【映画】『霧の中の風景』 究極の映画、映画の究極
テオ・アンゲロプロス監督の1988年作品(日本公開は1990年)。上映できるプリントがまだ日本に残っていたことに驚かされる(配給権はどういうことになっているのだろう?)。 下高井戸シネマで6日間もレイトショー上映が行われたので、初日と最終日に2回見に行った。
劇場での鑑賞は、初公開時に3回、その後1回見ているので、通算で6回になる。劇場で最後に見たのは1993年の12月、シャンテシネで「淀川長治の選んだ名作選」のようなものが数日間開催されたのだが、そこで見て以来だ。そう言えば淀川さんを生で見たのも、それが最後だった。LDでも部分的に何度か見ているはずだが、きちんと通しで見たことがあったかどうかは定かでない。
レイトショーは大抵空いている下高井戸シネマだが、この映画に関して言えば両日とも滅多にない客の入りだった。しかも来ている人間の顔ぶれが、どう見てもただ者ではない(笑)。見るからに業界関係者、あるいは何らかの文化人、絵に描いたような映画マニア、美大系の学生など、むんむんするような濃い顔ぶれ。最近はアンゲロプロス作品をスクリーンで見られる機会も少ないので、皆どこからともなく集まってくるのだろう。
初日には、むさ苦しい長髪にメガネ、でかいバッグ、小汚い服装という、いかにも映画オタクな男が、駅を降りたところでぴあを見ながら劇場を探していた。劇場に着いてみると、その人物にそっくりな男がロビーにいてビックリする。一瞬デヴィッド・リンチ映画の世界に迷い込んだような気分になったが、やがて最初の人物も到着し、別人であることが判明。「こいつら互いの姿を見て近親憎悪を抱かないのか?」と思いながら見ていた。本当に映画オタクって…
そんな余談はともかく、作品だ。
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30年近くにわたって見てきた数千本の映画。
『霧の中の風景』は、その中でも間違いなく5本の指に入る、正真正銘の名作だ。
この作品を「何を描くか」「それをどう描くか」に分けて見た場合、「何を描くか」、すなわち描かれているものに対する感動は、14年前に初めて見た時と、そう大きくは変わらない。年を取って、より深く理解できるようになった部分はあるが、感動の本質自体が変わったわけではない。
今回驚愕したのは、「どう描くか」の方である。そういう点に関しては、14年前よりも今の方が遙かに理解力が深まっているからだ。
何よりも驚いたのは、この映画が通常のリアリズムからほぼ完全に逸脱し、徹頭徹尾「アンゲロプロス語」としか言いようのない文法、彼独自のシンボリズムによって綴られている点だ。
例えば本作で青空が登場するのは、あの巨大な手が登場するワンシーンだけだ。他はすべて曇天や雨である。梅雨時の日本海沿岸部ならともかく、舞台はギリシアである。一部フィルターを使っているところはあったが、まさかCGで曇天を描いたわけでもあるまい。天気待ちだけで膨大な時間が費やされたはずだ。
なぜアンゲロプロスは、そうまでして曇天にこだわったのか?
それはあの曇天が、どんなストーリー、どんな台詞よりも雄弁に、人生の閉塞状況を描き出しているからだ。
もちろんそのような演出は、どんな映画でも行われているだろう。しかしその徹底ぶり、密度の高さは、並の映画とは比較にならない。他の映画が2時間かけて語るものを、この作品は映像によって当たり前のように描き出し、そのベースの上で幼い姉弟(とオレステス)の魂の彷徨が描かれていく。物語の始まるレヴェルが他の映画とかけ離れているのだ。
オレステスが少女をダンスに誘う海辺のシーンを見てみよう。一見何でもない絵柄かもしれないが、よく見れば、隅から隅までアンゲロプロスの作家性で塗り込められていることがわかるはずだ。
陰鬱な雲の中に微かな光もかいま見える、実に微妙な曇天(あんな具合になるまで執拗に待ち続けたのだろう)。
冬に開いているはずがない海の家。
打ち捨てられたように見える一方で、彼らが来るのをじっと待ち続けていたようにも見える椅子とテーブル。
リアリズムの見地から言えば、あんな季節にあんなところに置かれているはずもないジュークボックス。
そこから流れ出すポップス。
海岸線、打ち寄せる波、監視塔(?)、砂浜…
そこにやって来る姉弟とオレステス。
すべてが何かを物語り、それらが映画の中でハーモニーとして溶け合った時、アンゲロプロスの「世界観」が姿を現してくる。
息もできないほどに切ない初恋の思い。
生きていく過程で背負ってしまった、深い心の傷。
その痛みを理解しつつ、ただ見守ることしかできない無念さ。
無垢なる思いを押しつぶす世界の冷酷さ。
そして暗闇の中にかすかに見える希望…
普通の映画は、まずキャラクターやストーリーがあり、それらを通じて作家の世界観が語られていくものだが、アンゲロプロスの映画はまったく逆だ。
彼の映画は、まず隅々まで作家の世界観によって塗り込められた映像が提示される。
登場人物は、その世界観を宿命として背負いながら、映画という小宇宙の中で人生を歩み始める。彼らの行動は生身の人間としてさほど違和感のないものだが、それが結果的には周囲を取り巻く世界観を照らし出す役目を果たす。
つまりオレステスがジュークボックスでポップスのレコードをかける行動が重要なのではない。彼の行動をきっかけとして、あの砂浜にポップスが響き渡ることで見えてくる世界観が重要なのだ。
別の言い方で言えば、アンゲロプロスの映画は、脚本のト書きだけで成立しているような映画だと思う。
演劇の脚本は、あくまでも台詞が主体であり、ト書きはその補足に過ぎない。台詞さえ明確なら、そこからト書きにあたる部分は必然的に決まってくる。
ところがアンゲロプロスの映画は、脚本で言えばト書きにあたる世界の構築が第一。ト書きを徹底的に描き込むことで、そこで語られる台詞が決まってくるような感じだ。
実写映画は、カメラをどこかに置いてフィルムやヴィデオを回せば、必ず何かが写る。しかしそれは「何かが写っている」に過ぎず、必ずしも「何かが描かれている」わけではない。むしろ何でも写ってしまうが故に、映画はちょっとでも気を抜けば表現物としては密度が薄くなりがちな芸術なのだ。それは、作家が意識して描き込まない限り何も出現しない小説や絵画と比較してみれば明らかだ(現実にはこれらの芸術も、手癖だけで描かれた部分が少なくないのだが)。
もちろんそんなことはどんな映画作家も理解しているだろうし、それなりの努力もしているだろう。だが現実問題として、映像の隅から隅まで作家の世界観で満たされているような映画は、アンゲロプロスやキューブリックの作品を除けば皆無に近い。ほとんどの映画のほとんどの場面は、弛緩した背景や感覚的に美しいだけの絵柄によって虚しく消費されているのが現実だ。
だがアンゲロプロスの映画は違う。すべての画面が強い精神性を持ち、映画表現として結実している。抽象的な言葉だが「表現の強度」が決定的に違う。そしてそのような強度を生み出すアンゲロプロスの意志そのものが、残酷な現実に立ち向かう希望として屹立する。
世界の冷酷さや現実の前に敗北していく人間の姿を描きながらも、ただの暗い感情ではなく、ある種の高揚感や希望を与えてくれる映画がある。
それは作家たちが、世界の冷酷さを誤魔化すことなく見つめ、しかもそれに屈服しようとしないからだ。
彼らは、いずれ訪れる「死と忘却」いう運命を受け入れながらも、生きることに何らかの意義を見いだそうとする。
情緒的に嘆くことも、神に祈ることもせぬまま、この世界の冷酷さに真正面から向き合おうとする。
その強く孤独な意志によって、見る者になにがしかの生きる勇気を与えてくれる。
クシシュトフ・キェシロフスキ、スタンリー・キューブリック、テレンス・マリック…具体的な素材や表現方法は違っても、僕が心から愛する映画作家たちは、皆そのような共通点を持っている。
テオ・アンゲロプロスもその一人だ。
表現の手法においても、表現された内容においても、『霧の中の風景』ほど「究極の映画」という言葉がふさわしい作品はない。
世界中のありとあらゆる映画は、『霧の中の風景』を前にして、ただ頭を垂れるほかない。
(2004年5月初出/2005年3月改訂)
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Comments
トラックバック、ありがとうございました。
アンゲロプロスといえば、先日、GW公開予定の新作「エレニの旅」を試写で見ました。これもスゴイ映画でしたよ。「永遠と一日」では青空を撮ってましたが、こちらは全編が曇天。アンゲロプロスはこうでなくちゃとつくづく感じた作品でした。「旅芸人の記録」や「狩人」を彷彿とさせるアンゲロプロスファンにはうれしい作品だと思います。
これからもよろしくお願いします。
Posted by: yo-to | 03/24/2005 09:58
TBありがとうございます。
暗喩的で圧倒的な映像に根こそぎ持っていかれた作品です。自分にはこの作品の理解をする見識も能力もありませんが、映画というものが持つ可能性に驚かされる作品でした。
此方からもTBさせて頂きます、また宜しくどうぞw
Posted by: lin | 03/12/2006 17:20