06/28/2005

【映画】『愛に関する短いフィルム』鎧を脱いだ天使への祝福

kieslowski_ai


『デカローグ』第6話「ある愛に関する物語」と、劇場版『愛に関する短いフィルム』について思い浮かんだことを少し。

『愛に関する短いフィルム』を初めて見たのは一昨年のことで、これまでに4回見ている。デカローグ版は今度で3回目だ。

両方のヴァージョンを繰り返し鑑賞する内に最も大きく変わっていったのは、主人公マグダに対する印象だ。初めて『愛に関する短いフィルム』でマグダを見たときの印象は、「何て嫌な女だろう」というものだった。あの性格も、崩れかけた肉体も、全てが醜く感じられた。そんな嫌な女が、後半になると愛しく見えてくるのが大きな驚きだった。

だが何度も見ていく内に、最初からマグダが嫌な女には見えなくなってきた。その後の彼女の変化を知っているからというだけではない。彼女が心の内側に抱えこんだ傷が、初めから見えるようになってきたからだ。

愛してもいない男を次々と連れ込んでは、その場かぎりの快楽に身を任せるマグダ。最初に見たときは、その姿に強い反発を覚えたものだが、何度も見ていく内に、彼女が自分の生き方に満足しているわけではないことがわかってきたのだ。もし満足しているなら、男と喧嘩して帰った夜、台所で一人涙することもなかったはずだ。
おそらく彼女もかつては純粋な愛を信じていた。しかしそれによってひどく心を傷つけられ、固く心を閉ざしたのだろう。「愛などない、あるのはただの肉欲だけだ」そう信じることで、彼女は自らの傷を癒し、もう二度と傷つかないように自分の心を防御してしまったのだ。

ウィリアム・ブレイクに「天使」という詩がある。
まるでマグダのことを歌ったとしか思えないような詩だ。


   私は夢を見た、
   何のしるしかな、
   私は未婚の女王様であり、
   おとなしい天使にまもられながら、
   たわいない悲しみを慰めれようともせず、

   ひるもよるも泣いていた、
   天使は私の涙を
   ぬぐってくれるけど、
   よるもひるも私は泣いていて、
   心のよろこびをおしかくした。

   かくて 天使は飛び去ったが
   火の朝がばら色にあからむ時、
   私は涙を乾かし、怖れで身を鎧い、
   一万の槍と盾とでまもった。

   やがて天使はまた訪れたが、
   私は武装していたので近寄るすべもなかった。
   そして私の若かった時はすぎ去り、
   頭は白髪になった。
    
   (土井光知 訳)


そんな風に自らの心を武装してしまった彼女も、心の底では今の自分の生き方が偽りであることを知っていた。いや、偽りであってほしいと信じていた。
 
郵便局の外で、トメクがマグダの部屋を覗いていたことを告白するシーン、その時の彼女の反応は印象的だ。今にも涙を流しそうな表情でトメクを突き放すマグダ。普通ならもっと怒っても良さそうなものなのに、彼女は警察に訴えることもせず、その晩からわざと彼を挑発し、試練を与え始める。

それは彼女が、無意識の内にトメクに希望を託していたからだろう。「好きな人の姿を見ていたい」ただそれだけの想いで行動するトメクは、実はかつてのマグダ自身の姿だからだ。
マグダはそんなトメクに近親憎悪とも言える憎しみを抱いた。だがもし彼が試練を乗り越え、想いを果たすことが出来たなら、自分ももう一度人を愛することが出来るかもしれない。傷つき固く閉ざした心を再び開くことが出来るかもしれない…心のどこかで彼女はそう思っていたのだろう。それは彼が自分の最も弱い部分、固く閉ざされた心の内側にある部分を、覗き見してしまったこととも関係あるだろう。

いくつもの試練をくぐり抜けていくトメク。

だがマグダのアパートに招かれたとき、彼はついにその試練から脱落してしまう。


トメクは愛を貫くことに失敗した。

だがマグダにとっては? 


そう、トメクの挫折は、図らずもマグダの心を開くことには成功してしまったのだ。


それはマグダが、純真なトメクの心を傷つけることで、初めて「加害者の心の痛み」を理解することが出来たからだろう。

ここで両者の立場は完全に入れ替わる。トメクは「愛に傷つき、心を閉ざした者」となり、マグダは再び「愛する者」へと生まれ変わる。


劇場版とデカローグ版では、ここからの展開が大きく違う。


まずデカローグ版から。

最後に晴々とした顔で「もう覗かないよ」と言うトメクの姿は、トメクと出会う前のマグダの姿だ。彼は人を愛することで深く傷ついた。そしてもう二度と傷つかないように、自分の心を閉ざしてしまったのだ。
孤独で自閉的な彼にとって、望遠鏡を通してマグダの姿を見ることだけが、外界との心のつながりだった。「もう覗かないよ」という言葉は、彼が外界に対して心を閉ざしてしまったことを示している。それを呆然とした顔で受けとめるマグダ。二人の立場が逆転し、自らの心は解放された代わりに、一人の青年をかつての自分と同じ孤独の牢獄へと追いやってしまった。その事実に彼女は愕然としているのだ。とても皮肉な終わり方だ。


次に『愛に関する短いフィルム』。

デカローグ版のラストの方が好きだという人が意外に多いようだが、僕はやはり何がしかの希望を心に残す、こちらのラストの方が好きだ。
と言っても、この先あの二人が幸せに結ばれることになるとは、僕には思えない。それはデカローグ版と同様、二人の心がすれ違っていることに変わりはないからだ。

ここでまた一つ引用を。山田詠美の小説『トラッシュ』から。


   「ねえ、きみ、解る? 人間関係の中で、被害者である人間は
    加害者でもあるんだ。そのことのわからない人間は、愚かだよ。
    ココは被害者だよ。でも、彼女は自分が加害者であったことも
    知っている。そうでないと人の心の痛み具合なんて気付きも
    しないんだ。今の君は被害者にしかなれない人間だよ。だから
    放漫だって言うのさ。きみはココを愛して不安だって言う。
    じゃあ、ココはどうなるの? 彼女が不安になったら、きみを
    恐がらせてしまうかもしれないと思って休むことが出来ないじゃ
    ないか。
    (中略)
    きみの休ませ方は、応急処置みたいなものさ。抱き締めるだけで、
    いいと思ってるんじゃない?」

   「ぼくが彼女に相応しくないって言いたい訳か?」

   「そうは言ってないよ。自分でそう思うのなら、相応しくなって
    みれば? 傷跡の整形手術に夢中になってないで、その傷ごと
    愛してやればいいじゃないか」


自殺を図った後のトメクは、かつてのマグダがそうであったように、恋することの「被害者」だ。そして何年もの間「被害者にしかなれない人間」であったマグダは、トメクとの出会いによって、自らの加害者性を自覚する。それによって彼女は、人の心の痛みを理解し、人を愛することの痛みに耐えられる人間として生まれ変わったはずだ。
一方トメクは「被害者にしかなれない人間」のままだ。彼の愛はとても純粋なものだ。しかし純粋さというものは往々にして「自分の心に対する純粋さ」を乗り超える事が出来ない。彼はマグダに恋することは出来たが、彼女の心の傷(その表れとして彼女はトメクを傷つけた)ごと愛することまでは出来なかった。劇場版の彼もまた、目を覚ませばきっと「もう覗かないよ」と言うことだろう。

しかし最後にマグダは、望遠鏡を通して、あまりにも美しい「愛のヴィジョン」を目撃する。それはおそらく実現不可能なヴィジョンだろう。それでもなお、あのラストが感動的なのは、マグダが生まれ変わったことを祝福しているかのように見えるからだ。

デカローグ版では、「せっかく人を愛せるようになったのに、今度はその相手が心を閉ざしてしまった」という皮肉が強調されていて、チェーホフの短編のような味わいがある。
しかし劇場版の方では、マグダの「再生」により重点が置かれている。テーブルの上のこぼれたミルクは、おそらく「IT IS NO USE CRYING OVER SPILT MILK」(こぼれたミルクを嘆いても仕方がない=覆水盆に返らず)という英語のことわざから来ているのだろう。マグダにとって「こぼれたミルク」とは、「被害者にしかなれなかった自分」であり、「それによって浪費した孤独な歳月」だ。しかしトメクの出現が、そのこぼれたミルクを忘れさせてくれた。人を愛することの痛みに耐えられる人間に、彼女を生まれ変わらせてくれた。


結果的にマグダとトメクが結ばれなかったとしても、マグダは再び人を愛することだろう。

トメクもいつの日にかきっと心を開き、今度こそ「人をその傷ごと愛せる人間」として成長していくことだろう。


そんな希望を感じさせてくれるがゆえに、僕はあのラストを愛してやまないのだ。


(1997年3月初出/2005年6月改訂)

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06/21/2005

【映画】『バウンス koGALS』あくまでも古典的な友情物語

最初に見たときは、かなり気に入ったものの、コギャル語がよく理解できないのが気になって、あまり大きな感動は得られなかった。そこでシナリオを読んでみたところ、映画を見たときには気づかなかった幾つものメッセージに気が付くことができた。あらためて映画を見直してみると、今度はシナリオという文字の世界では表せなかった映画的躍動感を随所に見いだし、その素晴らしさに感動。ラストは涙ものだった。

ただし一つだけ言っておきたい。この作品は大いなる欺瞞に満ちている。

それはここに描かれたコギャルたちが、大人の倫理観に基づいて描かれた理想像、すなわち絵空事的な優等生に過ぎないということだ。
この作品に対して「現代の女子高生たちの姿をリアルに描いた」などと言ったら、当のコギャルたちから笑われるのが落ちだろう。だいたい援助交際が主要モチーフになっていながら、実際のセックス行為がまったく描かれていないのはどうしたことか? 援助交際はおろか、同世代同士のセックスも全く描かれていない。サップなど、リサのためにあんなにボロボロにされたというのに、キスの一つもしていないではないか。今はかなりポピュラーになっているはずのドラッグも出てこない。それどころか、彼女たちは酒すらまともに飲まないのだ。何とまあ人畜無害で安全な子どもたちだろう。
一見不可解きわまりなく、金と遊びとセックスにしか興味がないようだが、実は友情に厚く、根底の部分では中年世代とも共闘できる存在…これが「大人にとって都合のいい理想的コギャル像」でなくて何だろう。しかも大人の世界で「いい人」は、ヤクザやブルセラショップの店長など社会の裏側に生きる人たちばかり。一方東大出の官僚は金に汚い変態野郎。この設定って、あまりにもステレオタイプではなかろうか。せっかくコギャルとその周辺文化を描きながら、批評的な視点は極めて浅いものにとどまっている。

つまりこの作品は、若者ではなく大人のためのファンタジーであり、極めて古典的な友情物語なのだ。それ以上でもそれ以下でもない。したがって僕は「この映画を主人公と同世代の人間に見せなくては意味がない」というような言葉にはまったく賛同できない。もちろん本物のコギャルたちが見ても、古典的な友情物語として一定の感動はすることだろう。しかし同時に「この人は身体障害というハンディキャップにも関わらず、こんなに努力して偉い人になったんですよ」といった映画に通じる、作者の「視線の高さ」に欺瞞を感じ、反発を覚える可能性も高いと思う。

だがどうあがいたところで、僕自身は決して現代の女子高生ではなく、旧世代に属するおじさんだ。だからこそ僕はこの映画に感動する。素晴らしいファンタジーとして。古典的な友情物語として。そしてバウンスというタイトルにふさわしく、いつも飛び跳ねているような映画的な躍動感に対して。

ラストに流れるUAの「水色」は最高だ。イントロが途切れ、ボーカルが入ってくる一瞬に、スパッと黒落ちしてエンドクレジットになった時の気持ちよさたるやもう… あれ以来UAのアルバムをひっきりなしに聴きかえしている。


(1997年12月初出/2001年1月改訂)

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06/17/2005

【映画】『バットマン&ロビン Mr.フリーズの逆襲!!』短評

あまりの悪評に、何の期待も無しに見たからだろうか。僕はなかなか楽しめた。少なくとも、うるさいだけの悪役と鬱陶しいだけのヒロインばかりが目立った『バットマン フォーエヴァー』よりは遙かに良くできていると思う。

宣伝では主役扱いになっているシュワルツェネッガー、新バットマンのジョージ・クルーニー、フェロモン全開のユマ・サーマンなど、出演者が皆なかなか魅力的。アクションも非常に派手。前回では明るすぎた画面も、今回はぐっとダークなものに変わり、その暗い映像の中で原色の派手な色彩が動き回る様は見物だ。あの蛍光塗料集団(笑)を筆頭に、街のワルどもがなかなかチャーミングなのも気に入った。

僕はティム・バートン版バットマン(特に『リターンズ』)の大ファンであり、それだけに前作『フォーエヴァー』にはがっかりしたのだが、この作品を見て、「シリーズものとしてはこれでいいのだ」と納得した。大体シリーズ4作目にもなって、まだブルース・ウェインが幼少期のトラウマに悩む姿を見たいという観客がいるものだろうか? それではどうあがいても「『リターンズ』には及ばないね」で終わるのが落ちだろう。
クルーニーがインタビューで「30過ぎの男がいつまでも両親の死を嘆き悲しんでいたって、観客は共感してくれないよ」というようなことを言っていたが、その通りだと思う。だからこそ今回は『リターンズ』のように「失われた家族」の話ではなく、「新たな家族を作り上げる」話になっているのだろう。「善でも悪でもないバットマン」というキャラクターも、ヒーロー・アクションとしてシリーズを続けていく前提に立てば、いずれは切り捨てざるをえないものだ(それを中途半端にやって、矛盾で自滅していったのがゴジラの新シリーズ)。このいさぎよいキャラクターの変更と純粋娯楽路線への転換を、僕は支持する。
ティム・バートン版とどちらが良いかと言えば、言うまでもなくバートン版だが、それとは全く別の作品として、そしてシリーズの4作目としては、これで良いのだ。一つ特筆しておきたいのは、台詞も含め、全編が非常に性的な暗示に満ちていること。これは思わぬ新機軸だった。

主な欠点も上げておくと、上映時間が長すぎて、クライマックスのあたりで少し飽きてくること。もっとコンパクトにまとめて欲しかった。そして美術セットにムチャクチャ凝ってる割には、人間に金を使っていない(?)こと。パーティー会場に並んだ顔の貧乏くささには、とても悲しくなった。


(1997年8月初出/2001年1月改訂)

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04/18/2005

【映画】『フープ・ドリームス』 ドラマよりもドラマチック

バスケットボールの選手として活躍する二人の少年、およびその周囲の人たちを、約4年間にわたって追い続けたドキュメンタリー。全米映画批評家協会賞、サンダンス映画祭観客賞、ロサンジェルス批評家協会賞などを総なめにし(大本命とみなされていたオスカーだけはなぜか逃した)、プレミア誌では『パルプ・フィクション』や『フォレスト・ガンプ』を押さえて、年間ベストワン作品に選ばれたそうだ。


ドキュメンタリーと聞いて「地味で疲れそう」などと思ったらとんでもない! これが本当にエキサイティングな映画になっているなのだ。同じバスケットの名門高校に入った二人の少年が、やがてまったく違う道を歩みながら、それぞれの挫折と喜びを経験していく様は、宣伝コピー通り「どんなドラマよりもドラマチック」だ。

第一これはドキュメンタリーではあるものの、明らかに「事実を再構成して作られたドラマ」だ。編集にもはっきりとした演出意図が見える。その虚実を推し量っていくのも一興だ。しかしこの作品が仮に事実の一断面を拡大解釈したものだったとしても、そこに「人間的真実」とでも言うべき何かが宿っていることは間違いない。

一言で言えば、この作品には「人間」というものが描きこまれている。特に声高なメッセージがあるわけではない。しかし僕自身とはまったく違う環境に生きる彼らの人生に、これだけ一喜一憂できるのは、そこに普遍的な人間性が描かれているからに他ならない。ドキュメンタリーとしてただカメラを回せば、そこに人生が映るわけというものではない。監督の確かな視点が、この膨大な記録映像の中から、人生を描きだしたのだ。

映画的なテクニックの確かさも特筆に値する。169分もあるこのドキュメンタリーを見て全く退屈しないのは、編集に極めて優れたリズム感があるからだ。特にバスケットの試合のシーンは、仰角を多用したカメラアングルも含めて、まことに素晴らしい。
念のために言っておくが、僕はバスケット・ボールには何の関心もない。その僕が思わず手に汗握り、肝心なところでシュートが外れると思わず「ア〜ッ!」と声を出してしまったのだ。どれほど映画的に優れているか、その一事からもわかることだろう。もちろんバスケットが好きな人が見ればさらに楽しめるに違いない。


一つだけ欠点を言うなら、もともとテレビ用に作られた作品のためか、全編がビデオからのテレシネで、映像そのものはお世辞にもきれいとは言えないこと。それゆえの独特な生々しさはあるが、16ミリフィルムで撮られていたら、もっと良かったのに…と思わずにはいられないが、その程度の欠点を補って余りある魅力に満ちている。

金を払って劇場でドキュメンタリーを見ることに抵抗がある人もいるようだが、このような傑作にそんな形式など関係ない。もし「真に優れた映画」「人間の真実のドラマ」を見たいと思うなら、ぜひ劇場に足を運ぶべきだろう。ヒップホップ系の音楽も最高。


(1997年6月初出/2001年1月改訂)

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03/17/2005

【映画】『吸血鬼ゴケミドロ』 最大の恐怖は人間のエゴイズム

この作品は、小学校の頃テレビで見たように記憶していた。だが今回見直してみると、「見たような、見ないような…」と自信がなくなってきた。佐藤肇監督は『キャプテン・ウルトラ』の監督だったので、同じようなテイストの作品はさんざん見ているはずだ。何か他の映画と混同しているのかもしれない。まあ見ていたとしても、四半世紀も昔の話だから、今回が初見のようなものだ。


その感想だが…「ムチャクチャおもしろい!\(^o^)/」


先ほど『キャプテン・ウルトラ』の名前を出したが、子供の頃ああいうものを見て育った人間には、涎が出そうな代物だ。いや、そんな趣味の問題を抜きにしても、これは必見の傑作だろう。

一言で内容を言うなら、和製『遊星からの物体X』だ。しかしこの作品の製作は1968年、ジョン・カーペンター版よりも遥か前だ。『物体X』の旧バージョンは未見なので断言は出来ないが、カーペンターも、この作品から少なからぬ影響を受けたのではないだろうか。

とにかく恐怖演出がうまい。特撮は今の目から見れば当然チャチなものだが、映画としての丹念な作りが、それを補って余りある。
特に素晴らしいのは、ほぼ全編にマゼンタ系のフィルターを使った撮影。これが非現実的なドラマを否が応にも盛り上げる。それをより強調する照明もすごい。ゴケミドロに襲われた人間の顔から血の気が失せていくところも、照明の効果だけでちゃんとそう見える。何気で構図が斜めになっていたりするところもうまい。一切無駄のない編集も秀逸だし、ヒュ〜ドドロドロというテルミン使用の伝統的恐怖音楽(笑)もやたらと盛り上がる。

ジャンルで言えばSF恐怖ものなのだが、一番の見所は、極限状況における人間のエゴイズムを容赦なく描いているところだ。客席の反応は実に興味深いものがあった。最初の内はみんな緊張して、まったく声がなかったのに、後半になって、登場人物がそれぞれのエゴをむき出しにしてくる辺りから、笑いが漏れるようになったのだ。そしてこの「笑い」というのが、「バカバカしくて笑ってしまう」「あまりにあり得ないことなので笑ってしまう」という、普段大井武蔵野館で聞くことの出来る笑いではなく、「あまりにもリアルで笑ってしまう」「笑わないことにはやってられない」というひきつった笑いなのだ(特撮のチャチさに対する失笑も時々混じったが)。

何がそんなにリアルなのか? なぜ笑わなくてはやってられないのか?

要するにみんな思い当たる節がある、ということだろう。つまり他人を犠牲にしてでも、自分だけは何とか助かろうとする連中の姿を見て、「自分もこういう状況に置かれたら、こんな風になるんだろうなあ」と思い、その事実をごまかすために笑うしかなくなるのだ。
「千載一遇のチャンスだから、ぜひ吸血の現場を見たい」と言い出す科学者、「外人なら何かと後腐れがないから、あの女を生け贄にしよう」と言い出す政治家。この辺りの描写で、特に笑いが漏れたのだが、それはこれらの発言が「決してあり得ないもの」ではなく、むしろ「あまりにもありそうなこと」だから笑いが漏れるのだろう。もしこれを「あり得ない」と思う人がいたら、その人はホロコーストでも731部隊でも何でもいいから、戦争中に行われた残虐行為について少し勉強すべきだろう。僕が「外人なら…」で特に思い出したのは、関東大震災における朝鮮人の虐殺だったが…。
そしてさらにすごいのは、生け贄にされかかった女までが、仕舞いには自分だけは生き残ろうと本性をむき出しにする展開。本当、この辺になるとひきつった笑いをもらす以外、どうしていいのかわからなくなってくる。

佐藤肇監督は、この傑作を最後に、25年以上も映画を撮れないまま、66歳で亡くなられたそうだ。せめてこの人が東映でなく(ゴケミドロは松竹作品)、特撮ものを得意とする東宝の監督だったら、もう少しは活躍の場を与えられたはずなのに…残念でならない。

日本映画史に残る異色の傑作『吸血鬼ゴケミドロ』。未見の方は、何とか機会を見つけてご覧になることをお薦めする。

(1997年4月初出/2001年1月改訂)

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03/03/2005

【映画】『CURE』短評

日本映画の異端のモニュメントとして歴史に残る大傑作。これを
見ずに21世紀を迎えてはならない。何を差し置いても見に行くべし。
ただし見終わった後どれほど嫌な気持ちになっても、当方は一切
関知しないのでそのつもりで。

黒沢清の客観的/即物的な演出が異常なほどの効果を上げている。
例えば「窓から飛び降りる人間→下でピクピクしている人間」を、
あそこまで突き放して描写できる感性は尋常ではない。それが異常
なほど寒々しく、荒涼とした美しさをこの作品に与えている。

ただし「意図的」というには、あまりにも説明不足な部分がある
ことも確かだ。この辺の論理的な繋がりは、黒沢清自身の手になる
ノベライゼーションを読めばよくわかるのだが、あえてサブテキスト
に頼ることなく、2回3回と見直して、独自の解釈を与えていくのも
また一興だろう。

タイトルの「CURE」とは「救済」の意味。この作品で「救済」
されたものは一体何だったのか? なぜこの作品が1997年の日本に
出現しなくてはならなかったのか? 考えれば考えるほど刺激的で、
感じれば感じるほど魅惑的だ。


(1997年12月初出/2001年1月改訂)

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