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03/31/2005

【演劇】ク・ナウカ「葵上」 2005.3.27

ク・ナウカ「〈mama-能-janca〉プロジェクト序章 葵上」(旧細川侯爵邸)


2005年3月27日(日) 18:00〜


文楽の方法論を応用した人間浄瑠璃、すなわち動きと語りが別々の人間によって演じられるスタイルを最大の特色としてきたク・ナウカ。今度は能の方法論を応用した新作『オセロー』を秋にやるそうで、今回はそのための実験公演。ただし昨年の『アンティゴネ』と違って、内容自体はまったく別。
そもそも『オセロー』というのは、シェイクスピアのあの『オセロ』のことだろうか? 多分そうなのだろう。しかしシェイクスピア+能+ク・ナウカでは、『アンティゴネ』を遙かに超える「メチャクチャに力のこもった失敗作」が出来上がりそうで、怖いような楽しみなような… 
だがそんな大胆な実験を喜々として行い、失敗してもケロリとしていられるところが、ク・ナウカという劇団の恵まれたところ。そんな劇団だからこそ、先日の『山の巨人たち』のようなとんでもない芝居も成り立つわけだ。この浮世離れした実験がどこまで続くのか、それがどの程度の成果を生み出すのか、こうなりゃとことん見届けてやろうじゃないか。


生まれて初めて降り立った目白駅。バスで7分となっていたから歩くと20分以上かかることはわかっていたが、陽気は最高に良かったし、先日買ったデジカメDMC-FZ5の撮影テストをしたかったので、あえて目白通りを延々と歩くことにした。ただ結果的に、目白通り沿いに面白い被写体は何もなく、目白駅の周辺と、会場の周り以外では何も撮さなかった。

会場の旧細川侯爵邸。今は和敬塾という男子大学生のための寮になっているようだが、なるほど確かに古き日本のアカデミズムの匂いが漂っている。普段の生活ではなかなか接することが出来ない雰囲気だけに、かなり惹かれるものがあった。

本館の前まで歩いていくと、男の人から「こんにちは!」と声をかけられた。「あ? そうか、ここは本来学生寮だからな。知らない人でも、全てのお客さんにきちんと挨拶することになっているのだろう。さすがに礼儀正しいな」などと思い、とりあえず会釈しておいた。しかしその後、芝居の客が増えてきたが、特に誰かが挨拶されている光景にはお目にかからなかった。なぜ私だけ? ひょっとしてあれはク・ナウカの人で、私を誰か関係者と勘違いしたのだろうか? 最近は全公演見ているから、顔を覚えられていても不思議ではないわけだが…ちょっと気になる。

やがて入場開始。しかし入り口で靴を脱いでスリッパに履き替えるのにはまいった。愛用のダナーのブーツなので、簡単に靴を脱いだり履いたりできないんだよ。
中に入って驚いた。映画やテレビドラマなどで見る戦前の洋館そのもの。しかもセットではなくすべて本物。外側も確かに魅力的であるが、本当の素晴らしさは中に入ってみなければわからない。建築物を見て、これだけ心が震えたのは久しぶりのことだ。既成の劇場ではなく変わった場所で公演を行いたがるク・ナウカだが、今回は大ヒット。芝居の前に、会場の魅力に圧倒されてしまった。
http://www.wakei.org/


会場は1階のサロン。席は前から2列目の真ん中のベストポジション。手前にベッドがあり、奥に打楽器が並んでいる。入場時からすでにベッドにはアオイが寝ており、傍らには看護婦がいる。

今回の『葵上』は、能の『葵上』と唐十郎の戯曲『ふたりの女』を基にしたもの。後者については何も知らないが、能は前に少し興味を持って勉強したため、『葵上』が『源氏物語』の1エピソードを基にした作品であることくらいは知っていた。読んだことはないが、三島由紀夫の『近代能楽集』でも取り上げられている有名な演目だ。とは言え実際の上演は見たことがないので、オリジナルとの比較などは出来ない。いささか変化球ながら、これが『葵上』初体験ということになる。構成と演出は宮城聰。

能の演目を題材として取り上げているわけだが、スピーカーの語りも、明らかに能の謡(うたい)をベースにしたものとなっている。しかしここで大きな問題が一つ出てくる。ごく普通の現代人は、予備知識なしに聞いても、能の謡の意味などほとんどわからないということだ。本物の能に比べればわかりやすいとは言え、普段のク・ナウカの語りと比べるとだいぶわかりにくい。人間浄瑠璃スタイルで語りの意味がよく理解できないのは、結構辛いものがある。
では本物の能では皆どうしているかと言うと、大抵の人はパンフレットの詞章を読んで意味を確認しながら舞を見ているのだ。その証拠に、パンフレットのページが変わるところに来ると、ページをめくるバサッという音が一斉に能楽堂に響き渡る(笑)。そんな見方をしていたら、肝心の舞に目がいかないだろうと思うかもしれないが、何しろ能の謡も舞もテンポがおそろしくゆったりしている。だからそんな見方をしていても、肝心な部分を見逃すようなことは、実際にはほとんどない。ある意味邪道ではあろうが、古語、ましてやあの独特な節回しのついた謡をストレートに理解できない現代人が能を楽しむ手段として、パンフに採録された詞章は欠かせないものなのだ。
今回のク・ナウカ公演は、ある意味そういう現実を無視したものだったと言える。詞章を採録するのが無理なら、せめてもう少し詳しくストーリーを書くくらいの配慮は欲しかったところだ。

ではこの公演がつまらなかったかと言うと、実はかなり面白かった。言葉の細かい意味までは理解できないにしても、本物の能と同様、全ての語りが「音楽」として心地よかったからだ。この程度の小規模な公演だと使われないことが多い打楽器類も、その音楽性を高めるのに寄与していた。ムーバーたちの動きもいつになく緊張感に溢れ、人間浄瑠璃ならではの面白さを久々に味わえる作品だった。

だが本作の最大の見物は、六条御息所役のムーバーを演じたたきいみきに尽きる。名前だけはよく目にしていたものの、これまで特に目立つことのなかった彼女が、実に強烈な印象を残す。役者というよりもダンサーを思わせる伸びやかな肢体と、人形のように整った美貌をフルに駆使して、女の怨念を不気味に、そして冷ややかに体現していた。決して赤く燃え上がることのない、冷たく青白い怨念。驚くほど長い髪を束ねているのだが、その髪の長さまでが六条の怨念を雄弁に物語っているようだ。
女王 美加理と比較した場合、美加理が精神の深奥から役柄を作り上げ、それによって肉体の全てをコントロールしているように見えるのに対し、彼女はまだ外面から役を作り上げ、精神をそれに従属させようとしているように見える。早い話、まだまだ普通の人間としての素顔が透けて見える。その意味では、迫力はあるけれど表面的な演技と言うことも出来る。だがそんな紋切り型な分類で切り捨てるわけにはいかない可能性が十分に感じられた。
あのような、人形的に整い突出した個性を持たない美貌は、役者としては意外に融通の利かないものだと思う。例えばこの劇団の若手で僕が最も注目している杉山夏美は、実に不思議な顔の持ち主で、場面ごとにすごい美人にもすごいブスにも見える。その不定形さ故に、彼女が出てくると片時も目を離すことができない。おそらくたきいみきという人は、普通の意味で美人であるが故に、逆にそういう力は持ち得ないと思う。だが今回はその整った美貌を、まさに能面のように使うことによって、実に面白い表現を見せていた。特に最初の登場シーンは秀逸そのものだ。
これまでは美加理の圧倒的存在故に若手がなかなか頭角を現せなかったのだろうが、ク・ナウカの女性陣は、美加理以外にも相当興味深い人たちが揃っている。その点を改めて確認できたのも、この公演の大きな収穫だった。


終演後、客の半分近く(?)が劇団の人と話をしていた。なるほど、そこまで内輪の公演だったのか。ブーツを履いて外に出た後、「しまった。そう言えば内装を写真に撮りたかったんだ」と思い出したが、今更戻るのも何なので、大人しく帰った。滅多に入れない旧細川侯爵亭、できればもう少し堪能したかった。


(2005年3月初出)

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