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03/02/2005

【映画】『ナビィの恋』 涙が出るほどの幸福

昨年の末に『ナビィの恋』を再見した。

きつい沖縄方言(全編の半分近くに日本語字幕がつく)のため、1回見た
だけではわからなかった人物の細やかな心の動きが、2回目で痛いほど
に理解できた。ラストの20分ほど、とりわけマイケル・ナイマンの
「RAFUTI」が流れるエンド・クレジットに至っては、もはや後から後から
溢れてくる涙を止めることなど不可能だった。

こんなにも悲しくて楽しい映画、たまらなく切ないくせに得も言われぬ
幸福感で胸がいっぱいになってしまう映画…滅多にあるものじゃない。

(以下ネタバレあり)


この映画の中心にある物語は、ナビィと恵達とサンラーの三角関係だ。
だが普通の映画のようなドラマチックな展開を期待したら、あっさり
裏切られることになる。
サンラーが現れたその日から、ナビィがサンラーと共に島を去っていく
ことを、恵達は理解している。と言うよりも、彼はその日がくることを
最初から理解した上で、それまで「ナビィを預かっている」というつもり
で数十年を過ごしてきたのだろう。元々恵達は、ナビィの恋の物語を幼い
目で見つめ、それに手を貸すことで、ナビィの婿になる権利を得たのだ。
ナビィとサンラーの恋は、恵達のナビィに対する思いよりも先にあった
ものだ。それを恵達は理解している。だから二人が去っていくことを
止めようとはしない。

だが恵達とてひとりの人間だ。誰よりもナビィの思いを理解し、誰よりも
ナビィの幸せを願いながら、それでも(ひょっとすると本人も気づかぬ
内に)本音が出ることがある。牛のセイコを売った金で、腰が痛むという
ナビィのためにマッサージ椅子(?)を買ってやる恵達。それをナビィに
見せるとき、彼は「セイコを売った金で買ったんだよ」という言葉をつい
口にしてしまう。ナビィが旅立っていくことを知りつつも、そのさり気
ない言動の中に、50年も一緒に暮らしてきた自分の愛情を伝えたい、
ひょっとするとナビィは自分との暮らしを選んでくれるかもしれないと
いう思いがそこはかとなく滲み出る。
ナビィが旅立つ日もそうだ。サンラーに宛てたナビィの手紙を読んだの
だろうか、あるいは夜中に手紙を書くナビィの姿だけで全てを理解した
のだろうか。恵達は、今日がナビィの旅立つ日であることをほのめかし、
「ランチは奈々子に持たせればいいよ」と言う。ナビィの旅立ちを知り
ながら、それを許していることを、ここで恵達はナビィに伝えているわけ
だ。
いずれにせよナビィが旅立つのであれば、それに対してまったく知らぬ
ふりをしてやることも、一つの優しさだ。だがさすがの恵達もそれには
耐えられない。ナビィの行動すべてを許しながら、それでも「あなたの
幸福を誰よりも願っています」という思いを、最後に伝えずにはいられ
なかったのだ。

ナビィとの暮らしは、恵達にとって「ベリー・ハッピー」なものだった
に違いない。だが彼は、ナビィが心の底から愛していた人物が、自分では
なくサンラーであることを忘れたことはなかった。戦後間もなくブラジル
から届いた苗木。その日からブーゲンビリアを育て始めたナビィ…
ナビィの心にはいつもサンラーがいた。それを知りながら、ナビィを愛し、
見守り続けた恵達…

そんな恵達の生き方を支えていたのは、やはり粟国島の風土だと思う。
この、「内」と「外」の境がほとんどなく、何にもないけれど何もかもが
あるような島の風景を見ていると、「とりあえず生きてさえいれば何とか
なるさ」という気分になってくる。

その根幹にあるものは、ある種の「無常観」だろう。仏教の発祥の地インド
がそうであるように、凄まじいスピードで生命が流転していく様を目の当
たりに出来る高温多湿の国では、「生命は流転する」=「永遠に常なるもの
はない」という思想が、日常的なものとして実感できる。恵達をはじめ、
この映画の登場人物には皆、「永遠に常なるものはない」という諦観と、
それに裏打ちされた南国特有の楽天性が感じられる。

事情はナビィとサンラーの2人においても同じだ。60年前の恋人を連れ
戻すために島に帰ってきたサンラー、そして80歳にもなってなお60年
前の恋人と新たな世界へ旅立っていくナビィ…恋を引き裂かれた彼らを60
年間支えていたものは、「とりあえず生きてさえいれば、また会えるさ」
という思い、80歳になってもなお新しい一歩を踏み出せる楽天性、それ
までの生活に対する執着のなさだ。
それに加えてナビィの心にあったのは、自分の行動を許してくれるはずだ
という恵達に対する信頼(それもまた一つの大きな愛なのだ)、自分が
いなくなっても恵達はきっとそれなりに幸せにやっていくだろうという
安心感だ。
なぜ自分がいなくなっても、恵達は幸せにやっていけるはずだとナビィは
思っていたのか? それもまた「無常観」と、その裏返しとしての「楽天
性」に帰着する。「大丈夫、まだ若いから」という思わず笑ってしまう
台詞は、しかし彼女にとっては決して冗談ではなかったはずだ。80に
なったら人生は終わりなのか? 60ではどうなんだ? 40ならまだ
大丈夫なのか?…そんなことはない。人生が常に流転するものなら、終わ
りはいつでもやってくるし、始まりもいつでもやってくる。人は生きて
いく上で、常に何かを失い、何かを得ていく。恵達との別れも、そんな
人生のひとこまに過ぎない…ナビィはそう思っていたに違いない。

「人間の命も、他のあらゆるものも、遅かれ早かれすべては失われる。
でもそんなに嘆き悲しむことはない。失われたものは、形を変えて必ず
いつか戻ってくる。永遠に存在するものがないように、永遠に失われる
ものもない。ただ形を変えるだけだ。だからそんなに悲しむことはない…」

ナビィと恵達…彼らがお互いを許し、受け入れることが出来たのは、2人
の心にそんな共通した思いがあったからだろう。ナビィの生涯の恋人は
サンラーだった。だがナビィと恵達は、もっと一心同体のソウルメイトの
ような存在だったのかもしれない。

そんな彼らの思いは、ナビィが旅だった後からラストにかけての、息を呑む
ほど素晴らしいシーンによって、見る者に提示される。ナビィとサンラー
の時代には許されなかったよそ者との結婚。だが自らの心に正直に生きる
ため、そのタブーを軽々と打ち破る奈々子と福之介。しかもそれを「昔の
ことは忘れた」とばかりに、脳天気に受け入れてしまう(笑)島の人々。ナビ
ィを失った代わりに、気の合う孫婿と山のような曾孫に囲まれた恵達…
恵達も、奈々子に振られた幼なじみも、一抹の寂しさは隠せない。だが
決して絶望はしていない。何かが失われても、必ず違った形で戻ってくる…
それを彼らは理解しているからだ。

人生の哀しみと楽しみ、失われたものと新たに生まれ出てくるもの、島の
固有の風習と本土から来た新しい血…すべてを飲み込みつつ、永遠に生命
のサイクルを繰り返していく粟国島…その島を慈しみをもって見つめる
ようなショットで、この映画は幕を閉じる。

もちろんこの映画は「おとぎ話」だ。生身の人間は、なかなかここまで
軽々と人生を生きられるものではない。

でも恵達やナビィの、奈々子や福之介の、わずか10分の1でもいい。

あの無常観と、それに裏打ちされた執着のなさ、そして楽天性を心に宿す
ことが出来たなら、人生は格段に楽なものとなることだろう。

世界は格段に優しい表情を見せることだろう。

そんな勇気、そんな彼らの「思い」を、この映画は見る者に分け与えてくれる。


ともかく…


こんなに幸福で幸福で幸福で、
こんなに楽しくて楽しくて楽しくて、
こんなに美しくて美しくて美しくて、

それ故に涙がとまらない映画、滅多にあるものじゃない。


(2000年1月初出/2001年1月改訂)

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