、いかなるメッセージも発せず、いかなる教養にも色目を使わず、ただただ純粋に楽しさだけを追求するその姿は、「完全燃焼」だけを目指した矢吹ジョーに、本質的な部分で実によく似ている。


もちろん『あしたのジョー』と『チャーリーズ・エンジェル』では、大きく違うところもある。

それは『あしたのジョー』が、日本人好みのする悲壮感や、ある種時代劇の古典的ヒーローに通じる要素、すなわち成功要因の安全パイをある程度持っていたのに対し、『チャーリーズ・エンジェル』の方は、もう徹頭徹尾バカ(笑)。一つ間違えば、本当に単なる「バカ」と言われて葬られる断崖絶壁の勝負である。これはとてつもない勇気か、とてつもない無謀さか、とてつもない自信がない限り出来るものではない。

しかもやってることはバカなのに、この監督は、バカを描くことに全身全霊を賭けている。これにはただただ感動する他ない。ある意味、芸術的な作品や普通の意味で人を感動させる作品(要するに「生産的な映画」)に全身全霊を賭けるのは難しいことではない。しかしこのような「楽しさを取ったら何も残らない映画」に全身全霊を賭けられる人間はそうはいないのではないか? 僕もホセのように呟くしかない。「このマックジーとかいう男は、人からバカと思われたり、二度と映画を撮れなくなることが怖くないのか? この男は、私とはまったく別のタイプの人間だ…」

そしてもう一つ。矢吹ジョーは、パンチドランカー症状に蝕まれ、肉体的にはもはや死に体の状態で最後の試合に臨んだ。そして「完全燃焼」に対する度し難い欲求だけで15ラウンドを戦い抜いた。
だが『チャーリーズ・エンジェル』は違う。この映画は、その志の高さもさることながら、技術面においても圧倒的なレベルの高さを誇り、「楽しさ」だけを追求した映画として、比類なき完成度を誇っている。矢吹ジョーの燃える魂と、ホセ・メンドーサの芸術的テクニック…その両方を兼ね備えたこの映画に、もはや敵はいない。


『チャーリーズ・エンジェル』…この信じがたいほど楽しい映画を見た後に、燃えかすなど残りはしない。


後に残るのは、真っ白な灰だけだ。


(2000年11月初出/2001年1月改訂)

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